Ⅴ.Does Your Heart Beat For Me

 それから十日ほどが経った。

 麗子の大学では学年末試験の開始を一週間後に控え、どの学部でも休講となる講義が目立ち始めていた。

 しかし麗子の担当する二科目の講義は違った。昨年の十一月に彼女が体調を崩して二週間も休んでしまったため、最初の講義予定からはずいぶん遅れをとっていたのだ。麗子はカリキュラムを変更し、それでも無理がある場合は学生たちのひんしゅくを買うのを承知で補講を開いた。

 そしてそのおかげで何とか予定を修了することができて、あとは試験問題の作成を残すだけとなった。麗子は肩の荷がどっと音を立てて下りるのを感じた。

 自分としたことが何とも目測誤りだと、彼女はこのとき深く反省した。


 この日の午後、朝からの最後の講義を終えた麗子は、夜勤明けでアパートにいるはずの勝也を訪ねた。先に大学の研究室から電話を掛けたが、勝也は一度寝るとなかなか目を覚まさないという習性があったので電話には出なかった。(彼の職業を考えた場合、そんなことでいいのだろうかという不安は拭えないが)

 麗子は諦め、そのまま車を飛ばして彼のアパートへやって来た。そして今度は根気よくチャイムを鳴らし続け、その甲斐あって五分ほどするとようやく部屋の中からドア・チェーンの外される音を聞けたのだった。

「あれ──」

 案の定、勝也は寝起きの状態だった。いつもは整髪料を使って整えている髪がばさばさと広がって、童顔をますます幼く見せていた。パジャマ代わりと思われる長袖のボーダーシャツにグレイのスウェット姿で、素足だった。

 そして眩しそうに片目を閉じて麗子をぼんやりと見つめたかと思うと、その顔に微かな笑みが広がった。

「お待たせされちゃったわ」

 麗子も笑顔で言った。勝也の顔を見ると、ごく自然にほっとするのだった。

「……何か約束してたっけ……?」

「……呆れた。約束があったかどうかも自信がないの? それでよく社会人が勤まってるわね」

「悪い。謝るよ」勝也は小さく舌打ちした。

「やだ──ほんとなの?」

「せやから謝るって。すぐに支度するから、ちょっと待っててくれよ」

 そう言うと勝也は廊下を戻り掛けた。

「勝也、ねえったら」

「うん?」勝也は振り返った。

「……違うのよ」麗子は溜め息混じりで言った。「あたしが勝手に来たの」

「何や……」

 勝也も溜め息をついたが、すぐに真顔になって麗子を見つめた。 「何かあったんか?」

「別に。何もないと、来ちゃ駄目なの?」

「いいや。仕事が忙しいんやと思ってたから」

「とりあえずは一段落着いたの。それで──」

「それで?」

「それでまあ──ね?」

「ちゃんと言えよ」勝也はにやりと笑った。

「ちょっと顔が見たくなったから……」

「ほなもう見たやろ。じゃあな」

 そして勝也は今度は本当に廊下を奥へと向かった。

「ちょっともう──からかわないでよ」

「分かってるって。着替えるから、上がって待ってろよ」

 勝也は麗子に背を向けたまま言うと、すぐ先の洗面所に姿を消した。麗子はやれやれとばかりに肩をすくめ、部屋に上がった。

 勝也が寝室となっている部屋で着替えているあいだ、麗子はキッチンのカウンターの前で分厚い書物を開いていた。

 ときどき顔を上げて閉まっている和室の引き戸を見たが、当然、中の気配は伺い知ることはできなかった。そして彼女はもちろん、その戸を開けるようなこともしなかった。すぐに視線を戻すと、やがてその本に没頭し始めた。

「──ドイツ法か」

 頭の上で声がして、麗子は驚いて顔を上げた。オフホワイトのセーターとオリーブカラーのパンツ姿に着替えた勝也がいつの間にか部屋から出てきていたのに気づかなかったのだ。

「ええそうよ」と麗子はにっこりと笑った。「よく分かったわね」

「おまえの専門がそうなんやろ。俺は今頃見ても分からんよ」

「昔だってよく分かってなかったものね。試験前になったら、いつもあたしが模範解答を作らされてたわ。論文だってそうよ」

「ゼミの先生にはバレてたな。『鍋島がこんな素晴らしい論文を書けるはずがない』なんて」

 勝也は懐かしそうに笑って言った。「卒業できたのはおまえのおかげや」

 麗子も懐かしそうに微笑むと、本を閉じて頬杖を突いた。

「ねえ、京都へ行ってみない?」

「今からか?」

「大丈夫よ。車で来てるから」

「らしくないな。ノスタルジーに浸ろうなんて」

「人を冷血人間みたいに言わないでよ」

 そう言いながらも麗子は微笑んだ。

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