三章:紅の請負屋 1
紅衣が踊る。
縦横無尽に、細い路地の壁を足場に右へ左へ。あるいは上下に。
そして落下すると同時――左手の
一人。二人。武装した男たちをねじ伏せて、その赤い影法師がぬぅう……と顔を上げた。
目深に被られたフードの奥から覗く
「た、助けてくれ! 金なら払う! だから、命だけは――」
「――それは、意味のないことだな」
金切り声は最後まで続かなかった。悪鬼が右手を翳すと、バチンッ――という音と共に、まるで雷に打たれたように男の身体が痙攣を起こす。
電気銃、などではない。それよりももっと簡単な手段が、この電脳華やかりし時代には存在するのだ。
もっとも、種を明かせばなんてことはない。ただのハッキングである。ただし――
対象の《電脳義体》は事前に調べてある。後は電脳ネットを介してハッキングを行い、相手の電脳端子にウィルスを送り込めば、結果はご覧の通りとなる。
同時に周辺の電脳情報を調べ、彼らと関係のある《電脳義体》が存在しないことを確認すると、影法師はゆっくりと戦闘用鉈をコートの裏に収め、フードの奥に隠れた鬼面を外す。
影法師――支神九角は外した仮面を手に取ったまま汗を拭い、電脳端子とは別の携帯端末を取り出した。手早く操作し、メッセージを送る。
状況報告と位置情報を通知し、九角はようやく一息ついた。
《電脳視界》越しに現在時刻を確認する。深夜一時十三分。此処から家までの距離を考え、帰宅時間は二時過ぎ、といったところか。
「思った以上に楽な
肩を竦め、踵を返――そうとした。
数歩進んで、不意に気配を感じて咄嗟に身体を傾けると、寸前まで九角が立っていた空間を、何かが凄まじい勢いで叩き落された。
「……何?」
男だ。今まさに九角の手によって鎮圧されたはずの、禿頭の男が、どうにも正気ならざる瞳で九角を見据えて――
「――が ぁあaraoにenえgaeみubnわewa!」
狂気じみた怒号と共に、思い切り腕を振り上げてきた。最小の体捌きで回避。男の拳は空を切り、その先にあったコンクリートの壁を粉砕した。
(何……だと?)
九角は突然のことに瞠目する。禿頭男についてはそれなりに調べた。アンダーグラウンドに拠点を置く組織の所属の構成員で、仕事は主に電脳ドラッグの
そのただの人間が、拳一つでコンクリート壁に大穴を開けるなど、誰が予想するだろう。
それなりに荒事に慣れているつもりではいたが、流石にこういった事態は想定していなかったために、聊かの驚愕を覚えた。
だが、それも一瞬のこと。
九角は再び仮面を被り、男を見据える。その左手には既に逆手に握られた戦闘用鉈があった。
「……電脳ドラッグか、はたまたほかの何かか――どちらにしても面白い」
仮面の奥でにぃぃと口角を釣り上げて、九角は地を蹴ると同時に電脳ネットワークを介して男へのハッキング攻撃を開始した。
並行思考によって、現実と電脳の両界を認識しながら、現実の九角は男へと肉薄する。
地を這うように疾駆し、男目掛けて戦闘用鉈を振り上げる。
対し、男が言語化しがたい咆哮を上げて相対する。九角の戦闘用鉈に目掛けて己の拳を振り下ろす。
強い衝撃が鉈越しに九角を襲った。
まるで分厚い鋼鉄を叩きつけられたような衝撃。受け止めきれず咄嗟に手首を返して男の一撃をいなす。
同時に大きく後退し、九角はまるで獣の如く呻く男を見据えて。そして、
――
電脳空間に立つ支神九角――《電脳義体》名グレンデルは、男の《電脳義体》と対峙していた。
「これは予想外だ……」
《電脳義体》とは己の分身である。文字通り電脳空間で活動するための義体だ。アカウント保有者の身体情報が基盤となり、それを逸脱することはまずない。
だが、男の《電脳義体》は違った。
最早男の面影は何処にもなく、それどころか人としての姿形すら保っていなかった。
その姿はまさに異形。辛うじて頭部が男のそれに酷似しているのが唯一の名残だろうか。
しかし、その姿はまるで――
「……まるで、クリッターそのものだな」
そう。
電脳都市を襲う電脳の怪物。異分子情報体などと呼ばれる悪性ウィルスと酷似する男の《電脳義体》を前に、現実と相違ない鮮血色のフーデットコートを来た
機械義手たる右手。それは対クリッター用プログラム――解体術式を組み込んだ異形の義肢だ。
ばちり……紫電が迸ると同時、その人の腕として相違なかった機械義手が変形する。カチカチカタカタと機械の腕が変動し、その腕は瞬く間にして禍々しい刃を宿した鋼鉄の爪と化す。
――そして、
「――疾っ!」
鋭い呼気と共に肉薄。
クリッターがグレンデルの接近に対してハッキング攻撃を行うが――それよりも早く鮮血色の獣の爪がクリッターの身体を貫いていた。
[当該対象へ対しての『侵食』に成功]
[当該対象の
[当該対象へ対しての解体術式が命中]
[当該対象へ対しての
[当該対象の
それはまさに一瞬だった。
――電脳の怪物が繰り出す光よりも早い
――電脳の怪物が展開する、
――
「――詰みだ」
何の感慨も抱かず、グレンデルはゆっくりと機械義手を引き抜く。その鋭利な爪の先には、クリッターの中枢たる電子核が突き刺さっていた。
びくん、と。
電脳空間で男の《電脳義体》であったものが機能停止すると同時、禿頭の男もまた、まるで強烈な電気ショックでも受けたかのような強い痙攣を起こし――そして言葉一つ発する間もなく崩れ落ちたのを見て、九角は今度こそ標的の沈黙を確信する。
最初は楽な仕事だと思ったが、実はそうでもなかったらしい。
(それにしてもなぁ……)
ちらりと、倒れ伏す禿頭男を見下ろす。彼の電脳情報を再確認するが、先ほど対峙した《電脳義体》の異常事態の原因らしきものは見えない。
あれは……一体なんだったのだろうか。
個人が保有する《電脳義体》がクリッターと化す――なんてことは有り得るのか?
「なーんか、厄介ごとに首を突っ込んだ気がすんなぁ……」
ぼやきながら、九角は今度こそこの場を立ち去るべく路地を後にした。
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