第8節 そんな根性が俺にあるのか
龍崎が自宅前に着いたのは午後17時を回っていた。
葵は受験関係で悩んでいたとして、その悩みが赤椿高校への推薦であったとして、学力に問題でなかったとして、一体どんな障害になって葵は困っているのか。
(簡単すぎる)
結局、世の中はそれが無いと始まらないのだと。
龍崎は玄関を開け、靴を脱ぐと、そのままリビングへ向かう。自分が勇んでいることを自覚していた。だが、なんとなく、ここで話をしておかなければタイミングを逃してしまうのではないか、そんな気持ちになっていたのだ。
龍崎はリビングに続く扉のドアノブを掴み、開ける。すると視界にはソファに座る葵の後ろ姿があった。急いでソファの正面に回り込み、葵の顔を覗き込む。だが、
「――寝てる、だと」
龍崎は口を開け「はは」と笑ってしまった。気合を入れて妹の元へと向かい、なにもかもを聞いてしまうつもりでいたのだ。にもかかわらず、葵が寝ていたが為に、気が抜けた。出鼻をくじかれたのである。
同時に龍崎は複雑な心境でもあった。葵の悩みを聞いてやれないことで『カワイガリ』が弱体化できないと焦る気持ち。とりあえず今は葵と正面切って会話しなくてすんだことに、ホッとしている自分に気が付いたこと。この2つの気持ちを抱えていた。
「いや、いやいや。やっぱ‥‥‥ここは兄として妹のために快適な睡眠を提供するべ――」
と、龍崎は自分に言い聞かせ、立ち上がろうとしたその瞬間、葵の眼が開く。
「―――やべ」
龍崎はそんな声を出して、その場から動けなくなった。
葵は寝ぼけまなこで周囲を見渡し、真正面に龍崎がいることを不思議に思ったのか、小首を傾げた。
「お兄ちゃん‥‥‥なにしてんの?」
そこでつい、龍崎は逃げ出したくなってしまった。だが、葵の隣に腰を下ろした。
「いや、なんでもない。てか、なんで先に帰ったんだ?」
「あー‥‥‥ごめん。浮舟先輩には悪いことしちゃったな。怒ってた?」
葵は視線を地面へと落し、呟くようにして喋った。
「いや、怒ってなかった……けど」
「わかった。謝っておくから気にしないで‥‥……でも、なんであんな感情的になったんだろ」
葵は額に手を当てる。まるで頭痛でも抱えているかのような素振りである。
(―――カワイガリ)
カワイガリが湧いた人間には、疑似的な反抗期のようなものが発生する。一ノ瀬もそうであったように。そして昨日、葵も『カワイガリ』の影響のようなものを、龍崎に見せている。
「わかった。それでいい……でさ、葵」
と、そこで龍崎は葵の顔を見て、つばを飲み込んだ。いま、言わなければ機会を逃してしまうだろうと感じているのだ。だが、その話したところで問題はきっと解決はされない。『カワイガリ』が弱体化されようが問題の根本は解決しない。だが言わなくてはいらない。原因の一部は間違いなく自分にもある。例えばそれは、自分が私立高校に通っているという事実。
龍崎は息を深く吸ってから、ゆっくりと口を開いた。
「葵‥‥‥お前、赤椿高校の推薦貰えそうなんだってな」
と、一気に龍崎は言い放った。それだけで口の中はカラカラに乾燥した。
すると葵は、すこしばかり顔をしかめる。
「浮舟先輩‥‥‥誰にも言わないって言ったのに…‥‥」
「いや、俺が無理やり聞いた。アイツは悪くない」
「‥‥‥あっそ。で、それがどうしたのお兄ちゃん?」
葵は龍崎を睨みつける。
龍崎は一瞬だけ視線を反らしそうになったが、なんとか踏ん張る。
「葵は……浮舟から『赤椿高校を受験したら?』って質問をされても渋っていたろ。それは‥‥‥……その……金のこと、だろ?」
龍崎は涼香の話を聞いて思ったのだ。
受験するだけの学力もあって、動機もあって、モチベーションもある。そして間違いなく葵の能力を一番高めることができる場所である赤椿高校。それなのに、なぜ受験を渋るのか。それは結局、赤椿高校が私立であり、学費もそれなりに必要であるからだ。なぜそれを気にするのかと言えば、やはり叔父に援助してもらっているという立場がそうさせるのだろうと龍崎は思い至ったのだ。
と、そこで葵は小さくため息を付いて、龍崎から顔を反らした。
「‥‥‥そうだよ。お兄ちゃんに言うつもりもなかったけど。でも、半分あってるけど‥‥‥もう半分は違う」
葵は腕を力なく両膝の上に投げ出し、息を吐きだした。
「今日は涼香さんと話したのは学費関係のこと。どのくらい必要なのか、いつどのくらい必要なのかってこと。赤椿高校のパンフレットに書いてある年間の必要額をそのまま信じる気にはなれなかったから」
「それは‥‥‥そうか」
龍崎も自分の通う高校に入学する前のこと、そして入学後のことを思い出す。私立の学校に通うのにはお金が何かと必要である。学費だけでなく、年会なんとか費、年間学習なんとか費など様々な○○費が存在している。学校側の説明資料はあまり信用ならない、とは言えないが、予想外の出費は絶対的に存在しているのだ。
と、さらに葵は朗々と歌い上げるようにして喋る。
「ま、そもそも赤椿高校は学費自体が他の高校に比べて高いんだよね。それに留学とかも授業にあるし、専門性の高いカリキュラムもあるし」
「まあ‥‥‥そうだな」
「お兄ちゃん‥‥‥知らないのに適当なこと言わないで」
葵は、龍崎を睨みつける。語尾が荒く、言葉には棘がある。
「少なくともお兄ちゃんの通ってる高校よりかはレベルが上だから、そういうのがあるの」
と矢継ぎ早に言葉を発した。
龍崎は葵の言葉に眉毛をひそめる。どこか当てこすりのような感情が含まれていると思ったからだ。
「で、半分正解ってのはそういうこと。つまりはお金。で、あとは‥‥‥学力の問題」
「え? ……いやでも、赤椿高校の推薦貰えるぐらい勉強ができるんじゃ‥‥‥」
「推薦で入るから色々とあるの。学力が優秀な人間の学費は免除される‥‥‥例えば推薦で入った人は特待生って扱いになる」
「……それってつまり」
すると葵は龍崎を見下すような視線を送り、小さく舌打ちをした。
「私が推薦とか特待生とか。そういう制度で入れば学費とか免除される」
学費免除……龍崎は口を開きかけた。「なら金の問題も関係ないだろ」と言いたくなったのだ。それに学力の問題であるならば、どうしてここで学費の話をぶり返すのか、それが謎であった。
すると葵は、すぐさま口を開く。
「その為には半年に一回の審査に通らないといけない。それを3年間。ずっと、ずっと学年上位の成績をキープし続ける」
そう言った葵は龍崎に視線を向ける。
「私‥‥‥そんなに頑張れる自信がないの。審査に落ちたら学費が必要になるし、一般で入ったら学費が高いから叔父さんに迷惑をかける。だから赤椿高校には行かない」
「いや……でも実力があるならお前‥‥‥」
「叔父さんにこれ以上迷惑をかけられないから」
「待てって葵。叔父さんも叔母さんも、お前のためなら‥‥‥」
瞬間、龍崎は言葉を失う。葵の目に、涙がうっすらと浮かんでいたからだ。
葵は小さく溜息をついて、龍崎から視線を外し、言った。
「兄ちゃん‥‥‥叔父さんだからってなんでも頼っていいワケないでしょ。叔母さんがお兄ちゃんのこと嫌っているの……知ってるよね?」
「――――っ」
龍崎は息を飲む。そのことが葵に気が付かれているとは思ってもみなかったからだ。
が、葵はなおも口を開く。
「でも叔父さんは私たちを援助してくれる。叔母さんから庇うようにして。それなのに、これ以上叔父さんにワガママなんて言えないよ。だから私……推薦の話は諦める」
葵の眼は赤く、涙を溜めているが、滴となって頬を伝うことはない。
そんな葵の顔を龍崎は見ていられなかった。葵は悲しんでいる、だがそれ以上に彼女は、諦めようとしているのだ。やる気や努力の問題などではなく、自分が置かれた環境のために。
龍崎に頭の中はグルグルと思考や感情が渦巻いている。
龍崎兄妹は叔父の世話になっているのは事実だ。もし叔父の援助がなければ然るべき手段に従い、龍崎兄妹は施設行きになっていた。そのことは運がよかったとおも言える。
だがそもそも、なぜ叔父の世話になっているのかと言えば、それは結局、両親がいなくなってしまったことが全ての原因なのだ。
誰かが言うだろう。世話してくれる人が見つかっただけまし、住む家があるだけまし、高校に通えるだけまし。
誰かが言うだろう。「お前よりも辛い環境の人間は沢山いる」、「たいしたことはない」、「でもそんな状況でも頑張らないと」、「努力しないと」。そして果ては……果ては自己責任であるとも言うのだ。自己責任、本当にそうだろうか。葵が置かれている環境や境遇や状況が自己責任なのかと。いった何を選んだ結果として、責任を負っているのだろうか。
だが、そもそもの親は選べないのだから、初めから選んでなどいないのだと。こうなるしか、道がなかったのだ。
龍崎は葵の肩に右手を伸ばしかけて、その手を引込める。
(―――慰めてどうなる)
葵にこんな悩みを産ませない方法。それは結局、葵をなんの憂いもなく赤椿高校を受験させること。葵が赤椿高校を諦めようとしている原因は結局、金の問題である。金という後ろ盾があれば、心配ごともなく赤椿高校に通うことも可能。そして推薦なり特待生で入学してその後、審査に落ちて授業料が必要になったとしても、金という後ろ盾があることでなお、通い続けることが出来るのだ。金さえあれば、葵の学力を考えた場合、なんの弊害も無くなるのだ。ただ、その金を工面する能力が龍崎にも葵にもない。叔父は親戚ではあるが、そんな迷惑を掛けられないと葵は言っている。
(だが、ならば)
葵の憂いを消す為に自分が金を稼ぎながら高校に通う、だが現実的ではない。全日制の高校に通いつつ、しかも葵の学費を稼ぎつつ、というのは無理がある。効率を考えるのであれば自分が全日制の高校を中退し、定時制か通信制の高校に通い直し働くという方法。
(そんな勇気が俺にあるのか)
将来性のあるのは間違いなく葵。その為に龍崎が働き、葵の学費を稼ぐというのは、合理的である。さらに言えば葵が 彼女自身の能力の問題ではなく、ただ単に自身の環境のせいで思い悩むのが、龍崎には辛抱できそうになかった。だが、それでも「今の高校を中退して、働きながら定時制なり通信制なりに入り直して働く」という決断が龍崎にできないのだ。
(そんな根性が俺にあるのか)
龍崎は顔を上げ、葵を見た。俯いている彼女の顔は、垂れ下がった髪に隠れ表情を窺うことはできない。
と、龍崎の耳に葵が息を吸った音が届く。自然と彼の意識が彼女へと向かう。
「出来れば私、赤椿高校に行って大学にも行きたいの。勉強ができるからって言うのは可笑しいかもしれないけどさ、私、あんな親みたいになりたくないから」
龍崎は少しばかり目を見開く。葵が両親について感情を吐露する姿が非常に珍しいからだ。
「‥‥‥それは分かってる。あんな人間になるなんて冗談じゃない」
そう言って龍崎が思い浮かべるのは、いい歳をして髪の毛を金髪に染めた粗暴な男と、パーマの当て過ぎで痛んだ茶髪とバカみたいに化粧を塗る姿だけであった。
「だから私は。私はアイツらと真逆の人間になってやりたいの。生き方も考え方も、仕草だって全部。だから私は……」
葵の言いたいことが、龍崎には酷く理解できた。
両親を否定したくてたまらないのである。
自身の中に同じ血が流れているのがたまらないのである。
そうやって否定しなければ、どこまで同じ人間であると実感してしまうからだ。ふとした動作、ふとした仕草、ふとした思考方法。それが両親のどちらかと同じであると感じたとき、龍崎は酷い嫌悪感に襲われるのだ。
そしてそれは葵の同様なのであろう。彼女は努めて両親とは真逆の人間になるべく、日々を過ごしている。
だが、それでも全身に流れる血が、家族と言う名の呪いが、龍崎と葵を縛り付けるのだ。その鎖はどんな素材よりも強固であり、やすやすと切れたりはしない。
「‥‥‥葵が考えていることは、分かった」
分かったから、なんだと言うのだろう。
自分の力では何もできず、解決する能力もないのに、なにが分かったのだろうと龍崎は思うのだ。ここで「俺が働くから学費のことも、叔父さんへの遠慮も必要ない」とでも言えば、まだ言い訳が立つ。
だがその決断を下すほど大人にはなれない。
何かを捨て、何かを得るという判断であるのは間違いではないのだが、だからと言って直ぐに決断ができるほど大人になれない。そもそも、それを大人の判断だと呼ぶのかすらわからないのだ。だから龍崎はなにも言えない。
「ごめん‥‥‥こんなことお兄ちゃんに言ってもどうしようもないよね。私、絶対に受かるレベルの公立目指すから」
葵は目に浮かべた涙を、指先で拭った。
龍崎は酷く残酷なことを葵にしていると実感しながらも、何もできない。
ただ「俺が学費を稼ぐ」と言えば済むはずなのに、勇気がないのだ。葵のためにと言いながらも肝心なところで、何もできないのだ。
龍崎はそんな自分の気持ちを誤魔化すために、葵をその場に残し、自室へ向かった。部屋に入り、ベッドに身体を投げ出し、ただただ天井を見上げていた。
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