ナチュラル・ボーン・キラー
父が去ってから、スゥの母親は母親であることをやめてしまった。
いや、もっとひどい。
些細なことでスゥは殴られた。蹴られた。
それは母親の機嫌次第で、スゥにはもう予測も回避も不可能に思えた。
「私はおまえやあの男のために今まで我慢してきたんだ」
「おまえらが私を不快にさせるからいけないんだ」
「なんだか知らないけどムシャクシャする」
子供部屋の壁にもたれ、鼻血が流れるのに任せながら、幼いスゥはぼんやりと考える。
そうだ、あたしが悪いんだ。
あたしが人に迷惑をかけてばかりだから。
あたしがお母さんに恥ずかしい思いをさせるから。
他の子みたいに上手くできないから。
「――なんて、本当はこれっぽっちも考えてないだろ?」
自分の口が、突然少年の声を発した。
正確にはスゥ自身の声に他ならないが、スゥには自分の声に思えない。
幽霊を探すように、キョロキョロと周囲を見回す。
「オレ様だよ。いや、おまえだ、オレ様は」
意味がわからない。
そんなスゥに、声は親切丁寧に教えてくれた。
自分が、いわゆる別人格であること。
性の認識は男、設定上はスゥと同い年。
スゥにできないこともできること。
「多重人格とか、初めて聞いたよ。なんであたしの知らないものをあたしの中から生まれたあなたが知ってるの」
「いや、知ってるはずだ。テレビか雑誌か、とにかく視線の片隅にでも留めたはずだ。人間は記憶を忘れない、ただ思い出せなくなるだけだってな。そういうゴミデータの中から練り上げられたのがオレ様だ」
「で、あなたはなんで出てきたの」
「おまえがやりたくてもやれないこと――厳密にはやりたいが諸々の事情でやれないことを肩代わりするためだ」
「なに、それは」
「あの女を殺すことだよ」
一瞬、心臓が凍りついたような気がした。
別人格が母親の殺害を示唆した途端、胸が弾んだのを理解して。
自分が母親に――自分を産んでくれた女性に、掛け値なしの殺意を抱いていたことを、スゥはその時初めて自覚した。
「ど、どうやって」
「簡単だ。寝ている間ならなんだってできる」
そうなのか――。でも、それはしてはいけないことだ。
「いいんだよ。これからもずっと殴られ続けるよりずっといい」
「でも……お母さんがいなくなったら、どうやって食べていけばいい」
「今でさえ充分食えてねえじゃねえか。これっぽっちの残飯を土下座して恵んでもらってる。あいつが死ねば全部食えるし――捕まっちまえばムショでも鑑別所でも好きなだけ食える」
「いっぱい食べられる」
それはいいな、と思った。
でも、駄目だ。人殺しは良くない。
今、お母さんは調子が悪いだけなんだから。きっといつかお母さんも考え直してくれる。
「甘いな。まあ、おまえができねえからオレが生まれたんだが」
すう、と少女は立ち上がった。
彼女の意思ではない。
顔も、手足も、声さえも、もうスゥの意志ではなにひとつ動かせなかった。
「オレ様は死にたくないからな。身体が栄養失調で動かなくなる前に、やらせてもらうぜ」
そして、彼はそうした。
食料の独り占めが可能になっても、残念ながら家の中に食べるものはさほど残っていなかった。
だから外に出て獲物を探した。
駄菓子を持っていた、自分より年下の子供。それが2番目の獲物だ。
後ろから石で殴りつけ、池に沈めて証拠隠滅を図ったところで、パトロール中の警官によって彼は捕まった。
それで母親殺しが発覚した。
「そうだよ、オレ様がやった。でも悪いの? 死にたそうなツラしてる奴だって殺されるのは嫌でしょ? オレ様はオレ様の生存権を行使しただけだ」
ふてぶてしい態度によって罰は重くなった。
だがそれでよかったのだ。
下手な養護施設や引取先よりは、刑務所の中の方が確実にメシが出る、と彼は言った。
それが正しいかはスゥにはわからない。
前科がついたところでつかなかったときとたいして変わらない、という意見には同意した。
罪の重さに苛まれるようになったのは、もっと年齢を重ねてからだ。
その頃には『彼』は眠りについていた。
眠っているだけだ。消えたわけではない。
もしまた自分が脅かされれば、きっと目覚めるだろう。
そしてまた、ひどいことを。
スゥは彼に鎖をかけておくことにした。
心の中に頑丈な鋼のチェーンを意識し、それで彼の身体をぐるぐる巻きにする。
念の為、手錠もかけておいた。
これにて封印は果たされた。
ずっと永遠に眠っていますように。
「――オレ様を否定するのか?」
眠っているとばかり思っていた彼が薄目を開けていたので、スゥは叫び声を上げてへたり込む。
「罪の意識なんかあるもんか。おまえは自分の凶暴性を自覚するのが怖いだけだ。自分がまともな人間だと思い込みたいだけだ。違うぜ、勘違いするなよ。おまえは自分の一部を都合のいいときだけ利用して、ポイ捨てしたに過ぎねえ。そういう最低な奴なんだよ」
一字一句、その通りだと思った。
「……あたしは、最低な人間だ」
後に寂しさからメンカを生み出したとき、過剰なまでに姉に尽くしたいと考えるようになったのは、姉を守るだけの機械であろうとしたのは、この日の自己嫌悪が尾を引いていたのかもしれない。
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