五章:観測者の嘲笑 3


「――逃げろ、アゼレア!」


 瞬間、トーリは少女へ向けて声を張り上げる。だが、遅い!

 圧倒的に、致命的に、絶望的に、その言葉は遅かった。

 トーリが叫ぶと同時。あるいはそれよりも早く仮面の男が動いた。軽やかな身のこなしで鋼鉄の怪物から飛び降りると、目にも留まらぬ速さでアゼレアへと肉薄し、少女の胸元に杖を叩き込む。

 男の杖で突かれた少女の身体は、糸の切れた人形のように膝から崩れ落ち、男の腕の中にぐったりと倒れ込んでぴくりともしない。

 恐らくアゼレアには、何が起きていたのか判らなかっただろう。

 意識を失ったアゼレアを、男は不敵に微笑んで持ち上げようとし――そこに、トーリが飛び込んだ。

 冷徹な眼光で男を見据え、その顔目掛けて渾身の右手掌底を繰り出し――失敗。

 掌が男の顔を捉える寸前、男は僅かに身体を傾けて、アゼレアを腕に抱えたままトーリの攻撃軌道から離脱する。

 吸い付くようにその後を追う。掌底を繰り出した姿勢から勢いを利用しての後ろ回し蹴り。

 ――放つは下段。男の軸足を狙っての足払い。

 だが、これも避けられる。男は足首の力だけで跳躍して回避したのだ。恐るべき身体能力である。学者然とした所作からは想像し難く、まるで達悦した練達者アスリートのようだなと頭の片隅で考える。

 勿論、逃すつもりはない。

 何が起きているとか、男の目的が何かだとか、アゼレアがこの男に敵意を剥き出しにした理由だとかは、この場を御してからにすればいい。

 男との間合い幅は数歩分。距離にすれば二メートルにも満たない距離。

 男の腕にはアゼレアがおり、人一人抱えている分有利なのは自分のほうだ。相手は万全ではない。

 そして男の異能――干渉術式虫食ム糸海が、如何に同じ干渉術式使いに対して脅威であろうと、この距離ならばこちらのほうが圧倒的に早いはず!


「顕れよ――《破戒ノ王手》!」


 気迫と共に叫ぶ。

 必殺の一手を放つべく。

 文字通りの王手を打つべく。

 触れるすべてを浸食し、腐食させる禁断の手を揮おうとした――その瞬間。


 がくん、、、、と。


 トーリの膝が力なく崩れた。それこそ、先ほどのアゼレアと同じ、糸が切れたように。


「――……え?」


 我ながらまた、間抜けな声を出すなぁなんて思いながら、トーリはその場に膝をつき――更に地に両手をついて項垂れる。

 力が入らなかった。

 まるで何時間も全速力で走り続けた後のような、抗いようのない脱力感と倦怠感が一気にやってくる。

(……一体……何、が?)


「見たところ……干渉術式の使い過ぎだね。力の加減も知らず、むやみやたらに揮っていればそうなる。燃料切れエンプティ・ハイというやつだ」


 声は、頭上から。

 対峙していた仮面の男が、薄ら笑いを浮かべて見下ろしていた。仮面の奥から覗く瞳と視線がぶつかる。


「お前は……ああ、そうか。前の夢幻体――ああ、我が子を、アリキーノを討ったのはお前か」

「アリ……キーノ?」


 男の口から零れた名を反芻する。その名に思い当たるものはない。だが、そのことを口にするよりも先に、男は遮るように口を開いた。


「覚えがないとは言わせない。君がその手屠ったのだろう? 我が愛しき息子を」


 この腕で屠った。

 まさか――


「あの、エネミーのことか?」

「そうだ! お前がその手で屠りし我が子。悪しき爪。我が愛しき十二の子が一人、アリキーノ! 五年前のあの日、我らが大望を魔女に妨げられたあの日から、万全を期すために用意した機関生命体ヴィータ・オルディナトゥール。その一つを君は壊してしまったのだ――それは、許されざることだ、若者よ」


 吐き出されたのは、全身が粟立つような冷淡な声音。

 首筋に走る、ざわつくような悪寒にトーリの視線が持ち上がる。

 ――影が差す。

 トーリのもとに、巨大な影が落ちてきた。見上げた先に見えたのは、巨大な鋼鉄の怪物がその槍のような尾を持ち上げている姿。

 拙い、と思ったのとほぼ同時――その尾槍がトーリ目掛けて振り下ろされる。

 脳が回避行動を指示するが、疲労した身体は意思を拒むように動かなかい。

 回避――不能。

 防御――不能。

 受け止めるのは無意味。両者には圧倒的な総重量の差・膂力の差・質量の差がある。

 最大圧力で打ち出される地殻穿孔機械パイルバンカーを素手で受け止められるだろうか? 答えなんて、考えるまでもない。

 ――ああ、駄目だ。

 諦めが思考を染める。

 絶望が心を支配する。


「――トーリ!」


 呼ぶ声が何処からか。

 聞き慣れた声が耳朶を叩くと同時、視界の片隅で揺れたのは――深緑。

 ドンッという強い衝撃で身体が突き飛ばされた。視線が自然と突き飛ばした相手を見やる。

 そこには、にぃ……と笑う級友の姿。


「エコー……っ」


 彼女の名前を口にする。口にした。その瞬間――



 ――目の前に突き下ろされる、巨大なクロームの槍!



 振り下ろされた尾の先端が大地を穿つ。生じた風圧が爆風の如く突き飛ばされたトーリの身体を打ち付け、抵抗するすべのなかったトーリはその勢いで何メートルも宙を舞って地面に落下した。

 言うことを聞かない身体をそれでもどうにか奮い立たせ、トーリは頭を持ち上げて視線を巡らせる。

 鋼鉄と機械で組み立てられているノスタルギア。灰色の都の中では、どれだけ粉塵に埋もれようと、彼女の色だけは如実に存在証明する。

 巡らせた視線の先に転がる蒼色。

 この曇天では仰ぎ見ること叶わない空の色が、突き立ったマラコーダの尾のすぐ傍に――いや、その下に転がっていた。


「あ……ああ……っ!」


 目に飛び込んだ光景。それは少女の身体――下腹部が、槍の穂先を模した尾に貫かれている姿を見て、愕然とする。

 我が目を疑い、かぶりを振り――もう一度見据えても、景色は変わらない。

その情景は決して、幻ではなかった。



「エコォォォォォォォォォォォォォォォォォ!」



 少女の名を叫ぶ。

 ぴくりと、仰向けに倒れていたエコーの指が動く。身体を貫かれた状態のまま、伏せられていた瞼を持ち上げて、彼女は薄らと瞳を開き――そして、安堵したように口元を綻ばせて――


 ――逃げて……と。


 そう、口元が動いたように見えた。

声は発していない。ただ口元が動いただけ。

 しかし、声は届かずとも、彼女の眼差しが、言葉以上に彼女の意思を物語っているように思えて。

 さあ、どうする?

 自分に問う。

 漸く、微かにだが、身体が動く。鉛のように重い身体を持ち上げ、トーリは辛酸を舐める思いでエネミーを、そして仮面の男を睨み据える。

 男が嗤った。


「好い目だ。無謀と知りなお、無駄と知りなお、無意味と知りなお――抗うことを止めない愚かな眼差しだ」


 それはまるで待ちわびるように、恋い焦がれるように、ある種の羨望と、そしてそれらに勝る嘲笑の籠った声。


「奇しくも十二番目の贄はこれにてなった。故に、お前は不要――疾くと、去るがいい。二度と踏み入るな。そしてあと僅かしかない安寧に浸っていたまえ」


 そう言って、男はトーリから興味を失ったように肩を竦めると、鋼鉄の怪物――マラコーダに小さく何かを囁いた。

 するとマラコーダがゆっくりと動き出す。突き立てていた尾を引き抜き、その尾の先端で器用にエコーの身体を掬い上げて。

 地を揺るがす歩みが、徐々に遠ざかっていく。

 黒衣の少女が連れ去らわれていく。

 空色の友人が連れ去らわれていく。


「……ちく……しょ……」


 その様を、トーリは愕然と見送ることしかできず――やがてその姿が遠く小さくなっていった頃、がっくりとその場に倒れ伏した。


      ◇◇◇


 気分は最悪だった。

 ぐったりと教室の机に突っ伏したまま、透莉は疲労感を露わに嘆息する。

 ――今朝。

 気づけばまた、自分の部屋で天井を見上げる形で朝を迎え、《電脳視界》は接続エラーの通知で真っ赤に染まっていた。おまけに身体を動かすのすら億劫になるほどの倦怠感が付きまとい、ベッドから起きるのに随分と時間がかかったほどである。

 勿論、目覚めの気分が最悪なのはそれらが原因ではない。

 すべて要因は昨日のこと。

 ノスタルギアに迷い込んだのはあれで二度目。流石にもう夢だ偶然だなんて思うことはできない。

 そしてもう一つ、気になることがあった。

 エコー。

 またの名は、七種響。

 彼女との連絡が今朝から着かなかった。電脳越しにメッセージを何度も送っていた。しかし、いつもならすぐに返事が来るのに、今日に限ってはそれがなかった。

 現在時刻を確認する。《電脳視界》に表示される時間は七時五〇分。

 教室にはもうほとんどのクラスメイトたちが登校し、思い思いに朝のホームルームまでの時間を過ごしている。

 その中で、透莉の視線は一点を見つめていた。

 彼女の――響の座る席を。

 まだ、彼女は来ていなかった。いつもならばとっくに登校している時間だというのに、まだ彼女は姿を現さない。

 それが、透莉の中に芽生えている不安を助長する。

 かつて――

 最初に透莉――トーリがノスタルギアに迷い込んだ時に過ぎった不安。

 

 ――ノスタルギアで死ねば、現実の自分はどうなるのか?


 その疑問の答えは判らず仕舞いだった。何故なら、トーリは弥栄透莉として目を覚ましたのだ。帰還したのだ。

 そして今回も、また。

 だが、彼女は違う。エコーは――七種響は昨日、ノスタルギアで自分を庇い、致命傷を負っていた。

 その彼女がその後どうなったのか、透莉は知らない。意識を失った透莉には知るすべがなかった。

 だから、此処に来た。来なければいけなかった。

 そして、待っている。彼女がやってくることを。

 教室のドアをスライドさせて、いつも通りの溌剌とした笑みを浮かべて「おっはよ」と言って近寄ってきて「いやー、寝坊しちゃってさ。遅刻するかと思ったよ」とか話しかける姿を思い描く。

 昨日までそうだったように。

 今日もまた、そうであるように。

 だけど、

 チャイムが鳴っても、

 彼女が姿を現すことはなくて――


 ――やがてホームルームのためにやって来たクラス担任から、響が昨夜遅くに意識不明になったこと。そして現在も病院で意識が戻らないままであるということを知らされた。





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