第10話  クリスマスの誓い



「いよいよね……」

社内で一番大きな第一会議室のテーブルの右端に座った朱音が、隣の薫子に小声で囁くと、緊張気味に顔をこわばらせていた薫子は、コクンと頷いた。

八月の終盤、例のプレゼンの結果が発表される日が来た。


このひと月余り、薫子は家へ帰る間も惜しんで飛び回っていた。

夏休みの旅行ラッシュで、通常の添乗業務をこなしながら、慣れない営業や予定している観光地や宿の念入りな下調べに、持てる限りの時間を割いた。

営業の手解きは、朱音が丁寧に指導してくれたし、最初のうちは極力付き添ってもくれた。

だが、家庭持ちの彼女におんぶにだっこではあまりに申し訳なく、極力単独行動を心掛けた。尤も、これといった営業術も経験も持たない自分には、とにかく数多く足を運ぶことでしか受け入れてもらう術は見つからなかったが。

それでも、その甲斐あってそこそこの数の離れやコテージを持つ旅館やホテルの理解を得ることが出来、ようやく今日の日に辿り着いたのだった。



「お待たせしました、それではこれからこの秋の臨時商品の選考結果を、皆さんにお伝えしたいと思います」

二人の直属の上司でもある川上課長が進行役を務め、左右には営業一課の部長、営業二課の部長がそれぞれ陣取っていた。

今回のプレゼンには各部署から4商品ずつ、計8商品が対象となっていて、それぞれに凝った工夫がなされている、現場経験を踏んでいる添乗員ならではの物ばかりだった。

「さて、今回はなかなかの力作が多数あり、我々も結論に至るのに少々時間を要しましたが、ようやく決定しました」

テーブルの下で無意識に握っている手の平にジワッと汗が滲む。薫子はカラカラになった唇をグッと引き締めると、ゆっくり顔を上げた。


「今回は、営業二課から出品された……“秋の自給自足的収穫祭ツアー!”に決定しました!この時期の他社の味覚ツアーが目白押しの中、参加者に収穫そのものを楽しませ、その新鮮な食材を使用した豪華料理を楽しんでもらうという参加型の商品が良いのではないかという結論に達した、というのが選考理由です」

向かいの反対側テーブルで小さな歓声が上がり、その商品の出品者が満面の笑顔で周りと握手をしていた。……それは同時に薫子と朱音の敗北を意味していたのだった。


商品の細かい説明をあらためて当の企画者が発表し、各課の対応に備える為にそれぞれが耳を傾けている間も、薫子の心はここに在らずだった。

初めての挑戦にして、初めての敗北だった。


会議が終わると、薫子は真っ先に部屋を出て屋上に向かった。

身体中が熱を帯びていて、不自然な火照りを感じる。特に喉の奥の方から胃にかけてがカーッと熱く……それが激しい怒りのような悔しさのせいだと、薫子は妙にハッキリとした頭の中で自覚した。

それは、今まで抱いたことのない内に向けての激しい感情だった。

スポーツのインタビューなどでよく見る、悔し涙で自分を悔いるアスリート達に対して、それまでは酷く冷めた目で見ていた自分だった。

泣いて悔しがる位なら、最初からやめておけばいいのだと、そんな風に思っていたのだ。だが、今初めて彼等の心情が分かった気がする。

自分を不甲斐ないと強く思う感情、誰も責められない、全ての責めが内に向いた時、人はこんなにも煮えたぎるのだと、今更ながらに思い知った。



「薫子!!」

屋上の出入り口の重い鉄のドアが、大きな音を立てて開き、朱音が飛び込んできた。

外側に向けて並べられているベンチの一つに座っていた薫子を見つけると、朱音は勢いよく走り寄り、その前に立った。

「何やってるの!?まだ終わってないのよ!」

薫子はなんだか慌てて見える朱音に苦笑した。

「何……言ってるの?」

朱音は薫子の腕を取って、強く引っ張った。

「感傷に浸るのはまだよ!……課長が私達を呼んでるわ、早く行くわよ!」

聞き返す間もなく、薫子は引っ張られるようにして立ち上がった。


状況を良く理解出来ないままに、せかせかと急ぎ足で前を行く朱音に着いて行きながら、さっきの会議室に入ると、川上課長が一人残っていた。

「課長、すみませんでした!花田を連れてきました」

朱音は川上に軽く頭を下げると、キョトンとした表情の薫子を見た。

「おう、来たか!花田君、君はせっかちだねぇ、まだ話は終わっていなかったんだよ」

「は、はい……なんでしょうか?」

首を傾げながらも、朱音の顔に浮かんでいる笑みらしきものが気になった。

「いや、神田君には簡単に説明したんだが、君達の企画だがね、今回の限定企画ではなく正式な年間通しての商品にしてはどうかという案が持ち上がってね。上の方から、限定にするには勿体ないから、前向きに検討するように指示が出たんだよ」

正式な商品……限定では勿体ない……朱音の何かを抑え込んだような微笑み……それらの全てが一つづつパズルのように薫子の頭の中で組み立てられた。


「まぁ、取りあえずはおめでとうと言っておこう。神田君、花田君、良い企画だったよ。勿論、何点かは修正を求められる可能性は有るにしても……まず商品化は間違いないだろう」

川上が満足そうな笑みを浮かべ二人に握手を求めると、朱音は静かに御礼を述べながら握手を交わし、薫子においてはキツネに抓まれた様な表情のまま、おずおずとその手を握った。


分厚いファイルケースを抱えながら川上が部屋から出ていくと、朱音が腕組みをしながら、薫子の正面に立った。

その顔には先程までの抑え込んだものではなく、はち切れんばかりの喜びの笑みが浮かんでいる。

薫子は、不思議な感覚に捉われていた。つい10分程前、屋上で持て余していた内に向かっていた煮えたぎるような感情が、今度は大きな塊となって今にも外へ向かって爆発しそうな勢いだった。

薫子は一旦ギュッと目を瞑り、照れくさそうに鼻の頭にしわを寄せて笑うと、両手を高く掲げ朱音に向かって差し出した。

「……何の真似?万歳?」

可笑しそうに首を傾げた朱音に、薫子は悪戯っぽく笑った。

「こういう時は、ハイタッチと決まってるわ!」

二人は、大きな歓声を上げながら、お互いの手に向かってジャンプしながらハイタッチを何度も繰り返した。そして、朱音が少しだけ背の高い薫子を力いっぱい抱きしめた。

「やったわね!薫子!やったのよ!!」

薫子もしっかりと抱きしめ返すと、何度も大きく頷いた。

「朱音のお陰!朱音がいなかったら、こうはならなかったわ!でも……でも……夢みたい!ホントにやったのよね!?」

「何言ってるの!あなたの実力でしょ!?私はちょこっと手伝っただけよ、骨組みもコンセプトも、最終的な営業だって全部やって退けたでしょ?」

薫子は朱音の顔をまじまじと見つめて、パチパチと瞬きをした。

「そっか……そうよね?あたし、ちゃんとやって退けたのよね?」

朱音は薫子の頬を軽くつつき、ニッコリ笑う。

「おめでとう……マスターに、報告しないとね?」

剣吾に……報告……薫子は一瞬息を詰めた。なんと答えればいいのかわからずに、曖昧な笑みを浮かべる。


剣吾が東京に旅立ってから、一月半が過ぎていた。

携帯の番号もメールアドレスも拒否したがために、直接的な連絡は一切取り合っていないのが二人の現状だった。

ただ、剣吾からは二週間に一度の割合で、絵葉書が届いた。

それは東京タワーの絵葉書で、初めて届いた時は、『今時、東京タワーって!』と思わず突っ込みたくなった薫子だったが、それでも泣きたくなるほど嬉しかった。

毎回短い走り書きのような一言が書いてあり、『俺はめちゃくちゃ元気や!』とか『酒飲むよりも飯を食えよ!』とか『俺は無理しなあかんけど、おまえは無理するなよ!』とか……どれも彼らしいテンションの優しいメッセージだった。

自分からも返事を書こうと、何回かペンを握ったが……どうしても言葉が出てこなかった。言いたいことも聞きたいことも、山のようにあったが、自分の本心を一言にはとても託せそうになく、在り来たりの挨拶言葉なら書かない方がマシだと、結局諦めたのだ。

それでも、剣吾の携わっているオーディションは日を追うごとに話題となり、多くのメディアに取り上げられた。

勿論、剣吾自身の姿を見られるわけではなかったが、ワイドショーなどの特集を見る度に、彼がその仲間と共に必死に作り上げている物が想像以上に大きな事だということは、そういう方面に疎い自分にも理解出来た。

そして、薫子にとってそれこそが支えだった。

剣吾の取り組んでいる事に比べたら、自分のやろうとしている事なんかはその比ではないと思い……また、剣吾なんかに負けてたまるか!と思い……次に逢える時には、お互いの成功を自慢し合うのだと意気込み……薫子は剣吾の居ない日々をそうやって過ごしていた。忙しく、休む間も無い時はそれで充分乗り切れた。

だが、それでも淋しくてどうしようもない時は、両膝を抱え顔を埋めてじっとやり過ごした。

頭の中の考える部分とは違うところで、無性に彼を恋しがる自分がいた。

彼の腕、彼の背中、彼の声、彼の唇……彼の全てを恋しがったのだ。

それでも……薫子は思った、それはとても幸せな淋しさなのだと。

だから、まだ逢いに行く時ではないのだとも。

駄目だと思っていた企画が周りの理解と協力で、たった今大きなチャンスと変わった。このチャンスを踏み台にして完璧なものにしてこそ、やり切ったと胸を張って言えるのだ。


薫子は、目の前で不思議そうに見つめる朱音にあらためてニッコリと笑いかける。

「まだよ!剣吾への報告は、まだ駄目。課長も言ってたでしょ?何点かの修正は必要だって。だから、完璧な物に仕上げてちゃんと商品化してみせるわ!そしたら……堂々と彼に報告するわよ」

「愛は、人を時に無敵にする……そんな格言あったわよねぇ?」

朱音は茶化す様に口を歪めて笑ったが、すぐさま真顔になった。

「いいわ、薫子、ここまできたら頑張ろう!私達の企画が商品になるなんて、こんなチャンス二度とないし、絶対完成させましょう!」

薫子はその目に強い光をたたえて、頷いた。



「うぅ……寒い……!」

薫子は、温かかった地下鉄の構内から階段を上り外へ一歩踏み出して、その寒さにコートの襟を掻き合わせた。

今年の冬は例年よりも寒い冬になると、いつだったかテレビの天気予報で言っていたのを思い出す。確かに12月とはいえ、この冷え方は半端じゃないなと思う。

冬の名古屋も結構な寒さだが、東京はその上をいくような気がした。

あと2日でクリスマスだという12月の末に、薫子は東京に居た。


高見に連絡を取り、ファックスで送って貰った事務所の地図を手に恵比寿の駅に立つ。

薫子には、ある時点から計画があった。

あの夏、剣吾は必ず迎えに行くと言ってくれたし、待っているとも答えた。

だが、朱音との共同企画が正式にレギュラー商品化されると決定した時から、薫子の決心は大きく変わったのだ。

自分の成すべき仕事をやり遂げて、剣吾のオーディションが終わって成功したら、待っているのではなく自分が彼を迎えに行こうと。

何かある度に、あの裏口のガードレールに腰かけて自分を待っていてくれた彼を待つのではなく、今度は自分が彼を待ち伏せしようと決めて来た。

その為には高見の協力が絶対的に必要だった。音楽事務所の名前は有名だったし、連絡先ももしもの時の為に剣吾から聞いていたから、連絡を取るのは簡単だった。

ただ、たった一度リュージュで僅かな時間会っただけの自分の事を覚えてくれているかが唯一の不安であったが、それも電話に出た途端解消した。


「花田……薫子さん?」

「あ、はい、ご無沙汰しております……一度だけお目にかかったのですが……覚えていらっしゃいますでしょうか?」

薫子の確かめるような不安を含んだ口調に、高見はハッハッハと笑った。

「勿論ですよ!剣吾の……薫子さんですよね?」

剣吾の?……高見の意味深な言葉に、薫子は“はい”とは答えあぐねた。

「いや、失礼!剣吾の口から一日一回はあなたの名前を聞いている気がしているもんでね、変な言い方になってしまいました」

「彼は……一日一回あたしの何を話しているんですか?」

薫子の口調が一変して不機嫌になり、眉間にしわが寄る。

だが、電話口の向こうの高見は面白がったままだ。

「それは、剣吾本人から聞いた方がいいですよ。……で、その本人を呼びましょうか?彼ならミキシングルームに居るけど、言えば本気で飛んでくるんじゃないかな」

「いいえ!呼ばなくて結構ですから!」

薫子は慌ててそう言うと、耳まで真っ赤になってる自分の頬に手を当てて、こんな顔を見られないで済むことに胸を撫で下ろした。

気を取り直して咳払いをする。

「厚かましいとは思ったんですが、高見さんにお願いしたいことがあって……」

薫子は、剣吾には絶対に内緒にするという約束を取り付けた上で、今回のささやかな計画を掻い摘んで話して協力を願い出た。

「喜んで、協力しますよ!あいつの驚く顔が目に浮かぶようだ。でも、喜ぶだろうなぁ!オーディションが無事に済んだ途端、ソワソワ落ち着かなくてね」

「あの、彼はいつ名古屋に行くって言ってましたか?」

「たしか……クリスマスに行くんだと言ってたんじゃないかな?」

「じゃぁ、23日に行くことにします。その日の予定と地図を送って頂けます?」

「お易い御用ですよ、なんなら薫子さんの指定の時間に事務所から追い出しますよ?」

すっかり楽しんでいる様子の高見に、薫子は苦笑いしながら感謝を述べて、受話器を置いた。それが12月10日の事だった。


日比谷線の恵比寿で降り、駒沢通りに沿って5分も歩くとその大きなビルは姿を現した。

大手の有名音楽事務所の入ったビルとあって、ダークブラウンのタイル張りの壁と、グレーにスモークされた大きなガラス窓は、重厚感とモダンさを兼ね備えている。

高見の話では、社員の通用口は真裏になっていて、その向かいには大きな公園があるという。

夕闇せまる中、ゆっくりとした足取りで裏手へ回ると、薫子の会社の通用口とは比べ物にならないような大きく立派な出入り口が有り、受付らしき所には警備員もいた。

たしかに普通の企業とは違い、芸能人や著名人も出入りするのだから、セキュリティーが万全なのも頷ける。

薫子はどこで待とうかと、暫し思案した。

ここでは怪しまれる可能性もあるし、芸能人の追っかけだと勘違いされて排除でもされたらたまらない。

ましてや今日の服装は、お世辞にもフォーマルとは程遠く、細身のジーンズにダウンのロングコートという出で立ちだ。

薫子は通用口の向かいにある公園に目を留めた。

道路といっても、一方通行でさほど広くはないから、向かいのガードレールに座って待っていても剣吾の姿を見落とすことはなさそうだ。


薫子はコートのファスナーを首元までしっかりと上げ、マフラーを巻いてどんどん増す寒さに備えた。自慢だった背中まであった長い髪も今は無く、顎のラインのボブになっていた。

剣吾が東京に旅立った後、色々な気持ちの切り替えにバッサリと切ったのだ。

お陰で営業の印象も良かったし、社内でも好印象だったから後悔はしなかった。

報告することは、まだあった。煙草をやめたのだ。

これについては、一種の願掛けだった。プレゼンの結果が出るまでは、と禁煙を決め込んだ。

禁煙は、そこで終わりにするつもりだったのだが……プレゼンに負けた代りに振って湧いたような新商品化の話があった時に、全てを完成させるまでと期間延長した結果、完全に煙草とおさらば出来た、というオチだった。

ふと、思い出したように鞄の中から例の絵葉書の束を取りだした。

二週間に一通の割合で手元に届いた九通は最初から最後まで、全て東京タワーの物だったから笑えた。

薫子は公園側のガードレールに浅く腰かけて、細い街頭に肩を預けると、明るく照らされた絵葉書を眺めながら、何十回、いや、何百回読んだかしれない剣吾のコメントを指で愛しげになぞる。

ただ、その一言コメントは日を追うごとに徐々に変化していて……離れ離れになって三ヶ月を過ぎた頃から、彼の心情的な言葉が連なっていった。

『そろそろ淋しくなってきた!』とか、『会いたいぞ!』とか、『身も心も寒い!』など……届く度に、必死に押さえていた淋しさや恋しさを逆なでされる思いだった。


30分程そうして待ちながら、足元から上がってくる冷えと闘っていると……見覚えのあるシルエットが通用口の向こうに現れた。

大きな透明の自動ドアの向こう側で彼は、警備員と何やら言葉を交わし軽く手を上げると外へ出てきた。

外の冷たい空気に触れ、肩をすぼめる様に丸めると、手にしていた茶色のダウンジャケットを羽おる剣吾の姿に、薫子は瞬きを忘れて目を見開いた。

緊張で息が浅くなる。

ほんの、10メートルもないその先に彼はいる。でも、まだこちらには気付いていない。

声を掛ける?……名前を呼ぶ?……口を一文字に固く結び、緊張のためか知らず知らずの内に睨むような目差しで、薫子は向かいを凝視していた。

その時、ダウンのファスナーを上げながら何気なく正面を見た剣吾と目が合った。

向かいのガードレールに腰かけてこちらをジッと見つめている女性の姿に、剣吾は思わず目を細めた。外灯の真下に居るとはいえ、辺りはすでに真っ暗の中、その女性の顔を確認するかのように訝しげに首を傾げた。


「オス!!……久しぶり!!」

なぜそんな言葉だったのかはわからなかったが、薫子の口をついて出たのは彼の名前ではなくまるで男のようなぶっきら棒な一言だった。

薫子の大きな声を耳にして、剣吾は全身硬直状態になった。

瞬きも、おそらくは呼吸さえ忘れたかのように固まっている剣吾の姿に、してやったりの微笑みを浮かべながら、薫子はゆっくりとした動作で腰を上げ、道路を渡り始めた。


「……おまえ、薫子か?……」

剣吾は依然仁王立ちのまま、近づいてきた薫子にそう聞いた。

約半年振りに聞く彼のハスキーな声に、全身に震えが走る。

だが、気恥ずかしさで素直になれない。

「薫子でなかったら、あたしは一体誰よ?」

その淡々とした彼女らしい口調に、剣吾の硬直は解けた。

こめかみを指で押さえ、信じられないように首を横に振る。

「なんで……おまえがここにおるんや?なんでや……」

懐かしい関西弁に胸を高鳴らせ、薫子は鼻の頭にしわを寄せながら笑った。

「ただじっと待つのは性分に合わないから、あたしが迎えに来たわ。いけなかった?」

「おまえが俺を迎えに?いや、いけなくは……ないんやけどな。そんなことより、おまえ髪の毛どうしたんや?」

ガードレールを挟んで目の前で自分を見上げる薫子の、以前とは全く違う髪型に気付き、剣吾は目を丸くした。

「どうしたも何も、切ったのよ。見ればわかるでしょ?お気に召さなかった?でも周囲には好評だったわよ」

軽く肩をすくめて眉を上げた薫子のその相変わらずの仕草に、剣吾の表情は一気に崩れ、満面の笑みが広がる。

突然、ガードレール越しに物凄い力で抱きしめられる。

上から覆いかぶさられるように、羽交い締めにされて、薫子は一切の身体の自由を奪われてしまった。

「ちょっ!ちょっと、剣吾!!人が見てるわ!」

薫子が慌ててもがきながら抗議したが、剣吾の腕が緩むことはなく、むしろ一喝されてしまう。

「うるさい!見たい奴には見させとけ!何の予告も無く、俺の目の前に突然現れたおまえのせいやからな!」

大きな力と温かさに包みこまれて、薫子は身体から力が抜けていく気がした。

夢にまで見た彼の腕に、抱かれている。

恋しくて恋しくて……泣きたくなるほど恋しがった彼に、抱かれているのだ。

ぼんやりした頭の中でそう実感した時に、薫子の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。

この五カ月余り、只の一度も泣きはしなかった。どんなに淋しくても、眠れないほど恋しくても、決して泣かなかった。

次に、剣吾に逢えるまでは泣かないと決めていた。


本当は、自分が待てなかったのだ。これ以上待てる自信が無かった。

あのプレゼン後、細かいチェックや修正や営業区域を広げながら、三ヶ月費やして例の商品を完成させた。結果、年明けに発売が決定したのだ。

そして、薫子がやり遂げた頃……剣吾の携わっていたオーディションもクライマックスを向かえていて、最終ステージは公開放送されることを、テレビを通じて知った。

勿論、剣吾の姿がテレビに映ることは無かったが、それでも薫子は息を詰めて結果を見守った。彼の昔からの夢であったその世界を、この目でしっかりと見届けたかったのだ。


全ての幕が下りて、そのオーディションが無事終わった時、薫子はもう居ても立っても居られなかった。

すぐさま剣吾の元へ飛んでいきたくて、お互いの頑張りを称え合いたくて、何より彼の胸に飛び込みたくて……だから薫子は東京へやって来たのだ。


「………クソっ!!」

突然、剣吾がその腕を解き、長い脚でガードレールをひょいと跨ぐと、薫子の手を掴んで乱暴な足取りで向かいの公園に歩きだした。

引っ張られるような形になった薫子は、涙を拭う間もなく大股な剣吾に着いて行くのが精一杯だった。

「ちょっ!……ちょっと、剣吾!?」

強引に連れていかれたその向かいの公園は、周囲を椎や楠のような常緑樹に囲まれた結構な広さのもので、中央にはかなり明るい外灯の下にこじんまりとした池があった。

剣吾はその池の近くまで薫子を連れていくと、くるりと振り返った。


「ねぇ……怒ってるの?あたしが来たら何か具合悪かったの?」

薫子は剣吾の不機嫌そうな、それでいて興奮状態の顔を覗き込んだ。

「具合悪い事があったか、やって?……」

剣吾は大げさな身振りで天を仰いだ。

「有りやな、大有りや!俺の完璧な計画が丸潰れやで!」

「完璧な計画ですって?」

薫子の眉間に小さなしわが寄った。剣吾は大きく頷くと、腰に手を当てた。

「俺は、明後日に名古屋へ行く予定やったんや。クリスマスに、おまえを迎えに行って、それで……」

珍しく剣吾が言葉尻を濁したことに、薫子は首を傾げた。

「それで、何?あたしをクリスマスに迎えに来て……それで、どんな完璧な計画を立ててたのよ?」

遠慮のないストレートな質問に、剣吾は大きな溜息をつき……そして、壊れものでも扱うかのように薫子の頬にそっと触れた。

剣吾の長い指が触れた途端、薫子の心臓は大きく跳ね上がる。


「まぁ……もうどうでもいいことやな、俺の計画なんて。こうしておまえに逢えた事に比べれば、大したことではない気がしてきたわ……」

もう、限界だった。薫子は剣吾の言葉を聞きながら、彼の胸に倒れ込むようにしがみついた。それはまるで迷子になった幼い子供が、親を見つけた時のようだった。

「……もう無理!もうこれ以上剣吾と離れていたくないの!だから、来ちゃったのよ!だって……仕方ないでしょ?淋しくてどうにかなりそうだったんだもの!」

それは、何一つ飾らない、ストレートな告白だった。

自分の胸に顔を埋め、腰にしがみつき、心情を吐露した薫子に、剣吾はひどく感動した。

先程とは違い、剣吾は激しい感情を押し殺すように薫子を両腕で抱きしめ、その夢にまで見た懐かしい香りの髪に、そっと顔を埋めた。

「俺の方は……もうとっくにどうにかなってたんやで。自分がこんな風になるなんて……よもや想像もしてなかったわ」

やはり感情を抑えるようなくぐもった声で、剣吾は静かに告白を始めた。

「本当は、もう少し冷静でいられると思ってたんや、歳も歳やしな!……せやけど、今やから白状するけどな……このひと月程は、正直、のた打ち回ったわ」

「……なんで?」

つと、顔を上げて薫子が剣吾を見た。

「なんでって……おまえが聞くか!?」

剣吾は呆れたような、それでいて決まり悪そうな笑みを浮かべた。

「こうして、おまえをこの腕に抱けない事が、こんなに辛いものだとは思わんかったって言ってるんや。この歳になって、こんなにも誰かに執着するとは……自分でもビックリやったわ!」

薫子は、剣吾の告白に無邪気に顔を綻ばせた。

「それで?……もっと、もっと聞かせて」

濡れた瞳でせがまれて、剣吾は不覚にも胸が詰まった。

「何度も何度もおまえは夢に出てきたし、突然おまえに呼ばれたような気がして振りかえったことも、一回や二回やなかった。朝起きて、なんでおまえは隣におらんのやろうと思い、夜誰もいない部屋に帰る度に、おまえを力尽くでもこっちへ連れて来なかったことを悔やみ……」

剣吾はそこで薫子の頬を指先で軽く突いた。

「おまけにこの気の強いお嬢さんは、全くの音沙汰無しや!俺が出した葉書の返事も一度もくれへんかったやろ?あの時は待ってるって言ってはくれたけど、実はもう忘れられたんかもしれんとか、新しい男に乗り換えたんやないかとか、くだらんことばっかり頭に浮かんで……俺は気が気やなかったんやぞ?」

「なんか、あたしって随分信用無かったのね?」

薫子は爆発しそうな幸福感を押し殺しながら、わざと拗ねたように口を尖らせた。

「じゃぁ、なんで返事くれなかったんや?別に難しいことやなかったやろ?」

「……あたしには難しかったのよ。聞きたいことも言いたいことも山のようにあって……それを一言にするなんて、出来なかった。かといって、嘘は書きたくなかったし、在り来たりの社交辞令書く位なら、出さない方がマシだと思ったの」

薫子の表情は、その頃の例えようのない辛さを思い出して、曇った。

「でも!だからといって……あたしが平気だったなんて思わないでよね?全然平気じゃ無かったんだから……ずっとずっと辛くって……来る日も来る日も剣吾の事ばかりで……」

剣吾はそっと顔を傾けて、かすめる様に薫子の唇をキスで塞いだ。

「もう言わんでええ。すまん、くだらん愚痴やったな!ホンマは俺が一番わかってるんや。おまえは必死に背筋を伸ばしてたんやろうに。辛い事を辛いと認めずに、淋しい事を淋しいと認めずに踏ん張ったんやろ?」

懐かしい剣吾のキスと、彼らしい理解に、とうとう薫子は泣きだした。

この時の為に自分は頑張ったのだと、あらためて痛感した。


「薫子、結婚しよう!俺の、嫁さんになってくれ」

薫子が泣き止むのを待って、剣吾は迷わずに切り出した。

顔を上げ、必要以上に瞬きを繰り返しながら剣吾を見つめる薫子の顔は一気に喜びに崩れた。想い余って、剣吾の首にしがみ付く。

「する!!結婚でも何でもする!剣吾のお嫁さんになる!死ぬまで剣吾の傍に居る!」

薫子の細い身体をひしと抱きしめ、剣吾は再び顔を近づける。だが、二人の唇が触れるか触れないかの寸でで、薫子が囁いた。

「一つだけ……条件があるの。一つだけでいいから、約束して」

「……ん?なんや?」

薫子の唇が剣吾の唇をかすめる様に開く。

「あたしより先に死んだりしないって、約束して。あたしを……絶対に一人にしないって、誓って」

その言葉を受けて、剣吾の表情が一瞬複雑そうに歪んだ。

「絶対の約束は……出来ない。おまえを一人残す事など考えたくもないが、こればっかりは順当にいけば俺が先や。それが、おまえより14年も先に生まれてきた俺の宿命やろうとも思うしな。だが、最大限の努力はすると誓う。一分一秒でも長く一緒に居られるように、努力する……それでは、あかんか?俺はおまえに相応しくはないか?」

薫子は優しげに微笑んで、小さく首を振った。

「あたしは……どうあったってあたしは、剣吾じゃないと駄目だもの。あなたが居ないと生きてはいけないもの。だから……それでいい。もしも剣吾が死んだら、きっとあたしも死んじゃうから、それでいいの」

それは、剣吾にとって初めて見るような薫子の姿だったのかもしれなかった。

高飛車でもなく、生意気でもなく、意地を張るでもなく……彼女本来の、純真無垢な心そのものの言葉。

剣吾は込み上げる熱い塊に、胸を詰まらせた。今にも泣いてしまいそうで、言葉が出てこない。おそらくは、誰にも見せたことのない本当の彼女が、そこに居た。

剣吾は目と鼻の先にある薫子の真っ直ぐな瞳を見つめる。

「………死ぬまで一緒や。そしてきっと俺等は、死んでからも尚一緒や。だから、二人は永遠に一緒なんや!」

「うん、きっとそうね……絶対、そうね……」

どちらからともなく二人は唇を重ね、この五ヶ月間を埋めるかのようにお互いを求め合い、貪りあった。

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