三章:紅の請負屋 5
いち早く我に返ったのは九角。目の前の状況を脳が認識すると同時に、仮面越しの視線が男を叩き潰した物へと向けられる。
そして認識する。
それは鋼鉄で出来た獰猛な腕だった。
視界のかなりを塞ぐ蒸気の霧の向こうから伸びてきた腕だ。
その腕を追って視線を動かし――そして、九角は今度こそ現実を疑う物を、先ほど目にした機械都市の光景すら霞むような存在を、その目に捉える。
――それは、無数の鋼鉄の塊で出来ていた。
――それは、巨大な蒸気機関を宿していた。
鋼鉄と、蒸気機関を宿した巨大な何か。轟々と全身のいたる部分から蒸気を噴出させる大型の機械。
それは、四足歩行の獣を彷彿させるクロームの魔獣だった。
その姿を見上げ、戦慄する。
こんなものが、本当に存在するのかという疑問よりも先に、九角の思考は如何にして眼前の怪物に対処するかを考える。
目の前に聳える未知なる存在に対し、一見にして脳裏を過ぎるのは、電脳の都市に姿を現すあの怪物たち。
「――……クリッター……なのか?」
異分子情報体と呼ばれる、電子情報を食い散らす悪食たち。
それによく似た何かが、爛々と輝く赫い瞳でこちらを見据えていた。
『――GRRRRRRRRRRRRRR……』
怪物が静かに呻く。それは九角の危機本能を激しく震撼させるほどの威圧感を孕んでいた。
咄嗟に身体を動かし、大きく退いて近くの建物の陰に隠れる。
殆ど無意味だった。
九角が建物の陰に飛び込むのと、怪物が動いたのは同時。
その禍々しいクロームの腕が、凄まじい速度で薙ぎ払われる!
雷鳴の如き速さと轟音を伴って振り払われた腕が、周囲の建物ごと呆然と立ち尽くしていた販売屋の男たちを一瞬にして吹き飛ばす。
肉片と血潮をまき散らして絶命していく様を見上げながら、九角は男たちと同じように粉砕された建物の陰から更に別の建物へと移動。
移動しながら、愛用の戦闘用鉈を抜く。
瞬間――
同時に幾つかの電脳プログラムを起動させようとして――失敗。
そこで、九角は状況を概ね理解する。
「ミイラ取りがミイラになったってことか……」
此処が、件の販売屋たちが言っていたという、見たこともない都市なのだろう。なるほど。そう考えれば、確かにしっくりくる。
蒸気機関と鋼鉄が織り成す異形の都市。電脳都市とは似ても似つかないこの場所。己の目で確認しなければ、夢幻と思っても致し方ないだろう。
九角は怪物の気配を伺いながら状況を整理する。
此処は電脳ネットとの繋がりがない。遮断、あるいは断絶されている。そして電脳空間から断絶された領域となれば、外部干渉を一切受け付けることがない
だが、そうだとすれば一つ問題がある。
九角は自分の体の感覚を確かめる――やはり、気のせいではないらしい。
生身だ。
正真正銘、支神九角の肉体そのもの。
強制電脳接続による電脳空間への召喚であるのならば、当然この身体は《電脳義体》でなければならない。
だが、そうではない。
それは右腕を見れば瞭然だ。九角の《電脳義体》――即ちグレンデルの身体ならば、この右腕は機械義手でなければならないのだ。
高密度電脳情報の組み込まれた、凶悪な爪を持つ義手。
しかし、今はそれがない。
あるのは支神九角の、生身の右腕だけ。
それが意味するものは即ち――此処は電脳空間ではない、ということだ。それらの証明故に、九角の中でこの場所が電脳空間であるという可能性は棄却される。
暗澹なる蒸気に包まれた鋼の都市を見回し、九角は仮面の奥で嘆息ひとつ。電脳義手なしの今、手元にある装備は愛用の戦闘用鉈と、大型自動拳銃が一丁。他には手榴弾の類がいくつかあるだけ。
こんなものであの怪物に対処できるのか甚だ疑問だった。せめてこのままいなくなってくれればと願うが、多分それは無理だろう。クロームの怪物は、今もなお周囲に視線を巡らせて何かを探している。
恐らくは獲物だ。そしてその獲物とは、この場には九角をおいてほかにはあるまい。
無論、大人しく食い散らされるつもりはない。だが、抗う術もないに等しい。
どうしたものかと途方に暮れそうになった――そんな時だ。
「……またエネミーか。最近はよく現れるなぁ」
――隣から、随分と呑気な声。
あまりに唐突で。
あまりに自然に。
声がするまで、気配の一つなかった。
その事実に驚愕しながら視線を横に向けると、そこには一人の、小柄な影法師が立っていた。
――影法師。そう思わせるような風貌。全身を漆黒のコートで包み、頭の上には器械装飾の施された黒のトップハットを被る、小柄な少女。
コートの衣嚢に片手を突っ込み、頭に被ったトップハットが吹き荒れる蒸気で飛ばされないように抑えた姿勢で、少女は涼しげに口元を綻ばせたかと思うと、
「ついておいで。此処を離れよう」
そう言って、九角の腕を無遠慮に摑んで歩き出す。
一瞬、どうするものか思案して――結局、黙ってついていくことにした。
狭い路地を右に左に。迷いなく、よどみなく。少女の歩みは軽快で、そして――着実にあの怪物の放つ唸り声から遠ざかっていた。
そしてついに声が聞こえないくらいのところに来て、少女は九角の腕から手を放して、くるりと軽やかに振り返った。
「いやー、良かった良かった。運がいいよ、おにーさん。普通はこんな簡単には逃げられないから」
「……そうか。なら、助かった。礼を言うよ。レディ」
「気にしなくていいさ。あの場にいたのは偶然で、君を助けたのは気まぐれだからね――ミスター・グレンデル」
少女は何気なく口にしたのだろう。しかしそれは、九角にとって到底看過することができなかった。
考えるよりも先に身体が動く。手にした戦闘用鉈を振り上げ、一呼吸で彼我の距離をゼロへ。
暗色の刀身が、少女の首筋に宛がわれる。
「何故、俺の名を知っている?」
少女の前で、九角は名を口にしてはいない。だというのに、この少女はこちらの名を知っていた。
――その理由は何だ?
言葉なくそう尋ねる九角に対し、少女は笑みを浮かべたままに言う。
「ふふふ。なんでだと思う?」
仮面越しに見据える少女の声音にはからかうようなニュアンスが宿っていた。だが、こればかりは九角も引く気はない。
「答えなければ殺す。返答によっても殺す。命の恩人に言う科白じゃないが……命が惜しいなら――正直に答えろ」
「あはは。惜しむほどの命じゃないよ」
「ならば――死ね」
冷酷に宣告。
同時に笑う少女目掛け、刃を振り抜く。
手応えは――ない!
莫迦な。
九角は驚愕し、仮面の奥で目を見開く。ゼロ距離にあった少女の首筋を撫でる――ただそれだけの動作にしくじる要素はなかったはず。にも拘らず、振り抜いた刃には肉を切り裂く感触はなかった。
刃を振り抜く寸前、まるで幻のように少女の姿が掻き消えたのだ。
「惜しむ命じゃないけど、まだ死ぬわけにはいかないんだよね」
遠くから、よく響く声。
視線を疾らせ姿を探す。
そして見つける。目測でおよそ一五メートル先の、蒸気蠢く彼方。鋼鉄を繋ぎ合わせたような、建物の上。そこに腰かけるようにして、手をひらひらと振る少女がいた。
「自己紹介がまだだったね。私はアゼレア。アゼレア・バルティ」
「なんだと?」
少女――アゼレアの名乗りを聞いた九角は、その名に眉を潜めた。
――バルティ。
その名は九角の知るとある人物の名と同じものだった。故に、九角の反応は僅かに遅れた。遅れてしまった。
その間に、少女は軽やかな動作で立ち上がると、満面の笑みを浮かべて声を上げる。
「それじゃあね、
「待て!」
静止の声を上げるが、当然ながら聞き入れてもらえるものではなかった。踵を返した少女は、振り返ることなく蒸気の向こうへと消えていく。
と同時に、強風。
風に煽られて、濛々と辺りを覆っていた蒸気が吹き荒れ視界を塞がれてしまう。
そして――
蒸気が晴れるとそこは見慣れた――とは言い難いが、馴染みのある街並みの裏路地だった。
「……なんだったんだ、今のは」
仮面を外して、そう呻く。
まるで白昼夢か何かを見たような気分だった。勿論、そんなわけがない。
全身が竦むほどの威圧感を放った鋼鉄の怪物も。
その怪物から自分を助けてくれた少女も。
あれは間違いなく現実の出来事だった。
電脳ドラッグに付随する与太話を調べて見ようと思った結果がこれである。
「くそ……完全泥沼じゃないか」
しかも自ら望んで首を突っ込まざるを得ない展開になって来た。
そう――調べるべきことができた。確かめなければならないことができた。
最早仮面の男の真偽などどうでもよくなっていた。少なくとも、見たこともない都市については、確認も取れた。それどころか――
アゼレア・バルティ。
バルティ――その名は、九角に古い知己の名前だった。
まさかその名をもう一度耳にする日が来るとは思わなかった。
故に、確かめなければならない。
「今更何かがあるとは思えないけどな……」
だが、もし何かしらのヒントになる得るものがあるとしたら、あそこにしか有り得ない。
がしがしと髪を掻きながら、九角は復活していた電脳ネットに接続し、国外行きレイヤーレールの搭乗チケットを購入する。
同時に学校への欠席届や、国外への移動に伴う様々な手続きを電脳で行いながら、ふとあの少女が最後に口にした言葉を思い出す。
「――
ぼそりと呟き、視線を空に向ける。
星空はなかった。
そんなものは、九角が生まれる以前から何処にもない。あるのは天井。疑似空模様を映す巨大スクリーン。降り注ぐ紫外線から人類を守るレイヤーフィールドだけ。
「……マスター」
嘗て師と仰いだ人物が描いた夢想は、今もなお九角の中で燻っている。だから見上げるたびに、苛立ちを覚える。
あの日、あんなことにならなければ、違ったのだろうか。こんな思いをせずに済んだのだろうか。
あの日――二〇八七年七月一日。
世界を震撼させた事件があった日。
あの日何が起きたのか、九角は知らない。
判っているのは、あの日を境に師がいなくなったこと。
そして幼馴染が、それまでの記憶を失ったということ。
それだけだ。
あの日師と共に行動を共にしていた彼は、今もあの日以前のことを忘れている。故に、あの日の真実は今もなお失われたままだった――のに。
燻っていたものに、火がついた。ついてしまった。
もしかしたら――なんていう期待を抱いてしまった。まだ、何かあるかもしれない。何もないかもしれない。何もないという事実を再確認するだけになる可能性のほうが高いだろう。しかし、それでも確かめようと思わずにはいられなかった。
――ピピッ
電子音が鳴り、考えにふけていた意識が戻る。
《電脳視界》に表示されたメッセージが、レイヤーレールのチケットの購入手続きが完了し、その確認を知らせていた。
すぐにチケットの情報を確認する。行先に間違いはなく、九角は手続きを完了させる。
行先はイギリス。首都ロンドン。
そこは師バルティの、嘗ての研究室があった場所だ。
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