第8節 お前。なんか……悩んるだろ?
龍崎は泣いた。葵の反抗期に。
龍崎は「葵が作ってくれた晩御飯を食べよう」と意気揚々と帰宅してみたところ、葵は一人テーブルに座り黙々と箸を動かしていた。彼女の前にはご飯とみそ汁、がんもどきに、焼き魚がそれぞれ皿に盛りつけられていた。
だが、龍崎の晩御飯はなかった。炊飯器で炊いたご飯も、きっかり一人分だった。
「あ、あれ? 葵ちゃん。俺、ごはんいらないとか言ったっけ?」
龍崎は今まで妹に対して発したことのないレベルの猫なで声を発した。葵が顔に怒りの表情を浮かべていたからである。
「あの葵ちゃん。なんか喋ってくれないかな? 俺の飯‥‥‥」
葵は何も喋らず、黙々と箸を動かし続けている。
龍崎は頭を動かす。
何か不機嫌にさせることをしたか、何か怒らせることをしたか、何か見せてはいけないモノを見せたか。だが先ほどの一件はすでに話の決着はついている。葵に「アレは違う」と浮舟を見送る前に弁明をしたところ、苦笑いを浮かべて「まあ、お兄ちゃんもそういう年ごろだよね」と言っていた。誤解は解決していないが怒っている様子はなかった。そもそも葵は、Hな本が見つかったときだって「キモ」とだけ言って、許してくれたのである。昨日の夜は優しかった今日の朝も優しか……朝。そこで龍崎は思い出す。SE・N・ZAIであると。
「わかったぞ葵! 洗剤だな! 洗剤を買って来るの忘れてた! ゴメン!」
龍崎はそう言って葵の正面にある椅子に座り、彼女の両手を取った。昔から、妹である葵の機嫌を直すときは、このような行動をしているのだ。が、しかし。
「触らないでよ。ホントお兄ちゃんってキモイよね。死ねば?」
そう言われた龍崎は、少しばかり涙目になりながら自室へと引き上げ、ベッドに突っ伏した。ベッドのスプリングがギシリと軋む。
龍崎の頭の中に浮かぶのは葵の顔。あれほど優しかった妹は死んでしまったのだろうか。そう思ってしまうほどには、先ほどの葵は恐ろしい眼をしていた。
それからしばらくの間、龍崎はベッドの上でゴロゴロしながら葵との思い出に浸っていた。が、同時に思い当たるフシがある。
「『カワイガリ』の影響ってやつか」
と、龍崎はつい先ほどの涼香との会話を思い出す。疑似的な反抗期、のようなもの。ならば、仕方がない。これは時間を待つしかない。
―――と、そのとき。
龍崎の自室の扉がとんとん、とノックされた。彼は反射的に「どうぞ」と答える。答えてしまってから、誰が入ってくるのか直ぐに分かった。この家には龍崎兄妹しかいないのだから。
そしてその通り、ゆっくりと開かれた扉の向こうには葵が立っている。猫が見慣れぬオモチャに忍び寄るような足取りで、龍崎の元へとやって来た。
「‥‥‥あの、お兄ちゃん。さっきはごめん」
葵は唐突にそう言って、龍崎に向かって小さく頭を下げた。
龍崎は「あ、いや」とだけ言って身を起し、葵を椅子へ座らせた。
「あーえっと……洗剤を買い忘れたのは俺が悪い。すまん」
「いや、そっちじゃなくて。私、なんであんなに怒ってなのかわからなくて。ホントなんでだろう……」
葵はそう言って額に手を添え、小さく溜息をついた。
が、龍崎はなにも言えなかった。それは『カワイガリ』の影響であり、葵は別段悪くないのである。だからこそ龍崎は意図的に明るい声を出す。
「ま、そういう時もあるって。気にすんなよ。たぶん身体の調子が悪くて……」
だが、そこで龍崎は口を閉じた。こんな言葉は言い訳であると。そもそも、とっとと葵の『カワイガリ』を弱体させなければならない。涼香は余裕があると言ってはいたが、だからといって気楽に構えるもの可笑しいのである。
龍崎は唾を飲み込んで、拳を固く握りしめると。視線をまっすぐ葵へと向けた。覚悟を決めたのだ。
すると葵は「な、なにかなお兄ちゃん」と言って照れるように笑った。
龍崎はゆっくりと口を開く。素直に訊けば問題はない。兄妹であるから、いい意味でなあなあで話てくれる、そう思ったのだ。
「……あのさ、葵。お前なんか……悩んるだろ?」
「……え? えっと‥‥‥大丈夫だよね? なんか悪いモノでも拾って食べたの?」
そう言って葵は心配そうに龍崎を見つめた。
「てか特に何もないし‥‥‥どしたのいきなり」
「……いや。最近、元気がない気がしたから何か悩みのでもあるのかと思ってな」
「ふーん。私、別に悩みとかないけど」
葵はそう言って腕を組む。
しかし龍崎は引き下がない。
「いや、なんかあるだろ? 学校のこととか、友達の事とか、あとは彼氏か? 彼氏のこととか?」
「私、そのあたり上手くやってるし。てか、彼氏はいないから。そもそも受験だし作ってる暇ないよね」
葵はそう言って明後日の方向を顔を向けた。だが眼の端で龍崎を見ている。
(……ん?)
と、龍崎はそこで気が付く。
(睨んでる?)
なんとなしにそう感じた。葵の眼の奥にある敵意のようなものを。
と、そこで龍崎は「そういや受験だな」と言葉を返して再確認する。再確認してから、はたと思い出す。
(受験……前もそんな話を)
ちょうど浮舟と出会った翌日の朝食で、葵が受験に関しての話をしていた。
と、そこで龍崎は涼香の話を引っ張り出してくる。人の悩みは『人間関係、健康、進路、お金』のどれか。葵に関して言えば、まず排除していい悩みの種類は、健康と金。何か持病を持っているわけでもなく大きな怪我をしたわけでもない。そして金は叔父の援助があるから日常生活を送るうえでは問題ない。あとは人間関係だが……ファミレスでの様子を見る限りでは友達関係で悩んでいるようには見えない。が、このあたりはさぐるのが難しいため、一旦保留。となると残るは将来の悩み……中学三年生である葵にとっては進学。つまりは進路のことだ。そして数日前の朝食のあの言い淀みは、あのとき言っていたのは……。
「……なあ葵。そういや推薦貰えるって言ってたけど‥‥‥あれ、どうなったんだ?」
「え? あ‥‥‥えっと‥‥‥それは‥‥‥」
すると突然、葵の眼が泳ぎだした。眼を右に向け、左に向け、それを繰り返す。
龍崎が葵の眼を見ようとすれば、そのまま彼女は視線を動かし、部屋の隅を見る。
「で? ‥‥‥葵。結局どこの高校の推薦を狙うんだ? てか先生になんて言われてんの?」
龍崎はここぞとばかりに畳みかける。『カワイガリ』の片鱗を見つけたような気がしたのだ。
すると葵は右手で後ろ髪を撫でる。
「まあそれは今度に話すね。色々あるんだよ、私にも‥‥‥」
「いや色々あるって言ってもな。俺に話してくれても」
「今度、話すから」
「いや、でも――」
が、龍崎はそこで言葉を失う。葵がスッと一瞬だけ、龍崎を一瞥したからだ。それだけの動作であるにも関わらず、どことなく、なんとなく、勘でしかないのだが、葵の眼の奥に、何か見てはいけないものを見てしまったのだ。その瞳には、拗ねているような、いじけてしまったような、諦観じみた何かを蓄えているように龍崎には思えた。
が、葵はそんな眼をすぐに引っ込め、パッと表情を明るくした。
「あ、そう言えばお兄ちゃん。叔父さんとの食事会、日曜日じゃなくて月曜日にしてほしいって言ってたよ」
「――――え? 叔父さん? ああ、別に……月曜日でもいいけど」
「わかった。伝えとくね。じゃあ私、勉強しなきゃだから」
と言って葵は、足早に龍崎の部屋から出て行った。
バタンと扉が閉まる、と部屋が静まり返る。
(――――逃げられた)
が、しかし。これで龍崎は、葵の悩みがなんとなく理解ができた。受験関係。
と、龍崎は自身が受験生であった頃を記憶が蘇るが、思い浮かんでくるのは両親のことばかりであった。中学3年生の夏頃に両親はいなくなっている。そのために、と言えば聞こえはいいが受験勉強などに手を付けられず、志望校に落ち、金もないのに私立の高校に通っている。
「受験に失敗したヤツに相談するわけねーか」
龍崎は少しばかり肩を落とした。だが、それでも頭は働かせる。葵が受験のことで思い悩んでいるのは、ほぼ間違いない。一つだけあるヒントは「推薦がどうのこうのという話」である。だが、それ以上はわからない。なんて言ったって本人が話してくれない。そして何より、妹が受験関係の話をしてくれないのは、龍崎焔雄虎は受験に失敗したというレッテルがある。さらに言えば、葵の成績は学年トップクラス。兄より優れた妹が、人生の大切な相談事を、出来の悪い兄貴にするわけがない。それこそ満を持して葵の相談に乗れるのは、葵と同じレベルの人間だけ。それこそ学年トップレベルの人間。
「……万策尽きた」
龍崎は体をベッドに投げ出した。このあたりが自分の限界なのだと。枕に顔を埋めるようにして全身の力を抜いた。
だが、そこで龍崎は「ん?」と首を傾げ、右手を枕に伸ばした。
「なんだこの髪」
枕に付着していた長く艶のある髪の毛を龍崎は持ち上げる。少なくとも自分のものではない。
「……ああ、浮舟のか」
龍崎は思い出した。涼香がベッドに寝ころだときのアレである。
「くっそ、あのポンコツのせいで葵に余計な―――」
と、そこで思い立つ。あのポンコツのスペックを。浮舟涼香とはどうに人間だったのかと。
「……ああ、そうか浮舟か」
龍崎は言うのが早いか携帯電話を取り出す。自分の予定を思い浮かべ、明日はバイトがないことを確認してから、電話のコールボタンを押した。
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