ポンコツ女子は異世界で甘やかされる
@mitsuyamisaki
第1話
遠くの空に、竜が飛んでいるのが見えた。
月は空に二つあり、一つは見ていて分かるぐらいのスピードで空を横切り流れている。
眼下に広がる町並みは、西洋風でいて、どこか住む人々の文化それ自体に、見る人がすぐには気付かない違和感を感じさせるものがある。
まさしく剣と魔法のファンタジー世界そのものであり、商店が立ち並ぶ朝市には様々な人種の人々が溢れかえっているのが見えた。
「えええええええええええええええええええええーーーーーーーーーー!?」
そこがどこなのかは分からない。
でも、地球では無いどこかにいる事だけは確かに分かった。
木城彩芽(成人)。
生まれも育ちも東京都、O区。
母親が自分を生んだ時に亡くなり、父子家庭で育つも、その父親とも交通事故で数年前に死別。
兄弟姉妹はおらず、胸を張って友達と呼べる知り合いは片手で足りる。
現在、彼氏無し。
彼女は、ついこの間まで都内の中堅IT企業D社にフリーランスのプログラマーとして雇われていた。
フリーランスでも、一つの会社からの依頼を外注として請け負い、主な生計を立てるのは普通の事である。
要望には可能な限り応えて来たし、納期には常に間に合わせてきた。
仕事先からの信頼もあったし、悪評も無かった。
趣味は近所に住む野良猫のクロ(色が黒いから)に餌をあげる事。
飼いたいが動物アレルギー持ちで、過去には猫カフェにマスクをつけて行ったのが原因で、呼吸困難になり病院に担ぎ込まれた事もある。
そう言う意味では、欲望に忠実である。
ここ数年は、都内の二階建てアパート一階の風呂無し六畳一間で、質素な独り暮らしをしている。
ちなみに、家賃は五万三千円である。
大きな不満は無いが、同時に大した希望も無い、そんな生活を送って今に至る。
全ての始まりは、夏のあの日、突然に始まった。
セミがこれでもかと愛を叫ぶ真夏日、平日の午前11時。
「あちぃ……」
彩芽は、部屋でぐったりとしていた。
大きな不満が無いと書いたが、あれは今や嘘である。
目下の不満は、このご時世の部屋に扇風機しかない事であった。
だが、壁を見るとザラザラの土壁には、今どき見ない木目調のエアコンがあるにはある。
問題は故障していて、動かすと水が漏れてきて室内が水浸しになるのだ。
ラジエーターあたりがイカレテいるのは分かるが、なにぶん修理の技術が無い。
専門はパソコンやスマホのアプリ開発で、エアコンは専門外である。
修理業者が来るのが一週間後なので、リサイクルショップで買ってきた扇風機に頼る他に無い。
それよりも、大きな不満もある。
主な仕事の依頼元だったIT企業の社長が一昨日に夜逃げをして、依頼以前に事業継続が絶望的な状態と連絡が入ったのだ。
にもかかわらず、担当者は何かあるかもしれないから報酬の確証は無いが仕事を続けて欲しいと泣きついてきた。
ただ働きなんてやっていられないのでもちろん断ったが、主な収入源が途絶えた今、コネが無いならフリーランスを捨てて再就職しなければならない。
その合否通知の電話を待っているのだが、それが来ないのでぐったりとしているのだった。
だが、直接会った事も無い社長にも夜逃げしたくなる理由があったのだろうと、そこを責める気にはならなかった。
人生山あり谷ありでも、他人の谷のツケが回ってくる事をイチイチ責めていては、キリがない。
「変えられるのは、いつだって自分の人生の山と谷だけだ」
と、最近誰かがテレビで言っていたなと思い出す。
良い事言うじゃん、と曖昧に思い出しながらも、どこかで少し寂しいなとも思った。
だが、まあ、余分な金こそ持って無いが、すぐに死ぬほど切迫している訳でもないので焦る事も無い。
スマホを見ても、スパムメールさえ来やしない。
歯で舌ピアスを引っかけ、カチカチと口の中でピアスを遊ぶ。
彩芽が暇な時や、考え事をする時に出る癖である。
もっとも、パンツ一枚で畳の上に寝転がり、豊満な胸に畳跡をつけて床に押しつぶす状況では、頭は欠片も働いてはいない。
正直、おっぱいなんて大きくても、やたらと肩がこるし、こういう体勢では邪魔でさえある。
冷たい床を探して本能のままに転がりまわるのにも、いい加減限界があった。
この時の室温は、窓を開けているのに(道に面したベランダには、塀の目隠しと植え込みが一応ある)三十六度を超えていた。
体温と同じぐらいあり、かなりの暑さである。
カチカチカチ……
舌は動くが、変わらず頭が働いていない。
明る目の金髪に染めている背中まで届く長い髪が、汗で肌にべっとりと張り付き、うなじの蒸し暑さに比例して不快感が増していく。
散らかった床を這って、すぐそこの台所にある小さな冷蔵庫まで行くと、中には猫缶とビール(別に銘柄にはこだわっていない)と、おつまみのサラミしか入っていない。
ビールを二缶出して、一つをおでこに、もう一つを股間に挟むとパンツが缶の水滴でじんわりと濡れるが、引き換えに太い血管を流れる血液が冷えていき体温が少し下がる。
人様には見せられない恰好だが、少しだけ生き返った気がする。
だが、すぐにビール缶が温くなり、先ほどの快感は消えてしまう。
このまま、だらけていても埒が明かない。
上体を起こすと、おでこの温くなったビール缶を開けて、数口だけグビグビと飲んで乾いた喉を潤す。
また少し生き返った気がした。
ぬるめのクールダウンを潤滑油にして、ようやく動き始めた頭で考える。
スマホだけ持って近所のファミレスか、平日昼間はガラガラの銭湯にでも避難しようと意気込む程度の気力が戻ってきた。
気力が霧散しないうちに、行動を起こすしかない。
やる気は行動で呼び起こされると、昔色んな意味で世話になったダメ上司が言っていたのを思い出す。
誰が言っていたかは置いておき、行動は大事である。
脱ぎ散らかしてあったリアルダメージジーンズを拾うとノソノソと足を通し、スリムな尻を収める。
まずは人様の前に出ても、通報されない恰好にならなければならない。
床を埋め尽くす古い雑誌や使いかけの化粧品、キーボードの汚いノートパソコン、いつか畳む予定の洗濯物、空のビール缶と灰皿に、捨て損ねたゴミ袋を乱暴にどける。
ここ数時間行方知れずだった黒いブラジャーを探し出し、大きな胸を中に収納する。
あばらが浮く程にスレンダーなのに、胸だけ前よりも少しキツイ。
あと、とにかく暑い。
下乳と、ワイヤーが入っている部分が熱を帯びて蒸れる。
しかし、ノーブラで外に出るのには抵抗がある程度の羞恥心と理性は、この暑さでもギリッギリ残っていた。
そうだ、と思い出し、壁にかけてある黒いパーカーのポケットを弄ってクシャクシャのタバコの箱(中南海)とノーマルのジッポライター、黄色いハートのシールが貼ってある携帯灰皿を取り出し、ジーパンの尻ポケットに突っ込む。
さっきまで股に挟んでいたビール缶を特に思案する事も無く冷蔵庫に戻そうとすると、冷蔵庫の明かりがつかない事に気が付いた。
気が付けば部屋の電灯も扇風機もスイッチがONの状態なのに停止している。
「え、冗談でしょ!?」
玄関の上にあるブレーカーを見ると、どれも落ちていない。
夏場にエアコンだけでなく、冷蔵庫と扇風機までもが同時に死んだら悲惨だったが、どうやら停電らしい。
都会で停電なんて、かなり珍しい。
だが、まあそれなら、そのうち復旧するだろう。
まだキンキンに冷たい猫缶を冷蔵庫から取り出し、大学生の時に女友達から誕生日にプレゼントされて以来なんとなく着ているリアルな骨柄Tシャツを着る。
髪を黒いゴムでまとめて雑にポニーテールにすると、ようやく外出の準備が整った。
残念ながら、メイクをする気力は残っていなかったが、合コンに誘われている訳でも無しに気にしない事にした。
「?」
アパートの自分の部屋を出たつもりだったのだが、何かおかしい。
普段ならば、そこには二階に上がる階段の影が落ち、狭い路地の光景が広がっている筈だった。
大家さんの壁に貼ってある、いつも目が合う選挙ポスターも無い。
それどころか、どこを見ても行きつけの銭湯の煙突は見当たらないし、ファミレスのある大通りに繋がる道も無い。
使い古したサンダルで踏み出したそこは、西洋建築の街並みが広がる、どこか知らない海沿いの街だった。
どうやら高台にあるらしく、眼下に広がる町並みが日の光を反射してキラキラと煌めき、頬を撫でる海風がえらく気持ちいい。
これが海外旅行なら、写真の一枚でも記念に撮るのだろう。
だが、そんな発想にはならなかった。
反対を向くと、そこには丘の上に西洋建築の砦らしき物が見える。
彩芽は、状況が分からず、部屋に戻ろうと後ろに下がる。
すると、そこには壁があった。
後ろを振り返ると、そこには今さっき出てきたアパートの扉が、無い。
代わりに見た事も無い大きな建物の、観音開きの重厚な扉が閉じた状態で、そこにある。
「えええぇ!?」
まさにキツネにつままれた様な感覚であった。
「えええええええええええええええええーーーーーーーー!!!???」
と言う、意味のある言葉にもならない動揺しか湧きあがらない。
ポケットのスマホを取り出し見ると、五分前の新着メッセージがホーム画面に表示されている。
どうやら、再就職は成功したようだが、時間は十二時丁度を指し電波は圏外とある。
その直後、圏外の表示の横で赤いバッテリーマークが点滅すると、画面が無慈悲にもブラックアウトしてしまう。
これは充電のし忘れであり、停電は関係ない。
ヤバい。
メッセージにとりあえず返信したいのだが、スマホは反応しない。
とりあえず落ち着こうと、タバコを口に咥え、ライターで火をつけようとする。
だが、最近補充を怠っていたせいか、ちょうどオイル切れを起こし、火がつかない。
「そんなぁ~」
これにはスマホのバッテリー切れよりも大きなショックを受け、その場で打ちひしがれる。
やけくそにビールを飲もうと手に持った缶を見ると、猫缶である事に気付き、更に落ちこむ。
あまりの暑さにビール程度の低アルコール飲料を数口飲んだぐらいで、あり得ないバッドトリップでもしたのか、全てが夢なのか。
下手をすると熱中症でアパートの中で、自分は今まさに死にかけているのではないかとまで考え、頬を強めにつねる。
目は覚めず、ただ頬が痛む。
もう一度目を閉じ、後ろを振り返ると、そこにはやはり見た事の無い町並みが広がっている。
夢では無い異常事態に目と眉を引くつかせていると、不意に誰かに声をかけられた。
「よう、そこのお姫さま」
えらく低く渋い、身体がかなり大きな男性の声だった。
こんな事態だが、とりあえずライターをポケットに押し込み、猫缶片手に返事をする。
「あの、よかったらで良いんですけど、火貰えませんか?」
とりあえず、一服して落ち着こうと思ったのだが、どうもそうはいかないらしい。
「あ、何の話だ? それよりお姫さまよ。あんたいくらだ?」
声のする上の方に振り返ると、そこには身長が三メートルを軽々超える髭面でマッチョの大男が立っていた。
彩芽が一メートル七〇センチの身長なので、自分よりも身長が一メートル以上高い所にある顔を見上げる事になる。
大男と目が合うと、驚きのあまり口からタバコが零れ落ちた。
「見ない顔だが、どこの出身だ? かなり俺好みだぜ。よその町から来たのか? なあ、いくらだ?」
「な、な、な……」
彩芽は男の影の中で、逆光の中の顔を見上げながら考えた。
目の前に大きな人、つまり巨人がいる。
巨人症等で身長が大きいのでは無い事が、貴族の様な仕立ての良い服を着ていても骨格で分かる。
その巨人が、自分に何かの値段を聞いてきている。
何の値段を聞いているのか予想出来ない程、バカでも子供でもない。
となると、もはや取るべき行動は一つである。
彩芽が何にも言わずに巨人から逃げようと駆けだした途端、石畳の上ですり減ったサンダルが滑り、無様な格好で転倒する。
「うわっ!?」
しかし、地面につこうとした手は地面に届かず、身体が寸での所で支えられている。
気が付くと、大きな手が彩芽のシャツに描かれた背骨の柄をむんずと掴み取っていた。
「なんだいきなり、大丈夫か」
巨人の手に捕まりながら、そんな事を言われる。
「あ、ありがと」
思わず素直に礼を言ってしまう。
「気をつけな」
そんな事を言って聞かせる巨人。
顔つきは堀が深く、イメージの中のフラメンコダンサーを連想させる色気と濃さがある。
よく見れば、長い髪と髭を細かく編み込んでいて、髪を後頭部でまとめており、かなりオシャレでもあった。
薄汚れてはいるが素人が見ても権威を感じさせる仕立ての良い上下の洋服、その上には黒いベストを着ていて、腰からは彩芽の身長と同じぐらいの長さがある大きな剣が下げられている。
「あの、それで、おろしてもえらえると、嬉しいんですけど」
もしかしたら、話せばわかってくれるかもしれない。
清潔感こそ無いが、ただの無法者と言う訳でもなさそうだ。
そう思って聞いたのだが、素敵な答えが返ってくる。
「う~ん、これは、助けた礼でサービスしてもらわないとな~」
「ちょっと待った! タイム! タイムッ! ストーーーーップ!!」
「キャー!」と叫ぶタイプでは無いにしても、まるで意味のある抵抗が出来ない自分の非力さにパニックを起こす。
こんな状況、生まれて初めてだし、一生経験する事は無いと思っていた。
と言うより巨人って何だよ!?
と、現実感の無さと異常なリアリティにパニックが重なっていく。
「おいおい、客だぜ? 逃げるなって、俺の事知らないのか? あんたみたいな美人ならこれからもひいきにするぜ」
「知らないってば! はなしてぇ! 強姦反対!」
「おいおい、強姦なんて人聞きが悪いぜ、ちゃんと金は払うんだ」
巨人は彩芽の事を、まるで飼い猫を抱える様に肩に担ぐと、彩芽の尻をポンポンと叩き「ふへへ」と助平な笑いを浮かべた。
そのまま、すぐそこにある扉を片手で開けて中に入って行く。
扉には看板があり「ブルローネ本店」とだけ知らない文字で書かれていた。
巨人は彩芽の猫缶での殴打も、空いた手での猫パンチも気にする事無く、まっすぐに進む。
そこは、作り物感ゼロ、本物の豪華な作りをした屋敷とでも呼ぶべき建造物に見えた。
出入口のある広いエントランス。
そこを見下ろす吹き抜けの二階通路には、半裸や全裸の女性が何人も立っていて、奥の部屋からは艶めかしい声が聞こえてくる。
「おろして~助けて誰か~」
そこにいる誰もが巨人の肩の上で助けを求めて騒ぐ彩芽を、何事かと見るが、特に助けてはくれない様だった。
アウェイなのは分かっているが、このままだと大変な事になる。
だが、こんな状況で彩芽は、周囲の女性や自分を担いでいる巨人が日本語以外の言葉を話しているのに、自分が言葉や文字を理解して、その上会話が成立していた事に気付き、自分が異世界の言葉を自然に話している事に対して変な感覚を覚えた。
脳の中に、やたら高性能な自動翻訳アプリを知らない間にインストールでもされたようだった。
通路の突き当りにあるホテルのロビーの様な開けた空間に出ると、巨人がおもむろに立ち止まった。
そこには、優雅にソファに腰をかけて、指の爪の手入れを使用人の少年にさせている一人の少女がいた。
少女は悪趣味な程に豪奢で装飾過多な、真っ赤なドレスに身を包んでいる。
だが、少女の当人はシミもシワも何もない、透明感のある真っ白な肌に華奢な身体を持ち、黄金律の中に全てが収まりそうな程に美しい顔立ちで、人形の様でさえある。
そのアンバランスさ、一見感じる儚さと同時に見て取れる堂々とした態度が、少女から異様な雰囲気を醸し出していた。
「アコニー、今日はこの姫と一晩大部屋を貸し切るぜ。最高の酒と果物、それと媚薬を溶いた香油と蜂蜜を頼む」
巨人にアコニーと呼ばれた赤いドレスの少女は、巨人の背中を猫缶でポカポカ叩いて息を切らせて抵抗する彩芽を見る。
それから、良くわからないと言った怪訝な顔をする。
使用人の少年に手入れが終わっている指で合図をして、爪の手入れを一旦止めさせてから、ソファから立ち上がると、ゆっくり優雅に口を開いた。
「ストラディゴス様、失礼ですが……その子は、どちら様で?」
アコニーの言葉に今度は、ストラディゴスと呼ばれた巨人が、良くわからないと言った顔をする。
ストラディゴスの肩の上では、ジタバタと「助けて~! って言うか私の話を聞け~!」と抵抗を続ける彩芽の姿がある。
「ブルローネの姫だろ?」
「……いいえ、当店の姫では……というか、あなた、少し静かになさい!」
アコニーに凄まれ、その迫力に思わず黙ってしまう。
彩芽は借りてきた猫の様に大人しくなる。
それを見てアコニーは、これで話が出来るとストラディゴスに向き直った。
「いや、だが確かにここから出てきたぞ。俺はてっきり……新しい姫じゃあ無いのか?」
「出てきた? 誰かこの子を見た子いる?」
アコニーが手を叩き、良く響き通る大きな声で招集をかける。
すぐに、胸元が大きく開いたドレスに身を包んだ女性や、半裸や全裸の女性がゾロゾロと階段を下りて来た。
その中には、上の階からエントランスを見下ろしていた顔ぶれもいる。
「おかみさん何~?」
「誰か、この子の事知ってるかね?」
アコニーに聞かれ、艶めかしい恰好の女性達は顔を見合わせる。
「ううん、誰その子?」
それから、アコニーが改めて聞いても、誰も彩芽の事を知っているどころか、建物の中でも外でも見た者さえいなかった。
彩芽は、それはそうだと思いながら黙って聞きつつ「では自分はどこからこんな場所に来たのだろう」と思った。
「あなた、名前は?」
ストラディゴスの肩の上で行儀よく事の成り行きを見ていたら、突然アコニーに声をかけられた。
彩芽は、よそ見していて先生にあてられてしまった生徒みたいな反応をしてしまう。
「あ、ああ、えっと、木城彩芽です……」
「ストラディゴス様、いったんキジョウアヤメさんを、その辺におろしていただけますか?」
「ん? ああ、わかった。ほら、暴れるなよ、ねえちゃん、取って食いやしないから」
さっきまで、ある意味では食う気満々だっただろうにと、彩芽は「エロオヤジめ」と精一杯の不信の眼差しを向ける。
当のストラディゴスは、彩芽の視線などまるで気にしていない様子だ。
大きな手で丁寧に床におろされると、ようやく解放された彩芽はアコニーに駆け寄った。
「助かったよぉ! ありがと!」
小さな手を握りしめる。
「それは、あなた次第です」
アコニーは彩芽を怪しむ視線を送るが、彩芽は目が合っても構わずにアコニーの細い体にハグをし、頬擦りをした。
それを見て、周囲を取り囲むお姉さま方は「なんて恐れ知らずな」と、驚きの表情になる。
彩芽は目の前の子供にしか見えない少女に対して、これでも真面目に感謝を表したのだが、アコニーは少し不満そうな顔をする。
それでも、彩芽の気持ちも少なからず伝わったのかハグを引きはがすと「やれやれ」といった顔をして、奥の部屋へと招き入れたのだった。
「それで、家から出たらここに来ていたと言うの?」
「そうなんです!」
にわかには信じがたい話。
高級娼館ブルローネの応接間に通された彩芽が、店主のアコニーと巨人ストラディゴスに、分かり得る自身の状況を全て話し終えた時だった。
「アヤメあなた、何か変な薬でも飲んでるの?」
「まさかぁ」
案の定、話を信じて貰えず、それどころか薬物中毒のジャンキーかと本気で疑われてしまう。
ほろ酔い汗だくの女が「自宅を出て気が付いたら、どこか別の場所に移動していた。それしか分からない」と初対面の人間に話せば、理由は何にしても「頭の方は大丈夫か?」と思うのが普通だろう。
ジャンキーにしても病気にしても、記憶障害があるとしか思えないのは、至極真っ当な反応であった。
だが同時に、アコニーとストラディゴスは彩芽の言う事を嘘と決めつける事も出来ない様であった。
まず異国の服装。
そして、持ち物である。
特に、動かないスマホとライターに、二人は興味を示し、アコニーはスマホの事を黒い鏡だと思ったらしく顔を映して不思議そうに眺めている。
さらに、やたらと精密な骨格が書かれている、二人からすると死を連想させる悪趣味な服である。
総合して見ると、ただのホラ吹きにしては、手が込み過ぎているし、そんな事をしている動機が分からない。
一方で、アコニーとストラディゴスに説明をされる事で彩芽の方で分かった事がいくつかあった。
まず、ここは日本では無い事だ。
それ自体は薄々分かっていたが、現地の住人に説明され、彩芽の中で推測が確信に変わった。
今いる町は、大陸最西端に位置する王政国家マルギアス、その中でも最西端にある商業都市ネヴェルである事が分かった。
この世界の地図を見せてもらったが、少なくともどこにも日本が無い事も一応だが確認した。
大陸の中には、いくつかの国があり、それらが長年の間に何度も吸収と分裂を繰り返しているらしく、決して平和な世界では無いらしい。
他に分かった事は、たとえば店主のアコニーの事だ。
彼女は少女ではなく、(正確な年齢は乙女の秘密とはぐらかされたが)既に数百歳を超えているエルフと小人族のハーフであり、少女の様な見た目をしているが、成人した子孫が何世代もいる立派な大人で、高級娼館ブルローネの全てを取り仕切る主人である事だ。
よく見るとアコニーの耳は先がとがっていた。
ここまで来ると、いよいよ地球じゃない事を実感するしかない。
彩芽のファンタジー知識は、映画ロードオブザリングで寝落ちする程度の物だったが、まさか自分がそんな世界に飛ばされるとは夢にも思わなかった。
こんな事なら、第一部ぐらいは全部見ておけばよかった等と、予習せずにテストをしているみたいな気分になったが、映画を見ていた所で状況が好転したとはとてもじゃないが言えない。
ちなみに、彩芽に声をかけ、ここまで担いできたセクハラ巨人、ブルローネの常連客ストラディゴスはと言うと、ネヴェルの自治をしている領主に仕える騎士団の副長と言う事だった。
それを聞いた時には、ファンタジーワールドにも慣れ始め、あまり驚かなくなっていた。
「あなた、とにかく迷子なのよね? 家に帰るあてはあるのかしら?」
一応事情を理解したアコニーが心配そうに聞いてくる。
だが、帰るあてなど想像もつかない。
「それがサッパリで」
と彩芽が答えると、アコニーは彩芽の中に答えが無さそうだと察し、その場にいるもう一人に考えを求めた。
「はぁ……ストラディゴス様、どうなさいますか?」
「どうって、旅なら、船か馬車を乗り継いでどうにか帰るしかないんじゃないか?」
ストラディゴスは、真面目に話を聞いていた筈だが、彩芽の要領を得ない「今起きた事をそのまま話すぜ」方式の説明を聞いても想像が追いついていないらしく、良く分かっていない様だった。
アコニーと彩芽の顔色を窺うと、ストラディゴスは今の答えがイケていない事を察し、別の案を考える。
「それなら、城の魔法使い連中に話を聞いてみるのは、どうだ?」
難しい事は知識人を頼るべし。
他人事かつ、丸投げでもあるが、かなり良いアイディアでもあった。
彩芽は、この世界には魔法使いまでいるのかと、勝手にハリーポッターをイメージする。
ストラディゴスの言葉に、アコニーが悪くないと表情で答えると、こんな事を言い始めた。
「では、ストラディゴス様、あなたが連れて来たのですから、せめて魔法使い様に会いに行くまでは、しっかりと面倒を見てあげてくださいよ」
「ええぇっ、俺っ!?」
突然、他人事でなくなったストラディゴスはあからさまに嫌そうである。
「当たり前です。ここまで話を聞いて、栄えある騎士様が困っている女性を見捨てるんですか? 勘違いだとしても、一度拾ったんですから最後まで責任をお取りなさい」
アコニーに言いくるめられ、ストラディゴスが彩芽の方を見る。
つい先ほどまで向けられていた助平な笑いは顔に無く、「おいおい、気まずいよ、どうするよ」と言いたげな、不安と困惑が混ざった表情をしていた。
本当に困っているのは捨て猫みたいな扱いを受けている彩芽の方だが、その性格のせいかそこまで緊張感は感じられない。
ストラディゴスは立ち上がると、悩み始めた。
断る口実をどうにか捻り出そうとするが、口でアコニーに勝てる気がしない。
部屋の入口で三人の話を当たり前の様に立ち聞きしているブルローネの姫達の視線を感じると、格好の悪い所は見せられないと思ったのか、諦めたのか、苦しそうに求めに応えた。
「じゃあ……とりあえず、今夜は、ウチに来るか?」
「……じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて」
「ベッドは一つしかない、一緒に寝るのが嫌なら床になるが、構わないか?」
「いえいえ、屋根があるだけで助かりますし、お世話になります」
彩芽は椅子から立ち上がり、ストラディゴスに軽くお辞儀をする。
ほんの少し前まで畳の上で転がっていたのだ、どこでだって眠れる。
それを見たストラディゴスも立ち上がると、片膝をついて視線を彩芽よりも低くして深呼吸をした。
「ふぅ………………ネヴェル騎士団、副長ストラディゴス・フォルサ。先ほどの非礼を詫びたい。本当にすまなかった。アヤメ殿」
ストラディゴスに改めて謝られる。
正直、うやむやで終わると思っていた彩芽は、目の前の巨人が悪い人ではないらしいと、少しだけ安心した。
彩芽は、元々の騒動が勘違いだった事もあり、それもすぐに誤解が解けたのだから、取り返しのつかない被害が無い以上、もう気にしないようにと勝手に切り替えて考えていた。
そうとは知らず、ストラディゴスが見せた姿勢。
自分の犯した罪を認めて謝れる姿勢と潔い態度には、素直に好感を持てた。
「こちらこそ、なんかごめんなさい。ストラディゴスさん。よろしくおねがいします」
彩芽に責められる事を覚悟していたストラディゴスは、少し拍子抜けする。
姫(高級娼婦)と間違えた時点で、普通の女性なら貴賓関係無く少なからず不快に思うものだし、怖い思いもさせたのに、逆に謝ってくる女がいるとは思いもしなかったのだ。
話がまとまり、アコニーが手を叩くと館の姫達は「もう終わりか」と解散していく。
ところが、男とは単純かつ馬鹿な生き物である。
その中でも、自分を中心に世界が回っていると勘違いをしている自信に溢れた大馬鹿者は、自分の欲望を優先させる。
階段を上っていく姫達の綺麗なお尻をジッと見送っていたストラディゴスは、バツが悪そうにこんな事を言った。
「すまないついでで、悪いのだが……少しだけ時間を貰えないか?」
「はい?」
カチカチカチ……
高級娼館ブルローネのロビーにあるソファで砂時計が落ちるのを待っている彩芽は、考えていた。
今晩の宿を提供してくれたストラディゴスが、上の階でブルローネの姫を味わっているのを大人しく待っている為、一人の時間が出来たのだ。
と言うのも「一時間だけ! 一時間だけだから!」とさっき会ったばかりのストラディゴスに、まあまあ必死目に頼まれたのだ。
それにはアコニーも大いに呆れていたが、対して彩芽はエロオヤジめとは特に思わず「どうぞごゆっくり」と、気持ち良く、にこやかに送り出した。
彩芽が気にしないなら、店に金が落ちるアコニーが無理やり止める道理は無い。
こう言った事に関して彩芽は、かなり寛容な考えを持っていた。
そもそも三大欲求に数えられていて、それ以前に生物繁栄の為に必要な行為と言う前提の考えが彩芽の中では強い。
もちろん、上品下品やモラル、TPOがある事は分かっているし、それを恥ずかしいと思う人の気持ちも十分に分かる。
彩芽だって、普通に恥ずかしい。
それでも、その全てを隠したり見ないフリをするよりは、知った上で制御する方が、まだ生産的な考えだと思うのだ。
「何事も前提の条件が整えば、必ず肯定される」
と、仕事でプログラムを教えてくれた尊敬していた先輩(女)が言っていたのが、彩芽の中では大事な考え方の一つになっているのも理由の一つだろう。
それに、彼氏でも旦那でもない男が、どこの誰と何をしようが、そんな事を気にしてどうすると言うのだ。
ワイドショーの不倫報道ぐらいどうでも良い。
これから泊めてもらう家主のストレス発散か楽しみかは知らないが、それを急ぎの予定もないのに邪魔して、まだ良く知らない相手の機嫌を損ねるのも得策には思えない。
何よりも、欲求不満の巨人の近くで一晩眠るのは、中々に勇気が必要に思えた。
「……以外と小さいのかな」
ボソリと失礼な事をつぶやく。
巨人と人間とで交わされる、いわゆる愛しあう行為。
上で実際に何かが行われている以上、やって出来ない事は無いのだろう。
だが、色々と大変そうである。
彩芽は、特に赤面するでもなく真面目に気になって想像してみる。
カチカチカチ……
まるで哲学者が思考実験でもしているような、迫真の真面目な顔。
彩芽がそんな事を想像しているとは露知らず、アコニーが気を使って自らお茶を出してくれる。
「あっ、ありがとうございます」
「ごめんなさいね。待たせてしまって」
「いえいえ、お構いなく」
「一応、今はお得意様の連れですからね」
「さっき知り合ったばかりなのに、なんか悪いですけど」
喉が渇いていた彩芽は、出されたお茶を美味そうに喉を鳴らして一気に飲み干す。
飲み慣れない味だが、マンゴーに似た南国フルーツの様な甘い香りが鼻に抜け、後味はスッキリしている。
「ごちそうさま。さっきは本当に助かりました」
「最初っから勘違いだったみたいだし、うちにはうちのルールがあるからね……あら、もうすぐ時間ね。ねえ、もし魔法使い様方に聞いても帰り方が分からなかったら、ここの姫になる気はない?」
「えっ?」
思わぬ申し出に彩芽は驚く。
「あなた、顔は悪くないし、肌がえらく綺麗。手も荒れていないから、実は結構良い家の子でしょ? 胸もお尻も十分合格だし、少しやせ過ぎだけど、ウチに来ればお腹いっぱい食べられるわ。それに一人、もう上客もついてるみたいだし、どう? 悪い話では無いと思うのだけれど」
アコニーは悪戯をする子供の様な目で、ギシギシとリズミカルに揺れる上の階に視線を送って手で口を隠してクスクスと笑った。
「それは、ちょっと……」と彩芽は苦笑い。
娼婦と聞くと、あまり良いイメージが湧かない。
彩芽のイメージでは、ストリートに立って身体を売る様な娼婦像しかなく、単純に危険な仕事だと思っていた。
その為、ブルローネの絢爛豪華な建物で行われている商売とはギャップがありすぎて、正直実態が掴めていなかった。
彩芽の反応を見て、アコニーの勧誘は続く。
アコニーの目から見れば、説得の余地は十分にあるのだろう。
「真面目な話、ストラディゴス様は置いておいても、姫(高級)娼婦なんて誰でもそう簡単になれるものじゃないわよ。一度でも外で客を取っていても、顔が悪くてもなれない。身体に目立つ傷があってもダメ。来るお客は金持ちばかりだし、働く前に一から百まで全部、礼儀も技術も仕込むし、玉の輿も珍しくないわ。何人も王族の愛妾になった子もいる。何より、働けば、かなりのお金になる。ここの子達、そこら辺の騎士様よりよっぽど稼いでいるのよ」
「へぇ~」
と彩芽は話に感心する。
愛妾の意味だけは聞いていて分からなかったが、愛人とかそう言う事だろう。
目の前で自分の勧誘をする高級娼館の主、アコニー。
見た所、姫達には恐れつつも慕われている様だった。
つまり、金と権力を持つ国の男達への影響力が最もあるのは、目の前の小さな女王なのだ。
なのだが、彩芽はそんな事には欠片も思い至っておらず、もしかしたら悪くない転職先なのかもしれないと早くも少しずつ心がグラついていた。
砂時計の砂が綺麗に全て落ちるのを見ると、アコニーは階段に向かいながら、
「無理強いはしないわ。家に帰れる事は祈ってるけど、こっちも前向きに考えてね、アヤメ」
と言って投げキスをし、二階へと消えていった。
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