最終話「自殺志願者」

 発車のベルが響き渡る。

 ゆっくりと列車が動き出す。

 列車は少しずつスピードを上げながら、崖へと向かって走っていく。


 ガラスの嵌められていない格子窓から、夜風が吹き込む。

 シュウは窓の外を見た。

 闇の向こうに、観覧車のイルミネーションが見えた。


 観覧車に飾られた、巨大な三日月のオブジェが、銀色に光り輝いている。

 それが何かに似ていると、シュウは思った。

 少し考えて、気づいた。


 鎌だ。


(――そうか。「ぎんいろ三日月」って、死神の持ってる鎌のことだったんだ)


 カタン、カタン、と列車が揺れる。

 窓から吹き込む夜風が顔を撫でる。


 観覧車を眺めながら、シュウは言った。


「さっきアナウンスがあったけど……このアトラクションも、〈幻想度〉が50%なんですね。あの観覧車と同じだ。……なんでだろう? 観覧車も、別に幻想的って感じはしなかったけど。このアトラクションも、幻想的だと思いますか? 島雨さん」


 窓から見える観覧車の角度が、少しずつ変わっていく。

 遊園地のイルミネーションが、どんどん後ろへ遠ざかっていく。


「たぶんだけど……不自然に〈幻想度〉が高いのは、高い所に昇ったとき、山の麓の街が見えるアトラクションなんじゃないかな」

「……街が見える?」


 風の音に紛れて返ってきた答えに、シュウは振り向いて問い返した。


「ああ。観覧車も、おそらくジェットコースターも、そうだろう」


 シュウは首を傾げた。

 言われてみれば、観覧車に乗ったとき、山の麓に広がる街の景色が一望できたけれど……。


「この列車も、もう少し崖に近づけば、窓から麓の街が見えるはずだよ」

「……街が見えると、どうして、〈幻想度〉が高くなるんですか?」

「――そうだね。〈幻想度〉の説明がどういうものだったか、シュウは覚えてる?」


 問われて、シュウは、死神姿をしたガイドの言葉を思い返した。

〈幻想度〉の高いアトラクションは、確か――『非現実感に浸って死に至りたい方に!』と説明されていたっけ。


 カタン、カタン。


 心地良い列車の振動に揺られ、少し肌寒い夜風に吹かれて、シュウたちは着々と、刻一刻と、レールの先にある崖へと向かって運ばれていく。

列車はすでに速度を上げ切ったようで、先ほどから一定の速さで走っている。

 そして、“終点” まで止まることもない。




「ねえ、シュウ」


 不意に名を呼ばれ、シュウは顔を上げた。


「なんですか?」

「君さ。……学校の成績、悪いだろ。もしくは、傍目にはわかりづらい障害を持ってる」

「――え」


 ぶしつけにそんなことを言われて、シュウは声を詰まらせた。


 戸惑いつつも、内心ムッとした。

 ……そりゃあ、成績が悪いというのは当たっているけど。

 だからなんだというのだ。見るからに頭の悪い顔をしてる、とでも言いたいのか。失礼な。


 シュウは島雨の横顔を睨みつけたが、島雨は、こちらを見ることもせずに続けて言った。


「一斉検査によって、自殺志願者だと診断されるのはね。――つまり、そういう人間なんだよ」

「……はあ」


 シュウは、溜め息混じりに顔をしかめた。


 勉強ができない人間や、何かしらの障害を持った人間は、そうでない人間に比べて自殺志願者になりやすい。そう言いたいのか。

 それはそのとおりかもしれない。

 能力の低い者や健常な心身を持たない者は、それだけ社会の中で生きづらく、そのぶん人生を悲観して、自殺願望を抱きやすくもなるだろう。

 でも、それがどうした。

 なぜ、今このときに、わざわざそんなことを言うのだ、この人は。


「『そういう人間』で、悪かったですね。……けど、島雨さんだって、同じ自殺志願者じゃないですか」


 シュウは、半分吐き捨てるように言い返した。

 すると、島雨は。


「違うよ」


 と。低く、しかしはっきりとした口調で、そう言った。

 思いもしなかった否定を返され、シュウは困惑した。


「違う、って……? だって、島雨さんのところにも、チケットといっしょに診断書、ちゃんと送られてきたんでしょう?」

「ああ」

「ですよね。だったら」

「でも、違う」

「……だから、違うって、何が」

「俺は」


 島雨は、瞼を閉じた。

 そして再び目を開けたとき、それまでぼんやりと宙を見ていた島雨の視線は、目の前にある小さなカメラのレンズに焦点を結んでいた。




「俺は――死にたくない」




 絞り出されたその言葉を聞いて、シュウは目を見開いた。


 同時に――やっとわかった。


(ああ――そうか。そうだったのか)


 島雨さん。

 この人はどうやら、「自分は自殺志願者ではない」という妄想に取り憑かれているらしい。



 道理で、と思う。

 どうしてそんなことになったのか知らないが、この人は、すでに正常な判断能力を失ってしまっているのだ。

 そう考えれば、これまでのこの人の言動に、いろいろと不可解点が多いことにも納得がいく。


 それにしても、国から〈自殺志願者〉と診断されたにもかかわらず、そのことを受け入れることができないなんて。

「自分は本当は死にたくなんかないんだ」などと思い込んでしまうなんて。

 世の中にはそういう人もいるのか。

 いくらかの憐れみを抱いて、シュウは島雨の横顔を見つめた。



『終点まで、残り一分……。終点まで、残り一分をお知らせいたします……。前方をご覧ください。高さ120mの崖が近づいてまいりました。一分後、この列車は崖下に転落いたします……』



 シュウは窓の外を振り向いた。

 鉄格子に頭を押し付け、列車の進行方向を見る。

 列車は緩やかな坂を登りながら、突き出た崖の先に向かって走っている。


 山の麓に広がる街が、もう見え始めていた。

 深夜ではあるが、街にはまだ思いのほか明かりが灯っている。


 懐かしい遠い光。


 あの光の下で、まだ起きている人もいるだろう。

 明かりを消して、眠っている人もいるだろう。

 いずれにしても、あそこには、明日の朝を迎えるたくさんの人たちがいる。

 それを考えると、非現実感が胸の内に吹き込んだ。


 何が、非現実的なのだろう。


 明日の朝を迎えることのできる人たちが、この遊園地の外には、当たり前のように存在していることが、だろうか。

 それとも――自分が、今ここでこうしていることが、だろうか。



 隣の席で、一つ、溜め息の音がした。


 一つ息を吐く間に、この列車はどのくらいの距離を進むのだろう。

 どれだけ終点に近づくのだろう。

 終点たどり着くまでに、自分たちは、あと何回呼吸ができるのか。


 そんなことを考えながら、シュウは隣を見た。


「怖いね。……手でも握る?」


 島雨は、振り向きもせずそう言って、シュウのほうへ片手を伸ばした。

 子どもじゃあるまいし、と思う。

 けれど、差し出されたその手に、シュウはなんとなく自分の手を重ねた。


 島雨さん。

 この人と話していると、腹が立ったり、面倒くさいと感じたりしたこともあったけど。

 でも。この人のことは、なぜだか嫌いではない。

 会えてよかった。

 今このときに、いっしょに居られてよかった。

 そんな気持ちが、自分でも探り当てられない、どこか遠く奥深くから湧いてきていた。


 島雨の手が震えていることに、触れてみて、シュウは初めて気がついた。



『間もなく、終点。終点です……。列車は予定どおり、午前0時ちょうどに崖下へと転落いたします……』



 列車のスピードが、再び上がる。

 崖の先が迫る。


 いつの間にか、車内のあちこちから、乗客のすすり泣く声、むせび泣く声が聞こえていた。


 隣の席から、押し殺した嗚咽が響いた。


 シュウは窓の外を見続けた。

 今は、振り向いて顔を見てはいけないような気がした。


 自分も泣いておいたほうがいいのかな、と思ったけれど、涙を流そうとしてみても、今からでは間に合いそうになかった。



『終点――……』



 ノイズ混じりのアナウンスと同時に、車両が、大きな音を立てて激しく揺れた。

 レールを外れた列車が、勢いよく空中に投げ出されたのがわかった。


 体が座席から浮き上がる。

 島雨が、繋いだ手を、痛いくらいに握り締めた。


 鉄格子の向こうに、傾いた街の夜景が広がっていた。




 この列車が、一瞬後には落下していくなんて、シュウはなんだかまだ信じられなかった。

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