02 ほんの偶然

 ――困っているように、見えたのだ。

 実際、間違いなく、困っていただろう。

 だがそれは、彼が想像したような理由によるものではなかった。

 そのときの彼が、もし少しでも嫌な気分だったり、何かに腹を立てていたり、単純に懐が寂しかったりすれば、その場をあとにしただけだったろう。彼以外の、賢い人々と同じように。

 しかし彼は生憎と、そのとき上機嫌だった。隊商トラティア警護の仕事を順調に終え、懐も潤い、心にも余裕があった。

「どうした?」

 彼は子供に声をかけた。

 その広場を通りかかったのは、 たまたまだ。

 何しろ彼は帰ってきたばかりで、どこへ行こうとも決めていなかった。まずは定宿に戻って荷を置いてこようかとも、その前に酒場で一杯とも、どちらにしようかと迷うことさえ、まだしていなかった。

 何も考えずに歩いていると、何の意味もなく前の人間に釣られるように歩いてしまうことがある。そのときの彼もそうだっただけだ。

 意図したのではない。たまたま角を曲がって、たまたま通りかかった。

 それを人は、運命と呼ぶのか。

「気分が悪いのか。それとも、腹が減ってるのか」

 話しかけると、子供はしゃがみ込んだままでくいっと首を持ち上げると彼を見上げた。青い目が、彼の焦げ茶の瞳と交わる。

 うずくまった姿を見て予想したより、子供の年齢は上だった。

 十かそこらだろうと思ったのに、もう、三つか四つは育っているようだ。しかし、おそらくまだ十五の成人は迎えていない。

 ぼさぼさの黒い頭と、古びた衣服。汚れた顔。病的に痩せているようなことはなかったが、細身だ。戦士キエスたる彼の目からするとがりがりだが、痛々しいほどではない。

「……んの……た……」

「何?」

 子供は何か言ったが、声が小さすぎて聞き取れなかった。

「どっか痛いって感じじゃないな。やっぱり腹を空かしてんだろう。ちょっと待ってな」

 そう言って彼は、辺りを見回した。

 久しぶりに帰ってきたこのコミンの町は、言うなれば彼のねぐらだ。生まれ育った場所ではないが、この町を拠点に定めてあちこちをうろつくようになって十年は経つ。

 ここは第二の故郷とも言える、馴染みだ。誰も彼もが親しい友人とまではいかないが、知った顔を見ようと思えば一街区も巡らない内に可能だろう。

「おや、珍しいね」

 入った店で、おかみが片眉を上げた。

「どういう風の吹き回しなんだい。粉物なんかじゃ力が出ないと、うちの商品を毛嫌いするくせに」

「嫌ってる訳じゃないさ。ただ、そんな気がしちまうんだから仕方ない」

 戦士は肩をすくめた。

「その丸いやつをふたつばかり、もらえるか」

「そりゃあ、金を出してくれるなら誰だってお客様さ」

 女は笑って、麺麭パン――ホーロと言われる丸い塊をふたつ、紙袋に放り込んだ。

「これで、うちの品を見直すといいよ」

「生憎だが、俺が食うんじゃないんだ」

「何だって?」

「すぐそこに」

 と、彼は戸口の外にあごをしゃくった。

「腹を空かせてぶっ倒れそうなガキがいるんでね」

「おやまあ」

 おかみは目を見開いた。

「物乞いにやる麺麭はないけれど、子供じゃ気の毒だ。いいよ、金は要らないから持っていきな」

「そうか? すまんな」

 彼はその好意を受けることにした。

「今度は粉物も馬鹿にしないで、食ってみるよ」

「どうせ口ばかりだろうけれど」

 女は唇を歪めた。

「その日を楽しみにしとくよ、タイオス」

 ヴォース・タイオスは笑って手を振り、麺麭屋を出た。次には、昼間の屋台営業をはじめようとしている親爺を見つけ、鶏出汁の汁物を買う。

 そうして子供のところに戻れば、子供は「待て」と命じられた猟犬テュラスのように、じっと同じ場所に座っていた。

 いなくなっているかとも思ったが、本当に動けないほど、空腹なのかもしれないと考えた。

 タイオスがそう考えるのが不自然ではないほど、子供はずいぶん酷い顔色をしていたのだ。

「ほらよ」

 戦士は湯気の立つ木椀を差し出した。子供は数トーアの間、黙ってそれを見ていた。

「どうした。食っていいんだぞ。これも」

 椀をじかに地面に置いて、彼は次にホーロを差し出した。だが反応は同じだ。

「……ない」

 かすれるような声が言った。

「何だって?」

「払う、金は、ない」

 今度は聞き取れた。少しろれつが回らない感じ。これが大人の男なら、酔っ払いか幻惑草中毒者かと思うところだ。

 だがおそらく、空腹や疲労がそうさせているだけだろう。タイオスはそう判断した。

「要らんよ。勝手に買ってきて金を払えと言うなんざ、まるで要らないものを押しつけて代金を請求する悪徳商人か、性質たちの悪い盗賊みたいじゃないか」

 顔をしかめてタイオスは言い、再三、食べるように促した。

「心配しなくていい。金は要求しない。いや、代わりの物品も求めないし、捕らえて売り飛ばす計画でもない」

 安心させるように笑みを浮かべて見せた。

 だが子供は、手を伸ばそうとしない。

「……も」

「何?」

 声がか細くて聞き取れない。彼は耳に手を当てて、子供の言葉を聞こうと努力した。

「誰も、信じるなと、言われている」

「まあ、世の中厳しいからなあ」

 タイオスはそう感想を述べた。

 飯を食わせてやる、などと言われてのこのこついていったらどこかに売り飛ばされた、ということも珍しい話ではない。人身売買はたいていの街町で禁じられているが、禁じられるということは影で横行しているということでもある。

 実際、赤ん坊から二十歳ほどまで、どういう目的だろうと金を払って手に入れようとする人間がいる限り、人攫いと奴隷商人はいなくならない。

「何か企んでいる人間だって、『何も企んでないから安心しろ』とは言うわな。だが俺は現状、俺の感性で考える限り財布は充実しているし、後ろ暗いことに手ぇ出すつもりもない。お縄を頂戴する羽目になったら、護衛戦士の仕事なんざ回ってこんからなあ」

 倫理観のない護衛を雇いたがる隊商主などいないに決まっている。山賊に報酬をちらつかされて、護衛を放棄でもされてはたまらないからだ。

「何だ? 俺の事情なんか知るかって顔だな。なら俺も言おう。お前の事情なんか知るか。ただ、明日になって、この場所でガキが餓死してたなんて聞いたら気分が悪いなと思う、それだけの理由でをやるんだ」

 ぐい、と中年戦士は麺麭を子供の鼻先にまで押しつけた。

「受け取れ。要らないのなら、罰当たりな話だが、捨てろ。おかみに見つかりゃあ俺は怒られるだろうが、ガキの代わりにウィグを救ったとでも言っておくさ」

 子供はきゅっと唇を結んだ。だが、麺麭のいい匂いを前に、もう我を張ることは不可能だったと見えた。これ以上ない素早さで手を出すとタイオスからほとんど奪うようにして麺麭を受け取り、大口を開けて食らいついた。

「おいおい」

 タイオスは笑った。

「ゆっくり食え。汁物もな。ゆっくりだ。腹ぁ、痛くするぞ」

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