今年の夏は暑くなる
シャット
今年の夏は暑くなる
「私のことなんて、過去にしちゃえばいいのに」
二年前に死んだ彼女が、あのころと変わらない笑顔で言った。
ぼくは黙ってかぶりを振った。返す言葉はなかったし、言葉を返す意味もない。
彼女は所詮、ぼくの頭の中にしかいない幽霊だ。
ぼくが考えつけることしか喋らない。
ぼくが知っていることしか知らない。
自分の妄想と会話することの無為をぼくは知っていた。
当然、彼女自身もそのことは承知していた。文句も言わずにスケッチブックを開き、ヘッドフォンと共に彼女の世界へ没入する。
それがぼくの心中における彼女のイメージだからだ。
ただひたむきに、絵を描いていた。
あのころの、二年前の彼女は。
ぼくが知るかぎりでは。
「…………」
気分を変えようと、目を逸らす。読んでいた本への集中は途切れていた。かといって、他に何かする気にもなれない。手持ち無沙汰になって、エアコンの効いた室内を見渡した。
部屋の隅に転がったゲーム機は、彼女と遊んだものだ。棚の上に置かれたインクと筆は彼女が持ちこんだ。本棚の中の三割程度は、彼女の趣味が反映されていた。
ふと、視線が止まる。使うあてのない冬服が吊るされていた。高校入学に際して新調した学ランが放置されていた。
中学時代、冬服はブレザーだった。
そのことを、なんとなく思いだす。
彼女が死んでも世界は続く。
自明の事実から目を背けて、閉じた窓の外を見やる。
陽に照らされた隣家の屋根は、見るからにうんざりするほどの熱気を感じさせた。晴れやかな雲ひとつない晴天が、あまりにも夏だった。
今年の夏は、暑くなる。つい先日、気象予報士が言っていた。
未来を見ることが仕事の彼は、過去を否むように告げていた。
今年の夏が、最も暑い。例年よりも。二年前よりも、ずっと。
エアコンの効いたぼくの部屋とは、いたって関係のない話だ。
二年前とは違う、夏の光景。その先には、海が見える。
海が見える部屋なんだ、と彼女を誘った日が懐かしい。
誘いに乗ってくれた彼女と、共に過ごしたかつての夏。
あのころと違う夏の陽射しに、海は煌めき輝いていた。
彼女が姿を消した海は、変わることなく彼方に在った。
それを見るたびにぼくは考えを巡らせる。
彼女が海に消えた理由、動機、その経緯。
どうして二年前の夏に彼女は死んだのか。
疑問への回答を求め、ただ推測を重ねる。
目を向けるたび、ぼくの視線は、あの海に縛りつけられる。
引き剥がすように意識を室内に戻すと、あの笑顔があった。
こちらのことを見透かしたような瞳で、彼女の亡霊が笑う。
「私のことなんて、過去にしちゃえばいいのに」
二年前の彼女はそんな微笑を浮かべていた。海に消えたいほどの事情を明かすことなく、ただ笑っていた。何も知らないぼくの脳裏で、空想の彼女は同じように笑った。
ぼくが知る彼女の幻影は、ぼくが知る笑顔だけを返してくる。
その既知からは視線を逸らして、ぼくは未知なる彼女を想う。
いつまでもぼくは、あの夏に囚われている。
今年の夏は暑くなる シャット @shut_kyomu
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