第七章 ロバと比べられた女

第七章 ロバと比べられた女

一方、中村美子は、これまでよりみじめな生活を送っていた。なんとも、期待を一身に受けていた優等生が、突然姿を消してしまったため、その責任を詰問されるようになってしまったのである。そして、指導力がないとして、さんざん馬鹿にされるようになってしまった。

もはや、彼女はほかの教師から、教師というより、ただの飾り物としか見られなくなってしまったと言っても過言ではなかった。

「中村先生、これ、よろしくお願いしますね。」

今日も、他の教師から、大量のコピーを頼まれて、ひたすらに印刷室で資料のコピーを強いられる日々である。

それよりも、世界史の授業をしたいと思ったが、すでに代用教員が雇われていて、彼女が授業をするのは、補習のみであった。

生徒からの人気も大幅に下落した。と、言うのも、あの後、松本麗子の両親が、学校に乗り込んできて、娘に親殺しというのは何事だと怒鳴りつけてきたからだ。その時は、弁護士が同行してきて、人権侵害な発言が平気でまかり通っている高校は遺憾だと雄弁をふるっていた。美子は大勢の生徒がいる前で、一人の生徒をしかりつけることを得意としていたが、いざ、生徒たちの前で弁護士に叱責されてしまうと、穴があったら入りたいどころか、存在すらなかったほうがいいのではないかと思うくらい恥ずかしかった。受け持ちの生徒たちは、その一部始終を見てしまっているので、彼女を支持する生徒は誰もいなくなってしまったのだ。美子のこの発言は、校長先生にも知られてしまい、校長先生にも厳しく叱責されてしまった。もしかしたら、教育委員会から、お咎めが来るとも怒鳴っていた。

本来、私立の学校であれば、退職を迫られるのであるが、そこは公立。一か月謹慎程度で、退職は免れた。そういうところが日本の教育は甘いと諸外国から指摘される要因でもあるのだが。

いずれにしても、中村美子が、この学校で大活躍という時代は終わりを告げてしまった。他の先生は、なんとも思わないし、生徒たちも普段と変わらなかったが、何よりも美子自身は、大きな亀裂を残した。他の先生には馬鹿にされるし、校長先生は二度と不祥事を起こさないよう、厳しく彼女を監視する。たぶんきっと、これを挽回するのは極めて難しいだろうと思う。なんだか体罰教師と同じように扱われているようで、美子は悔しかった。

こうなったら、その元凶を作った、松本麗子を学校に呼び戻せば、自分の名誉も挽回できるのではないかと思った。もし、彼女を呼び戻すことができれば、自分のしたことは間違いでなかったと改めてほかの教師たちに白示すこともできるのではないか。そして、自分が能力のない教師なんていうレッテルも取り外してくれるかもしれない。

始めは、不可能だろうなと思っていた。しかし、毎日毎日校長先生から何か言われてばかりいると、次第にこれをしなければならないと思うようになった。それはどこかで、炎が付けられて、次第に広がっていくのに似ていた。その日も、校長先生が彼女に発言に注意するようにと小言を言うと、美子は作戦を決行することにした。

美子が製鉄所へ向かっている間、麗子はカレンと一緒に尼寺で写経をしていた。きっかけは製鉄所から仏教系の大学に通っている女性利用者が、たまたま経典の話をしたところを、カレンが立ち聞きし、日本のアヴェスターをぜひ拝見したいと言いだしたことによる。仏教徒でないものが、写経会に出てもいいのか、麗子は疑問に思ったが、懍がうまくとりなしてくれたおかげで、二人は写経会に参加させてもらえることになったのだ。

麗子は、指のことで静養している間に、渡りバッタの被害について、どのくらいの頻度で起こるものなのか、懍に聞いてみたところ、蝗害は、日本で台風が発生するのと同じくらい中東では頻繁に起こる災害であると教えてくれた。これのせいで、民族紛争が勃発したことも多数あるという。では何も対策をとらないのかと聞いてみたところ、ペルシャではムスリムの住民には駆除方法を中央政府が伝授しているらしいが、そうでない住民には全く対策を施していないとも聞かされた。ずいぶん不平等だと思ったが、イスラム世界ではそれが当たり前だと語っていた。

カレンは、こんなに大量の漢字を書いたのは、生まれて初めてだと言って、とても驚いていた。確かに、それはそうなのだが、日本人の麗子にも写経というものは初めての経験であった。心が落ち着く行事であると庵主様が言っていたが、焦っていたら絶対最後まで書くことはできないだろうなと思われるほど大量であった。

写経では、一番最後に自分の願い事を書いて、提出することがお決まりになっているが、麗子はできれば大学に行きたいと書いた。一方、カレンは漢字かな交じり文を理解できていなかったため、庵主様がペルシャ語での表記を許可してくれた。勿論、麗子はペルシャ語の解読はできないので、何を書いたのか聞いてみると、今年も渡りバッタが発生しませんようにと書いた、と言っていた。改めて、中東の社会問題を知らされた気がした。

そのまま、庵主様の提案で、二人は富士市の花火大会を見てから帰ることにした。とりあえず、花火大会が始まるまで、お茶でも飲んでこようかなんて言いながら、二人は寺をでた。

そのころ。

「教授、大変です!」

玄関を掃除していた水穂が、応接室に駆け込んできた。

「どうしたんですか?」

「はい、大変なんですよ。松本麗子さんの担任教師が乗り込んできたんです。」

「そうですか。」

懍は何も態度を変えなかった。

「そうですかって、何も思わないんですか?」

「ええ。あの教師がやっていることは何一つ正しいことはありません。それを強調して追い出せばいいのです。」

「そうですけど、僕たちではやり込められてしまうような。」

水穂は心配したが、

「いいえ、かまいません。僕が何とかしますので、水穂さんは、休んでいてください。すぐにお通しなさい。」

平然としたまま懍は言った。

「わかりました。」

水穂も覚悟を決めて、玄関に行った。

しばらくして、つかつかという音がして、中村美子が応接室に入ってきた。

「どうもこんにちは。主宰の青柳懍です。どうぞよろしく。」

懍は深々と敬礼して彼女を迎えた。

「わたくし、こういうものです。よろしくお願いします。」

敬礼もせず、美子は名刺を突き出した。

「そうですか。お名前は何というのですか。」

「そこに書いてありますでしょ。」

「いいえ、僕が名を名乗ったのですから、名乗るのは当然のことです。」

「ですから、名刺を差し上げましたのに。」

「そうですか。それは僕が歩行不能であるから、名乗る必要もないということですかな。学校の先生は、おかしな優性思想に凝り固まっていらっしゃいますな。」

「わかりました、私の名は中村美子です。これでいいんでしょ。」

美子は、吐き捨てるように言った。

「ありがとうございます。そこへ座っていただけますか。」

懍は、そういって応接室の椅子に座ってもらうように促した。自分は向かい合うように車いすを動かした。美子は当然のようにドスンと椅子に腰かけた。

「で、今日は、どういう用件でこちらにいらしたのですか。」

「ええ、お宅で預かっている、松本麗子の事です。彼女は今どうしていますか?」

「ああ、どうしていますかって、彼女は今富士祭りに行っていますよ。なんでも、花火大会を見てから帰ってくると、いま、連絡がありました。」

「富士祭り?受験で追い込みの時期なのに?一体だれと行ったんですか?」

「ええ、中東から来た女性と一緒におられます。」

「中東?アラブの?」

「違いますよ。中東に住んでいるのはアラブ人だけではありませんよ。中東にはパシュトゥーン人や、クルド人などの方もいらっしゃいます。ごく少数ですが、ソグド人やアッシリア人といった古代から存在する民族もおります。学校の先生が、中東といって、アラブ人しか連想しないのであれば、凡庸としか言えませんね。」

「何を言っているんですか。そんなことは関係ないのです。先生のほうが、凡庸どころか、世間知らずすぎるというか、あきれてしまいますわ。だって、受験で追い込みの時期なのを全く知らないで秋祭りに出すんですから!」

「まあ、受験勉強ほど役に立たないものはないと確信しておりますからね。彼女にとっては、そうするよりも、秋祭りに行くほうがよほど効果はありでしょう。学校の先生は、余分なことを教え込んで肝心なことは何一つ教え込もうとしませんので。例えば、廊下は右側を静かに歩きましょうなんてよく指導すると思いますけど、あれほど迷惑な指導はありませんよ。第一、火事でもあったらどうするです。その時にそれを強制したら、焼け死んでしまいます。」

「全く、人を馬鹿にして。何を言っているんですか。そのくらいの分別は高校生であればわかりますよ。そうではなくて、普段から、基本的なルールとして教え込んでいるのです。」

「じゃあ、言わなくてもいいんじゃありませんか。それなら初めから言わないでおけばいいのです。生徒がそのくらいの分別があれば、自動的に右側を静かに歩くようになりますよ。そうなりますと、先生がわざわざ大きな声を出して、命令する必要もないんじゃありませんか。そういう事を、余分な指導と言っているのです。それのせいで、恐怖を感じる生徒も少なからずいます。社会的なルールを身に着けるのなら、生徒が自身で納得するようにもっていかないと、全く身に付きはしません。勉強も同じことです。なぜ、勉強をするのかを明確にしておかないと、生徒は勉強しようという気にはなりませんね。それは進路指導だって同じこと。国公立大学を神格化して、それを崇拝させようというのでは全く役に立ちはしません。なぜそうなるのかをはっきりさせて、それが本当に必要なのかを明確に示してあげないと、従ってはくれないでしょう。ただ、やみくもに大声をあげて、脅迫するように国公立大学と強制しても従ってはくれないでしょう。生徒が、国公立大学に行ける高校こそ良い高校であるなんて、大間違いです。そんなこともわからないのなら、学校など、なんの役にも立ちませんね。」

懍は選挙演説するように言ったが、美子は軽蔑した顔をしたままだった。

「そうは言いますけれども、生徒が有能な人材となるためには、自信をつけることが必要です。私だって、生徒が年々劣等感ばかり強くなって、自分など何も役に立たないと思い込んでいる者が多いのは知っています。だから、そこから何とかしてやるには、よりレベルの高い大学を目指させることではありませんの?他人より上の学校へ行けば、それだけ自信もついて、生徒がより安泰に暮らしていけるのではありませんか。それを私たちは教えて行こうと思っているのです。そのどこが悪いというのです?」

美子も同じように演説して反論する。

「いえ、それは違いますね。明らかに間違いです。誰でもレベルの高いところへ行けることはまずないし、勝ちがでれば必ず負けが出るのが世の中というものですよ。そうなれば、負けた者が余計に自信をなくしますよ。敗北感から立ち直らせるということは、あなた方が想像するよりはるかに難しいことですからね。その元凶を作ったのは誰なのか、しっかり反省してもらわないと、困ります。あなた方は、勝つための指導はしますけど、負けた後にどう立ち直るかは全く教えない物ですから、うちも利用者が減らないんですね。まあ、幸い、たたら製鉄は、利用者たちにとって、とても楽しいようですが。」

「なんですか。そんな古臭い大昔の製鉄をさせて、何になるというのです?」

「ええ。勉強と決定的に違うのは、火を起こす、燃料を燃やす、天秤鞴で送風する、真砂鉄を投入する、どの作業が欠けても鉄ができないということです。ただ、やみくもに上の人に従わされるだけであり、成果が形になって現れることはない勉強よりもよほど面白いと感じている利用者が多いようです。」

「なんですか、それだけのことですか。」

「はい、それだけの事ですよ。しかし、それが学校では一番もたらすことができないのではありませんか。一丸となって協力し、結果として鉄を作り上げた時の喜びは、試験で百点をとるよりもずっと大きいと利用者たちは口をそろえて言っております。昔であれば、そういう喜びはすぐに獲得できましたが、今の時代はそうもいきません。しかし、獲得しておかないと、人間は成長ができはしないのですよ。いくら時代が変わったとしても、人間という種族は全く変わりませんから、おかしくなってしまうのです。家畜にはいつの時代にも、毎日欠かさずエサをあげるのに、時代が変わってくるにつれて、なぜ人間は成績が悪いと食事を取り上げられるようになったのでしょう。」

「人を馬鹿にしないでください!家畜と人間は違います!一緒にするほうがおかしいんじゃありませんか!」

思わず、美子はそう言ったが、

「いえ、それが決定的な間違いです。人間だって動物ですから、家畜同様毎日食事をしないと生きていけませんからね。あなた方は、勉強をしない生徒に対して、食事を禁止したりしているでしょう。それは指導だといって正当化していますけど、それが生徒に対して何も良いことをもたらしていないことに全く気が付いていませんね。そのせいで拒食症に陥った利用者も本当にたくさんいましたよ。たぶんきっと、学校の先生がやっていることの八割から九割は、役に立っていないのではないでしょうか。もしかしたら、家畜を育てるほうが、ちゃんとした教育と言えているのかもしれませんね。」

と、懍は続けた。

「どういうことですか!生徒を育てることより家畜を育てることのほうが教育なんて!本当に人を馬鹿にしていますね、青柳先生は!」

「まあ、よく考えてみてください。例えば、ロバを労働用の家畜として飼育したい場合、まず、エサを毎日与えて、糞便をしっかり処理して、毛並みをきれいに整えるなどをしなければなりませんね。まあ、それは基本的なことですから、現代の社会ではよほどの貧困層でない限り不可能ということはないでしょう。しかしですね、労働用にしっかりとやってくれるロバとするとなると、また変わってきます。ロバに労働のすばらしさと、労働して何かメリットがあるかをしっかり教えて行かないと、従ってはくれないですから。ロバは意外に意思が強く、従順な動物ではないですからね。人間はそれ以上に複雑ですから、従わせようとなればロバ以上に難しいと思います。もしかしたら、先生は、ロバを一匹飼育してみてから、教育現場に出られた方がよろしいのではないかと。」

「全く、話になりませんね。私にロバ一匹飼ってみろなんて。本当に人を馬鹿にしていらっしゃる。そういう人が、教育者を名乗るなんて、おかしな話です。もう、脱線はやめて、本題に入りますが、松本麗子を、うちの学校へ返していただけないでしょうか!」

「むりですね。彼女のご両親から止められています。自分たちが新しい学校を探してくるまで、預かってくれと言われていますので、契約を破ることはできません。ちなみに僕がベルリンに住んでいた時に、市内の大学で畜産学を指導していた者が近隣に住んでいて、今でも交流は続いていますので、ロバを一匹譲ってもらうことは可能だと思いますが。」

懍は美子をからかうようにいった。

「だからロバの話はしないでください、青柳先生!もしかして、私が女であることを馬鹿にしているのですか!」

本当にそうかと思ってしまった。

「はい。馬鹿にはしていません。畢竟してお伝えしたいことは、あなたのような方には、生徒を指導するということは、まるでできないという事です。第一、生徒を親殺しと決めつけるような指導をしていれば、必ず生徒が傷つくことは明白ですよ。その対策として、ロバを一匹飼ってみてはどうかと、お伝えしただけの事ですよ。そうやってすぐ激したりすれば、ロバ一匹を動かすことだって可能なのかも疑わしい。」

「もう、お話になりませんね!また来ますから、その時には必ず、松本麗子さんに会わせてくださいませ!」

美子は立ち上がって、椅子を蹴飛ばすように片付けて、どんどん製鉄所を出て行った。

姿が見えなくなると、

「水穂さん、塩をまいて!」

懍は直ちに指示を出す。水穂が、寿司桶に塩をたくさん入れて持ってきた。

「ああいう教育者と思い込んでいる人を相手にすると、疲れますね。まあ、このことは、麗子さんには言わないでおきましょう。」

「それにしても、ロバの話を持ち出すとは、教授もすごいです。」

二人は顔を見合わせて笑うのであった。


一方、麗子とカレンは、庵主様に勧められてレンタル衣装屋さんにいき、浴衣を着せてもらって、花火大会を鑑賞していた。

「いいなあ、日本にはこんなに綺麗なものがあってさあ。」

カレンは花火というものを始めてみたという。

「単なる聖火だけでなく、こういうものに変えられるってすごいと思うわよ。さすが、技術大国だわ。」

「そんなにすごいかな。」

麗子にしてみれば、毎年見ているものなので、あまり感動はしなかったが。

「ちょっと、私が大げさすぎるかしら。でも、今日は本当に楽しかった。日本のアヴェスターも見させてもらえたし。こちらのアヴェスターに比べると本当に複雑で、もっと深いところを説いている気がして、すごいなと思ったわよ。」

お経なんて全く縁がないけれど、中東の女性には、そう見えるのだろう。確かに、庵主様が阿修羅という天が、アフラ・マズターに起因すると話してくれた時は、彼女はとても興奮していた。きっと共通点を見つけられてうれしいと思ってくれたのかな。

「でも、日本ってすごいわね。」

不意にカレンはそんなことを言った。

「すごいって何が?」

と、聞き返してみると、

「いつまでも王朝が変わってないし、後継者をめぐって大戦争があったこともないでしょ。ペルシャでは、アケメネス朝を皮切りに、サーサーン朝とか、王朝が目まぐるしく変わってるから。」

まあ、確かに、王朝というか、天皇家は変わらずに続いてきた。南北朝時代のような動乱期も確かにあったが、別の家が天皇家を名乗って、それを乗っ取ったということはまずない。それってかっこいいことになるかなと思ったが、民族紛争が絶えなかった中東では、民族を維持して、何十年も続いていくことは非常に難しいことだと気か付く。それに成功した人が、名君主としてあがめられたことは結構ある。

「きっと、偉い人が多かった国家なのね。そこまで続いていくのなら。」

偉い人なんて誰もいないよ、と言いたかったがやめておいた。彼女の気持ちを汚してはいけないと思った。

と、同時に、自分自身も日本にいることについて、もう少しほこりを持って生活できないといけないなと痛感した。そのためには、今のような高校にいるべきではないなと思った。今の高校は、きっとそれを得ることはできないだろう。本当に基本的なことでやくざの親分みたいに怒鳴っているんだもの。そんな人たちにわざわざ戦いを挑むよりも、自分が本当に学びたいことを本気で学べる環境がほしいのなら、そこへ移動してもかまわないし、それは罪なことではない。だから、逃げてもいいや。

二人を応援するように、大輪菊玉がドーンとなった。




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