第40話 消せない怒り

「ララアさん、早く宿題をしないとカマル先生に叱られますわよ」


ララアは学友のラクシュミーの声で我に返った。


仕方なく注意した様子のラクシュミーが困ったものだという表情でこちらを見つめ、ハリシャは笑いをこらえている。


二人とも父の家臣の娘で幼いころから一緒に勉学や武芸に励んで来たのだ。


「宿題?」


ララアは慌てた。居眠りでもしていたのか直前までの記憶がなく、ラクシュミーの言っている宿題が何であったかさえ思い出せない。


「カマル先生が魔法防御の術を覚えておきなさいと言った件ですよ。本気かどうか知りませんけど来週の頭に先生の前で互いに攻撃魔法をかけあって魔法防御で防いで見せてもらうと言っていましたわ。ちゃんと覚えていないと私の火炎の術で黒焦げになっても知りませんわよ」


「何だそんなことか」


ララアは安堵して気を緩めた。


魔法防御なら兄のビシュヌに叩き込まれており、その辺の魔導士が使う術なら苦も無くはじき返す自信があったからだ。


「ララア、そろそろお茶にしますよ。ラクシュミーちゃんとハリシャちゃんも一緒にティールームに来なさい」


「はーい」


三人は元気よく返事をすると席を立った。


「あら、アーシャちゃんは一緒じゃなかったの?」


母は学友の一人であるアーシャが不在なことを訝しんだが、ラクシュミーとハリシャはクスクスと忍び笑いを漏らす。


今日は南方への遠征の準備のために、ララアの兄ビシュヌが城に戻っていることを皆知っており、アーシャはビシュヌを一目見ようと部屋からこっそり出て行ったのだ。


「ガーデンにお花を摘みに行ったのです」


ララアが宮中の女性が訳あって席を外すときの婉曲な表現を口にすると、母は納得した様子でお茶の準備が整った席に三人を案内した。


テーブルには王国の陶芸のマイスターの手によるティーカップが並びかぐわしい香りが漂っていた。


城で飲むお茶はカルダモンやクローブそしてシナモンなどのスパイスを効かせてミルクと砂糖をたっぷり入れたものだ。


プレッツエルのシロップ漬けのようなおやつと一緒に口にすると勉強に疲れた頭に糖分がいきわたるのがわかるようだ。


ララアは少し退屈ではあるが平穏な午後のひと時を過ごしながら、自分の頭のどこかで危険を知らせる警告が鳴り続けている気がしていた。


「ララア目を覚ましてください」


ヤースミーンが懸命にララアを揺り起こそうとするが、ララアは眠りから目覚める気配はなかった。


貴史とヤースミーンは眠りから目覚めないララアを抱えて城の奥に戻り、レイナ姫やゲルハルト王子に助けを求めたのだ。



「術をかけたものは親しき者たちに連れられてヤマ神のもとに行くと言ったのじゃな。ヤマ神とはガイアレギオンの神々の中で死を司る神のことじゃ。何とかして呼び戻さないとこの娘は死んでしまう」


ミッターマイヤーがいつになく深刻な表情で語るのを見て、ヤースミーンの顔が青ざめた。


「首都から連れてきたヒーラーを呼んで来い。異国の魔法に詳しいものも探すのだ」


ゲルハルト王子が部下を走らせるのと入れ替わりに疲れた様子の偵察兵が親衛隊の兵士に案内されて部屋に入ってくる。


「申し上げます。攻め寄せていたガイアレギオンの軍勢は城内に攻め込んだ主力部隊が壊滅したのを見て退却を始めました」



ゲルハルト王子はララアの様子を心配そうに見ているレイナ姫を振り返った。


「どうする、追撃をかけて敵をせん滅するか?」


レイナ姫は立ち上がるとゆっくりと首を振った。


「やめておきましょう。敵の軍勢はこの娘やシマダタカシ殿とヤースミーン殿が戦って敵の王族である司令官に手傷を負わせたため、その治療を急ぐために退却を始めたのでしょう。我らが軍勢はここに至るまでの強行軍と昨日の戦いで疲れ切っているため、数に勝る敵を追撃するのは無理があります」


ゲルハルト王子はため息をつくと横たわったララアに目を落とした。


「この娘は戦いの趨勢を逆転させ、我々の命を救ってくれたと言ってもいい。何とかして助けなければ」


ララアは、ヤースミーンに抱えられたまま、何故か幸せそうな顔をして眠り続けている。


ララアは夢を見続けていた。


ララアたちが和やかにお茶をしていると、ざわざわとした人の気配と共に部屋に入ってきた人影があった。


「父上、それに兄上も。」


ララアは久しぶりに目にする父と兄の姿に思わず席を立った。


「ララアか、そなたが戦列に加わってくれたなら我らの軍勢は向かうところ敵なしだ。早く成年に達してほしいものだ」


ビシュヌが穏やかな微笑を浮かべてララアに声をかけるが、母は眉を顰める。


「まあ、戦列に加わるなんてとんでもない。ララアはこれから王女にふさわしい淑女に仕上げるのですからね」


父と兄は顔を見合わせると楽しそうに笑う。


ララアの戦闘能力を知る二人は、淑女となったララアを想像してそのギャップに可笑しくなったようだ。


その時、ティールームのドアが勢いよく開かれた。


「私を置き去りにしてお茶するなんてひどいです」


ララアの兄、ビシュヌを見ようと場内をうろついていたアーシャが戻ってきたのだ。


アーシャは室内の状況を見て、お目当てのビシュヌがこともあろうに国王と一緒に目の前にいることに気づいて凝固した。


「す、すいません」


赤面してしどろもどろの様子のアーシャに、ララアが声をかける。


「アーシャ、ビシュヌに渡したいものがあるのでしょ」


アーシャは躊躇していたが、意を決したように抱えていた紙包みをビシュヌに差し出した。


「私が刺繍したハンカチです。どうか使ってください」


ビシュヌは機嫌よく受け取ると、紙包みを開いて中身を広げる。


「へえ、ずいぶんきれいに刺繍したんだな。ありがとう大事に使うよ」


ララアはアーシャが感動して固まっているのを見て微笑した。


しかし、ララアの頭の中の警報はさらに大きくなっていた。


『違う、これは楽しかった時の記憶。このまま楽しい記憶に流されていたら連れていかれてしまう』


ララアは警告に従って自分に言い聞かせると、失われていた記憶を取り戻そうともがいた。


すると、周囲の状況は一変し凄惨な状況が目の前に広がった。ララアの目の前には突然苦しみ始めて倒れたラクシュミーとハリシャ、そしてアーシャが横たわっており、苦痛にゆがんだ顔は緑色に変色している。


一緒にいた母も体調を崩して運ばれて行ったが、周囲にいる近衛兵も侍女たちも一様に苦しみもがき始めている。


そして、ララアも自分の体内にとてつもなく気持ちの悪い何かが存在することに気づいた。


立っていることができずに椅子に寄りかかって苦痛に耐えていると、侍従長がよろめきながら現れた。


「ララア様大変です、我々が講和を結ぼうとしていたヒマリアの軍勢が城の誰かを買収して蟲毒の一種を城の井戸に入れさせたのです。我々の知らない秘法で作られたものらしく毒消しも回復魔法も効きません」


ララアは攻め込んできた挙句に父の軍勢に打ち破られてぼろぼろの状態で城の前に集結していたヒマリアの軍勢を思い出した。


父が慈悲の心で講和を結んで本国に返そうとしていたのに、この仕打ちなのか。


ララアの死に瀕した心に怒りが膨れ上がった。

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