第9話  さよならマスター



薫子は、賭けをした。

何がどうってことのない、単純極まりない賭けを。

朱音から持ちかけられた企画プレゼンの返事をする期限は、来週の火曜日だ。

正直、まだ決心は着いていない。受けるのか、断るのかの答えも決め兼ねている。

だから、薫子は自分だけの賭けをしたのだ。

火曜日までに剣吾が帰ってきたならば、今回のプレゼン参加は断る。

特に理由は無い。

もしも……剣吾が帰らなければ、心を決めてプレゼンに挑戦する。

やはり、そこに理由は無い。

動機も理由も不純だとは思ったが、そういう選択肢を持たなければ、立っていられない気がした。


そして、その答えは、呆気ない程簡単に出た。

「朱音、この前のプレゼンの話なんだけど……いいかしら?」

一週間後の終業間際、薫子は約束通り朱音の机の横に立った。


「朱音の助けは往々に借りなくちゃいけないけど……この際、やってみようかと思って」

あっさりとそう言った薫子に、朱音は少しばかり驚きの表情を浮かべた。

「……本気で言ってる?本当に、私と組んでくれるの?」

「冗談でこんなこと言ってるんじゃ無いことは確かよ」

朱音は薫子を見上げながら、その無表情な顔を見つめた。

どう見ても初めてのプレゼンに挑戦しよう!という人の顔ではない。

もちろん、今まででも彼女のやる気に満ち溢れた活き活きとした顔を見た事など無かったが……それでも、こんなに無表情な薫子は初めてな気がした。

「誘っておいてなんだけど……簡単じゃないわよ?嫌々でも笑ってイエスと言わなければいけないことだってあるわ。いいの?」

そこで初めて薫子が笑った。

「あたしに動きだせと、言ったのは朱音でしょ?何かが変わるかもしれないって」

朱音はもう一度薫子の顔をジッと見つめ、やがてニッコリ微笑んだ。

「……わかったわ、やりましょう。最大限の努力をして勝ちましょう!よろしくね!」

朱音の差し出した手を、薫子はおずおずと握った。

そう……剣吾は帰らなかった。



一方、その剣吾は二週間が過ぎてもまだ、東京に居た。

麻美との再会を果たし、過去の呪縛のようなものから解き放たれ、そしてあらためて高見や吉川とじっくりと膝を交えて話し合っていた。

もちろん、ただ話し合うのではなく、高見の独断と配慮で、ひと月後に始まるそのオーディション企画会議に見学という形で参加させて貰っていた。

当初の剣吾の思惑は、取りあえず現場の人間達の考え方や雰囲気を感じ取れれば、それで充分だ、位に考えていた。

高見達の自分に対する配慮には感謝していたものの、二十年も現場から遠のいていた自分が、役に立てることなど無いものだと決めて掛かっていたからだ。

だが、まず最初に、想像を遥かに超えたスタッフ達の熱気に圧倒された。

一歩間違えば取っ組み合いにでもなりかねない程の激しい意見の討論、そこらかしこに溢れかえっているようなオーディションとは比べ物にならない程の厳しい審査内容への取り組み、最終的な到達目標の設定の高さ……どれ一つを取っても、生半可なものはなかった。

連日のように開かれる会議に顔を出すうちに、剣吾は震えるほどの興奮と、熱く煮えたぎるような何かに自分自身が呑み込まれていくような感覚に陥った。

それは、あの高校の文化祭での初めてのライブの時を彷彿させる感覚だった。


「剣吾、お疲れさん。どうだ、会議にも慣れたか?なかなかキツイだろう?」

高見が会議終わりにそう言って剣吾の肩をポンっと叩いた。

「そうやな……全員の目の色が違うってことは、ようわかったわ」

「そりゃぁ、全員使命感の強い奴ばかりだからな!士気の高さだけでなら、日本の音楽界を背負おうか!位、腹を括った連中だろうよ」

大袈裟な表現ではあったが、高見は誇らしげでもあった。それほどに、信頼を置いているということなのだろう。


「客観的に見て、おまえはどう思う?遠慮ない意見を聞かせてくれないか?」

喫煙スペースの設けられたビルのテラスに出ると、煙草をくわえながら高見が聞いた。

剣吾も煙草を指の間に挟むと、束の間思案した。

「……全体的にかなりハードルの高いオーデションだとは思うわ。このままならデモ選考の段階での振り分け方がわかり易いし、二次でかなり絞れるやろな」

「そうだな、それ目的のハードルだからな」

満足そうな高見に対して、剣吾は慎重に言葉を選んだ。

「ただ、ボーカルの基準が少し緩いというか、曖昧さを感じるんや。ギターやベース、もしくはドラムに対しては技量が測り易い分、難しいとは思うんやが……」

「尤もだな、そこが一番のネックかもしれん……おまえ、何か案あるか?」

「案と言えるような大層なもんはないけどなぁ……」

剣吾は苦笑いを浮かべたが、その実、ずっと気になっていたことを口にした。

「課題曲を与えるというよりも、課題フレーズの方が力を測り易いような気はするんや」

「課題フレーズ……?」

「課題曲の中からAメロワンフレーズ、Bメロワンフレーズ、サビワンフレーズを一つにして歌わすねん。1曲丸々だと少々のミスでも立て直しが利くが、故意に短くされたフレーズで勝負となれば、音程も、ピッチも、全てをどんぴしゃに合わせられる技術を持った人間に絞れるやろ?その短い中で何かを表現するとなると、それこそ至難の技やしな」

高見の表情が鋭いものに変わり、眉間に深いしわが刻まれた。

「故意に短く作られた課題フレーズか……」

高見は何かを確認するようにぶつぶつと繰り返し、煙草を揉み消すと大きく頷いた。

「剣吾、それでいこう!おまえはやっぱり鋭いセンスの持ち主だな!いや、ほんまに感心したわ!そういうことなら吉川の得意分野や!さっそく言うてくるわ!」

突然、関西弁に戻った高見は興奮気味に剣吾の肩をポンポンと叩くと、ビルの中へ飛び込んで行った。

独り残された剣吾は、自分の中で何かが弾け散るような音を聞いた。

この数日間の自分の心の興奮状態、拭いきれない熱い音楽への想い、……そう、やはり答えは自分の中で決まっていたのだ。ようやく、それを認められた気がする。

そして、はっきりと認めた以上、もう引き返すことは出来ない事を、剣吾は悟った。



ツアー企画は、薫子が考えた。

営業経験は皆無だったが、添乗経験ならば、朱音にも負けない程の数はこなしていた。

今までの経験の中で、顧客の要望に添えなかった部分や、自らが気付いたアイデアなどを思い付くままに書きだし、洗い直し、組み立てた。

そして薫子が打ち立てた企画は、熟年層の夫婦をターゲットにしたものだった。

その昔、“ハネムーン”に対抗して“フルムーン”という言葉が流行った時代があったが、団塊の世代が溢れる今、ターゲットをそこに絞った。


「う~ん、企画そのものはとっても良いものだと思うけど……今回のプレゼン対象としてはどうかしら……」

会社の小さな会議室で、二人は企画を詰める為に遅くまで残っていた。

朱音の気難しい表情に、薫子は眉を上げた。

「じゃぁ、この時期どこもかしこも目玉にしてる蟹の一匹付けでも盛り込む?そうすれば、他社の企画と何ら変わり映えしない普通のツアーに成り下がるけど」

薫子らしい言い方に、朱音は苦笑いした。

「まぁ、そうだわね。他社と同じことしても仕方ないわよね。でも、インパクトが無いと埋もれてしまう可能性があるわ。そこを会社側としては問題視するのよね」

薫子が企画したのは、銀婚式を迎えるような熟年夫婦向けの隠れ宿的なプライベート重視のツアーだった。宿は、離れ様式やコテージ様式、観光も団体ではなく二人用に個人タクシーとコースを組み合わせた。値段は、もちろん団体ツアーよりは割高になるが、面倒な手続きなしでプライベートを満喫したいという人には、もってこいの企画だという自信が薫子にはあった。

「大体、商品にインパクトを付けるのは、会社の宣伝の仕方でしょ?11月になれば蟹の解禁を目玉に北陸、山陰にツアーが集中するわけだから、全く違う企画の方が宣伝もしやすいと思うんだけど、違う?」

あれだけ企画を毛嫌いしていたにも拘らず、一旦やると決めたらきっちりとした意見を出してくる薫子の能力に、朱音は内心大きく頷いていた。

やはり彼女は、出来ないのではなく、やらなかっただけなのだ。


「わかったわ……今のあなたの意見で、この企画がしっかりとした土台の上に成り立っているものだと納得出来たから、これでいきましょう。ただし、まだまだ細かいところは詰めないとね!」

「了解、ありがとう」

二人は頷きながら、ニッコリと微笑みあった。


最後の残業組になってしまった二人は、警備員に挨拶をして社員カードを通した。

「やだ!もう九時過ぎてるわ!道理でお腹が鳴る筈だわね、ペコペコ!」

朱音がそう言いながら大袈裟にお腹を押さえた。

「遅くまで付き合わせちゃって悪かったわ、ご主人待ってるんじゃない?」

「大丈夫よ、遅くなるのはちゃんと言ってあるから。それに今日は優が食事当番だしね」

薫子は、首を振りながら感心した。

「あたしもそんな旦那が欲しい!帰ったら温かいご飯が待ってるなんて、実家を出て以来縁が無いわ」

「じゃぁ、料理上手な人見つけてトットと結婚しちゃいなさ………」

薫子の愚痴を背に、笑いながら先に通用口のドアを開けた朱音の動きが、ピタリと止まった。


「……マスター!!」

朱音の大きな声に、今度は薫子が固まった。…………剣吾!?

やはりいつかのように、舗道のガードレールに腰を掛けていたのは、紛れも無く剣吾だった。見慣れないスーツ姿の彼は、なんだか見知らぬ人のようで、薫子は目を細めながら確認するかのように彼を見つめた。


「マスター!どこ行ってたの!?どうしちゃったの!?」

慌てて走り寄った朱音に、剣吾は例の陽気な笑みで笑いかけた。

「……朱音ちゃん、ごめんな、長いこと留守にして心配掛けたな!」

「そうよ!心配したんだからね?突然お店休んで、どっか行っちゃうんだもの!携帯に掛けてもずっと留守電だったし」

薫子は、二人に近寄ることも出来ず、通用口のドアノブを後ろ手に握ったままその場に立ち尽くしていた。

「ほんまに申し訳ない、ちょっとゴタゴタしててな、帰ってくるのが今になってしもたんや」

「どこ……行ってたの?って聞いてもいい?」

遠慮がちな朱音に対して、剣吾はニッコリ頷く。

「ええよ、朱音ちゃんなら。……東京や」

“東京”と口にした瞬間に、剣吾の視線は少し離れた薫子を捕らえた。

二人の視線が絡み合った瞬間、時間が止まったような気がした。

薫子は、無意識の内に浅くなっていた呼吸を元に戻すように息を吸い込み、剣吾の姿に張り付いていた視線を無理矢理剥がした。

「……朱音、付き合ってくれてありがとう。お先に失礼するわ」

朱音の返事も待たずに、薫子は二人に背を向け舗道を歩きだした。

「え?薫子!?……ねぇ!薫子!」

足早に歩き去っていく薫子を呼びとめようと大きな声を出した朱音の肩に、剣吾が手を置いて止めた。

「朱音ちゃん、もうええよ。俺が追いかけるから、その為に来たんやから」

剣吾は腰を上げ、足元に置いていたボストンバックを持ち上げるとニッコリ微笑んだ。

「マスター……薫子を、お願いね?あの娘……マスターが居なくなってから……」

不安げに言葉を濁した朱音に、剣吾は再び頷く。

「わかってる。全部俺のせいや、俺でないとあいつを元には戻せんこともな。悪いけど、もう行くわ、またちゃんと連絡するから待っててや!」

剣吾は、そう言うと大股で薫子の後を追って行った。

薫子のことを“あいつ”と呼んだ彼にちょっと安心した朱音は、背の高い後姿を見送った。


薫子は歩き続けた。

駅でもなく、どこへ行くでも無く、ただただひたすらに足の向く方に歩いた。

剣吾が自分の後を十メートルほど開けて、大股にゆっくり付いて来ていることは、ついさっき気が付いたが、薫子は振り返ることも、足を止めることもしようとはしなかった。

薫子の勤めるK.Kトラベルは、市内の中心部よりも郊外寄りにあったため、オフィスの立ち並ぶビル街をちょっと外れれば、住宅街や公園や学校が姿を現す。

閑静な住宅街の中の小さな児童公園のような所へ入ると、薫子は丸太で組みたてられたベンチに足を投げ出すように座りこんだ。

つま先が痛くて限界だった。一時間近くも結構なハイヒールで歩き続けたせいだ。

思い切ってパンプスを脱ぎ捨てて裸足になると、土がひんやりと冷たく気持ちがいい。


少し遅れて公園に入ってきた剣吾が、静かに薫子の前に立った。

「……気が済んだか?そんな高いヒールで足痛めたらどないすんねん?」

薫子は無表情なまま、目の前で優しく微笑む剣吾を見上げた。

あんなにも逢いたかった人なのに、やはりスーツ姿の彼は、どこか見知らぬ人のように思える。

「隣、座ってもええか?」

そう聞いたものの、剣吾は薫子の返事も待たずに横に座り、脱いだジャケットの内ポケットから煙草を取り出すと口にくわえ、薫子にも黙って勧める。

薫子も無言で手を伸ばし指に挟んだが、剣吾の体温のようなものを右側に感じた途端、深い安堵感に包まれた。

暫し、二人は煙草をくゆらせながら、黙ったまま時間を共有した。


「……なんでなんやろなぁ?薫子と一緒におると、何も喋らんでも違和感ないねんなぁ。このなんとも言えん安心感、不思議や……」

煙草を揉み消すと、剣吾が口を開いた。薫子は同感だと思いながらも、適当な言葉を見つけられずに、素足のままの自分の足元を見つめていた。

「許しては……くれへんのか?」

チラッと薫子の様子を窺うように、剣吾が聞いた。

公園の中央にある高い時計に、寄り添うように建っている大きなガラス玉に包まれた電燈は結構な明るさで、驚いた表情の薫子の横顔を照らした。

「……誰が、誰を許すの?」

ようやく口を開いた薫子に、剣吾は身体ごと向きを変えた。

「もちろん薫子が、身勝手な俺を、や。勝手に黙ったまま東京へ行った俺を、おまえは当然、怒ってるやろ?」

薫子は、その本心とは裏腹に、鼻先で軽く笑った。

「やめてよ!なんであたしが怒るわけ?あなたが何をしようと、何処へ行こうと全然関知しないわよ!その必要も無いし」

「そうか……怒る価値も無いか。まぁ、当然やわな、こんな情けない男」

どこか淋しそうな、それでいてわざとらしく聞こえた剣吾の口調に、薫子はいきり立った。

「ちょっと!そういう遠回しな言い方やめてよね!言いたいことがあるんならはっきり言ったらどうなの?怒ってるとしたら、剣吾の方でしょ?そりゃぁ、そうよ!こんな小娘に情けないやら臆病だのと言われたんじゃね。でも申し訳ないけど、あたしはああいう言い方しか出来ない女なの!そういうことわかってあんな話をしたんじゃなかったの?」

突然、機関銃のように一気に捲し立てた薫子に、剣吾は満足そうにニッコリ笑った。


「何が可笑しいのよ!?」

「いや、やっぱりおまえは目茶苦茶可愛いなぁ!と思ってな」

その剣吾の予想外の一言に、薫子は真っ赤になって目を剥いた。

頭おかしいんじゃない!?……そう返そうと口を開きかけた矢先、突然剣吾に抱き寄せられ、強い力にすっぽりと包まれた。

茫然となった薫子の髪に、剣吾は顔を埋めくぐもった声で囁く。

「……ただいま。やっと、おまえのとこに帰ってこれたわ……ごめんな、淋しい思いさせて」

たかが、三週間会わなかっただけなのに、剣吾のシャツの匂いをとても懐かしいと思ってしまった途端……薫子の心の中の感情が弾けた。

淋しい、なんて次元のものではなかった。彼を……剣吾を、失ったのだと思った。

自分なりの方法で、彼の背中を押したつもりだったし、彼が彼の居るべき場所へ帰っていけるようにと、心底願っていた。

でも、その代わりに自分は彼を失うのだと、覚悟していた。

だから、剣吾は黙って居なくなったのだと……何度も言い聞かせていた。


薫子の瞳から、涙が溢れ……唯一自分が泣ける場所にすっぽり包まれて、泣いた。

薫子の細い肩の小さな震えを感じ取り、剣吾はその腕に一層力を込めて抱きしめる。

「白状するとな、あの時の薫子の言葉、かなりショックやったんや。まるで横面を引っ叩かれたみたいでな……」

薫子は頭上の剣吾の声に反応するように、彼の腰に廻した手に力を込めた。

「でも、それは怒ってるんとちゃうで?むしろおまえに言われるまで気付かんかった自分が情けなくて、会わせる顔が無かったんや。まぁ、言い訳やけどな……ちゃんとかたを付けてから、おまえには会いに行こうって思ってな、迷う前に行動に出たんや」

薫子は剣吾の胸に顔を寄せたまま、聞いた。

「……かたは、ついたの?」

剣吾は顔を上げ、薫子の顔を覗き込んでニッコリと微笑んだ。

「ばっちり、完璧にな!おまえのお陰やで?」

そのいつも通りの陽気な笑顔に、薫子の顔も自然と綻んだ。

涙で濡れた瞳で微笑む薫子の姿は、なんだかとても幼く……やはりいつかのように堪え切れなくなった剣吾は、黙ってその唇を塞いだ。

その口づけは、二人にとって初めて一人の男と一人の女としての心通わせる熱く激しいものだった。


言葉は要らなかった。

剣吾は薫子の肩を抱き、薫子は剣吾の肩に頭を預け、小さな公園を黙って眺めた。

今までだって、みんな本気だったとは……思う。亮介との事だって、一年以上も別れられなかったのは、やはり彼を好きだったからなのだと思う。

でも……薫子は口をすぼめる。

こんなにも、全身全霊で誰かを求めたことは無かった。

そして何よりも不思議なのは、こんなにも彼自身を求めているにも拘わらず、彼に対しては何かを求めずともいられることだった。こうしているだけで、いいのだ。

彼が大空をいく鳥ならば……黙ってその羽ばたきを眺めているだけで満足だった。

好きなだけ飛んで、好きな所へ行けばいい。

そしてまた帰って来てくれれば、それでいい。

そんな気持ちになれたのは、生まれて初めてかもしれない。


「東京……行くんでしょ?音楽に、戻るわよね?」

何の前触れも無く、薫子がそう尋ねた。

「ん、そうや、ようやく決心が付いた。高見達にもよろしく頼むと言うてきた」

「じゃぁ、お店、閉めるのね?」

「……そうなるな。その為に帰ってきた」

「そう……良かったわね、おめでとう」

その穏やかであっさりとした薫子の口調に、剣吾は首を傾けて彼女を見た。

「随分と素っ気ないけど……なんか人ごとやな?」

すると、薫子はクスクスと笑った。

「だって、人ごとでしょ?あたしのことじじゃないし!店を閉めて、東京へ移るのは剣吾じゃないの」

可笑しそうに笑う薫子を、剣吾は笑いの無い真剣な目差しでジッと見つめる。

「薫子……俺が東京へ行くという話は、俺だけのことじゃないんや。おまえにも大いに関係のある話でな、その為にも帰ってきたんや……」

何時にない、真剣な声色の剣吾に、薫子は固まった。

「あのな、薫子、俺はおまえを……」

「剣吾!あたしね!!」

薫子は、反射的に剣吾の言葉を途中で遮った。剣吾はちょっと驚いて口を噤む。

その隙に薫子は前を向いたまま一気に話し出した。

「あたし、今度朱音と組んでね、この秋に向けて初めての企画プレゼンに挑戦するの!添乗の数なら誰にも負けないくらい経験してきたけど、企画や営業には無縁だったから、ホントに初挑戦になるわ。今、それに掛かりっきりでね!今日も朱音に付き合って貰って二人で企画会議してたくらいよ。その上、通常の添乗業務もこなさないといけないから、毎日戦争みたいなの!」

若干の早口で、たたみ掛ける様に説明した薫子に、剣吾は眉をひそめた。

「…………だから、なんや?」

「だから………」

薫子は真剣な目差しで、剣吾を見た。

「剣吾は東京で完全復帰の為に頑張って、あたしは初プレゼンを成功させる為に頑張るわ!………ってこと」

長い沈黙が二人を支配した。お互いがお互いから目を逸らさずに、ただ見つめ合った。

先に沈黙を破ったのは、剣吾だった。

まるでずっと息を止めていたかのように深く長い溜息を一つ、ついた。

「お互いに……頑張ろう、か。予想外の、展開やな……」

もちろん、薫子には、剣吾が予想していた展開というのは、十分想像できた。

さっき自分が遮った彼の言葉の続きも、すぐにわかった。

“東京へ一緒に行こう”……きっと彼はそう言おうとしていたに違いなかった。

そして、薫子にとってそれはこの上なく嬉しいことではあったのだが、なぜか手放しで、というわけにはいかなかった。

今、一緒には行けない理由が、自分にはあるのだ。

だが、その理由を上手く伝えようと言葉を探しているうちに、なぜか突然笑いが込み上げて来て、薫子は吹き出した。


「やめやめやめ!あたしのガラじゃないわ!」

打って変わったような薫子の様子に、剣吾はギョッとした。

「今は……笑うとこやないやろ?何をやめるんや?」

薫子は剣吾の方を向くと、ニンマリ笑いかける。

「カッコつけるのも、優し振るのも、やめたわ!言葉選んで相手を思いやるなんて、あたしらしくないもの、そう思わない?」

「そう思わない?……って、すまん、話が見えてこんわ」

困惑気味の剣吾に、薫子はまた笑った。

「つまりね、東京には一緒に行かないってことよ!悪いけどね。さっきは突然話の腰を折っちゃったけど、剣吾はあたしに一緒に東京へ行こうって言ってくれるつもりだったんでしょう?違う?」

いつものような遠慮のない薫子の言い方に、剣吾は苦笑した。

「そうや、そう言おうとしたんやで。でも……その様子やと、来てはくれへんのやろ?」

薫子は再び前を向いた。

「あたしね、賭けをしたの。くだらない、小さな賭けをね。今だから白状するけど……剣吾が居なくなってから、なんかあたしは腑抜けのようになってたらしいの。朱音に言われたわ、ロボットみたいだって。たしかに、特に楽しいことも無い毎日ではあったけどね、でも至って普通のつもりだったわ、あたしは」

剣吾は何も言わずに、薫子のどこか哀しげな横顔を見つめていた。

「そんな時、朱音が今回の話を持ちかけてくれたの。もうそろそろ動き出しなさいって!、動き出せば何かが変わるかもしれない、とも言われて……で、それでも決心の着かなかったあたしは、賭けをしたわけ。朱音に返事をする期日までに剣吾が帰ってきたら、今回の話は断ろうって。もし、帰ってこなかったら、やってみようって」

「その賭けは……どんな理由の元、成り立ってるんや?」

薫子は前を向いたまま、苦笑いを浮かべた。

「理由なんてないって、今の今まで思ってたわ。実際その時は、自分で決められなかったからそんな賭けをしたってだけの話だし。でも……」

そこで薫子の表情はスッと変わった。

「でも……?」

「うん、上手く言えないけど、剣吾に会ってわかったわ。あたしはこのままでは駄目なの。朱音の言う通り、そろそろ変わらなくちゃ……って今思った。切っ掛けはいい加減だったけど、今回のプレゼン真剣にやってみようと思う。もちろん成功するかどうかの当ても無いし、営業なんて苦手だったから全く経験無しだし、見通しは暗いんだけどね。ただ、苦手だったことを一つクリア出来たら、何か変わるような気がしてるだけ」

剣吾は、黙ったまま腕組をして耳を傾けていた。

おそらくは、自分の胸の内を吐露することに不慣れな彼女にとって、それは精一杯な表現だったのだろうと、理解出来た。

「そうか、……薫子の気持ちはようわかった。おまえの何かを変えてみたいという想いは、ある意味俺も同じや。今まで背中向けてきたことにもう一度立ち向かうんやからな」

だからこそ、おまえに傍にいて欲しい……剣吾は敢えてその言葉は言わずに、腹の中に留め置いた。

「やめてよ、あたしのは剣吾みたいに大層なことじゃないわ。あなたがやろうとしている事とは比べ物にならないわよ!」

薫子は苦笑しながら首を振ったが、剣吾は大袈裟に否定する。

「自分が一大決心してやる事に、大層も大層でないもあるか!そんな風に比べるもんやない。己が己自身の何かを変えることが簡単でない事は、おまえが一番わかってるやろ?わかってておまえはそれをやろうとしてるんやろ?それだけで十分大仕事やないか!」

剣吾の声に、重さが加わった。

「ただ、一つだけ言わせてくれ。ええか?無理はあかん。俺は今のおまえが最高やと思ってるんやから。変わる必要も感じひんし、今のままでええ。ただ、おまえが新たな分野に挑戦することには、賛成や。苦手克服大いに結構、盛大頑張り!俺も負けへんから」

薫子は剣吾の力強い言葉の数々に、全身が、心が、沸き立った。

やっぱり彼は凄い。全てを語らずとも、こんなあたしのことを理解してくれている。

あたしが変わりたい最大の理由は、剣吾そのものだ。

彼を……愛している。彼の傍で、彼を支え、彼と共に生きていきたいと、心の底から思う。

でも、もう一人のあたしが、あたし自身に駄目出しをしている。

もっと、彼に相応しい人間になれと、叫んでいるのだ。

たかがプレゼン一つに挑んだところで、何が変わるわけでもないだろうことはわかっていても、それでも、彼の元へ踏み出す為の力のようなものが欲しかった。


「いつ……東京へ発つの?」

「出来るだけ早くや。出来れば、一週間から十日位で全ての片を付けたいと思てる。あまり向こうを待たせられへんからな、一応これでも新人やしな」

“新人”という不釣り合いな言葉に、薫子は小さく笑った。

「十日で全てだと、かなり忙しいわね?店の始末も引っ越しもでしょ?」

剣吾は二本目の煙草に火を付けると、大きく吐きだした。

「まぁ、やってやれんことは無いやろ、心配すんな」

手伝おうか?……そんな喉元まで出かかった言葉を、薫子は呑み込んだ。

剣吾が東京へ行く為のカウントダウン的なことは、とても出来そうにない。

「ほんまの常連客だけで、閉店パーティーみたいなもんしよかと思てるんやけど、薫子も来てくれるやろ?朱音ちゃん達と一緒にな」

「……気が向いたらね」

いつものように、小生意気に肩をすくめた薫子に、剣吾は吹き出した。

「まぁ、そこんところはおまえの意思に任せとくわ……俺は、来て欲しいけどな」



そして、丁度一週間後、薫子は朱音に引きずられるようにしてリュージュを訪れた。

日曜の昼間から始まった、さよならリュージュパーティーは、バーベキュー用に解放されたテラスや店内に30人余りの人で溢れごった返している。

ここへ自分の意思で通い出して三ヶ月程だが、殆どが見たことのある顔だ。

誰もがリュージュの閉店を惜しみ、誰もがマスターとの別れを惜しんでいた。

突然の閉店の理由を、剣吾は掻い摘みながらも正直に、皆の前に立って話した。


「何の予告もせんと、こんな風に突然店を閉めることになってしまいました。今年で十年、ホンマに皆さんには可愛がってもらい、感謝のしようもありません。本当に、ありがとうございました!」

そこで一度丁寧に深々と頭を下げると、剣吾は神妙な顔つきで話しを続けた。

「私はこの度、東京へ行くことになりました。今やからお話し出来るのですが……私はその昔、バンドをやっていまして、音楽業界に携わっていたことがありました。ただ、ああいう世界は水商売の世界よりも浮き沈みが激しい世界ですから、当時、志半ばで諦めざるを得ない状況になってしまい、こうして今に至ります。ただ、あれから二十年経ちまして……捨てる神あれば、拾う神ありで、今またチャンスに恵まれたというわけです」

「マスター、ひょっとして再デビューするの!?」

誰かがそう聞くと、剣吾は苦笑いと共に大袈裟に首を振った。

「いや~!さすがにそれは無いですわ。まぁ……あくまでも裏方ですが、それでも音楽に携わっていけることが昔からの夢やったんで、これが最後のチャンスかなと思てます。オッサンの儚い夢やと思って、応援してやって下さい」

テラス一面がヒューヒューと冷やかす声と、温かい応援の声とに包まれる中、薫子は一番後ろで手すりにもたれる様にして、その光景を見つめていた。

子供っぽいとは思いつつも、これで自分だけが知っていた彼の過去が自分だけの物では無くなった様な気がして、薫子は淋しさを隠せないでいた。


「薫子……マスターが昔バンドやってたのって聞いてたの?」

朱音がいつの間にか隣に来て、そう聞いた。

「そういえば、そんなこと言ってたかな。酔った勢いで聞いたような気がするから、はっきりとは覚えてないけど」

特に興味は無いといった表情で、薫子は肩をすくめた。

「なんか、まだピンとこなくって……リュージュが無くなっちゃうなんて……」

剣吾の挨拶を聞いても尚、煮え切らない複雑な表情の朱音を横目で見つめながら、朱音の心境としては尤もだろうなと、思った。

「そうよね、朱音とマスターの付き合いって結構長いもんね?三年……だっけ?」

「もう四年になるわ、新入社員の時からだから」

朱音はさんさんと降り注ぐ初夏の日差しを遮る様に手をかざし、淋しそうに笑った。

「ホントはわかってるのよ、マスターを応援するのが正解だって!……ただ、ここが無くなっちゃうと、困るなぁと思ってね。なんかいつの間にか家族みたいな感じになってたなぁって」

「朱音にとってここは、心の寄り所だったんでしょ?わかるわよ、それにそう思ってるのは朱音だけじゃないんじゃない?少なくとも今ここに来てる人達は、きっとね」

薫子は、少し離れたところで皆に囲まれて談笑している剣吾に視線を留めて、微笑んだ。

「……ねぇ、聞いてもいい?」

遠慮がちな朱音に、薫子は鼻で笑った。

「朱音なら遠慮なしになんでも聞いていいわよって、何回言ったらわかってくれるの?あたしは、答えたくない事にははっきりノーコメントって言うから!」

「ごめん、そうだったわよね」

朱音は決まり悪そうに笑って、手を合わせる真似をしたが、すぐさまスッと真面目な顔つきに戻った。

「……薫子は、どうするの?このまま離れ離れになっちゃっていいの?」

「さぁ……どうしようかな?まだ何も決めてないわ」

あっさりと躊躇なくそう言った薫子に、朱音は眉をひそめた。

「マスターとは話したの?あの日……マスター、あなたを追いかけていったのよ」

「あぁ、あの日ね。話したわよ、剣……マスターは、東京で完全復活目指して頑張って、あたしは新商品のプレゼン頑張るってね」

「それだけ?約束とかはしなかったの?」

薫子は苦笑いと共に、黙って首を振った。“約束”……何をどう約束するというのだろう?

あの日、あの後、二人は手を繋いで駅までの道のりを黙って歩いた。

どちらからとも口を開くこと無く、駅で笑って別れたのだ。

その彼の手の大きさとぬくもりだけを、今も覚えている。

「マスターに惚れてるんでしょ?彼を……愛しているのよね?」

その直球ど真ん中の問いかけに、薫子は言葉ではなく、ニッコリとした微笑みで答えた。

人前で言葉にして表わすなど、とても出来そうにはないが……自分は確かに剣吾を愛している。

「もし、プレゼンがネックになっているんなら……私が後を引き受けてもいいのよ?骨組みもコンセプトもちゃんと組んでくれたんだから、難しくはないし、私一人でもなんとかなるわ。もしマスターと一緒に東京に行きたいと思っているなら……」

「朱音!そこまでよ!」

心配そうに眉をひそめていた朱音の口元に、薫子は人差し指を立ててストップを掛けた。

びっくりしたように目を見開いて黙った朱音に、薫子は強い口調で言う。

「まず!あたしはプレゼンをやめる気は更々ないし、今は東京へ行く気もない。第一、動き出せと言ったのは朱音でしょ?動き出せば何かが変わるかもしれないって。あたしはそれに共感したから、決心したのよ、それを今になってあたしに投げ出せって言うの?あなたが?」

「そ、それは……あの時の薫子が、あまりに無表情で元気が無かったから……」

「そう!そうよ、その通り!」

薫子は自嘲めいた笑みと共に、大きく頷くと遠い景色に向かって告白を始めた。

「だから、決心したの。今まで、嫌な事はいつだって後回しにしてきた。その自分の情けなさが、弱さが、たまらなく嫌だったから朱音のアドバイスを受け入れたのよ。今それを投げ出せば、あたしは一生後悔する気がする。そんなあたしは……剣吾には相応しくない!」

手すりを掴んで、薫子は強くそう言い切った。


朱音が何かを言おうと口を開きかけた時……二人の後ろにグラスを手にした剣吾が立った。その剣吾が薫子の後ろで朱音に向かって意味ありげなウインクをすると、朱音はハッと息を呑んだが、すぐさまニッコリ笑ってその場をそっと離れた。


「ほい、水割り。ここは暑いやろ、日に焼けるで?」

遠くを見つめていた薫子は、突然飛び込んできた剣吾の声に、ギョッとした。

「ちょっ!?……あ、朱音は!?」

「朱音ちゃんなら、気を利かせてくれたみたいやで?」

おとぼけを決め込んだ剣吾の漂々とした顔に、薫子は訝しげに目を眇めた。

「……いつからそこに居たの?」

剣吾は無理矢理薫子にグラスを持たせると、自分も手すりにもたれて景色を眺めた。

「おまえが遠い景色に向かって、大告白してる時や」

“大告白”と言われて、薫子の顔は一気に火照った。

「ホントっ!立ち聞きなんて、相変わらず質が悪いわね!」

「質が悪いというより……俺の場合、間が悪いんやろな。計ったわけでもないんやけどなぁ!」

そう言って困ったような笑みを浮かべた剣吾は、その明らかに赤くなって目を逸らした薫子に、優しく顔を綻ばせた。

「ホンマ言うと、今の今まで、無理矢理にでも東京に連れて行こかと思ってたんやけどな……あんな決意表明聞いてしもたら、我儘言えんわ。今回は薫子に譲る、おまえの意思を尊重することにした!」

自分の意思を尊重すると言われて、ありがとうと答えるべきなのか、ごめんなさいとあやまるべきなのか……薫子は言葉に詰まって思わず俯いた。

剣吾はそんな戸惑う薫子の頭を、子供をあやす様にポンポンと叩くと身体の向きを変え手すりの上で腕を組んだ。

「今回は、譲る。だが、次は譲らんぞ?ええな?」

「………次って?」

一瞬、剣吾が小さく息を吸い込む音が聞こえた。

「俺は、このままおまえとのことを終わらせるつもりは更々ない。取りあえずはおまえをここに置いて行くが、俺がきちんと結果を出して、おまえもちゃんと納得出来る結果を出せたら、必ず迎えに来る、絶対にな。その時は譲らんということや。有無は言わさん、ええな?俺はおまえを最後の女と決めたんや、俺はおまえと死ぬまで一緒におると決めた!………これが俺の決意表明みたいなもんや」

前を向いたまま、一気に、だがとても力強く告げた剣吾の横顔を、薫子は呼吸することも忘れて見つめた。その瞳は大きく見開かれ、食い入るように剣吾から離れない。

最後の女……死ぬまで一緒……その二つの言葉が頭の中をぐるぐると響き渡っている。

こんな所で、こんな日に、こんなに沢山の人が居る中で、こんな告白を受けるとは想像もしていなかった。

「なんや、何も言わんのか?いつもの勢いはどうしたんや?“勝手に決めないでよ!”って言わんのか?」

そう言って振り向いた剣吾の目差しは、例えようのないくらい優しさに溢れていたが、おそらくは彼自身もかなり照れくさかったらしく、その顔は薄っすらと赤らんで見えた。

「……何、赤くなってんのよ……」

言うべきセリフは沢山浮かんだが、結局のところ、もごもごとそう言うのが精一杯の薫子だった。剣吾は小さく笑った。

「あのなぁ、この歳になってこういうことを言うってことは、裸になるより恥ずかしいんやで?」

「言われる方だって……相当恥ずかしいわよ……」

すねたような目つきでチラッと剣吾を睨んではみたが、後から後から湧きあがってくる喜びの渦に、薫子は全ての感情が呑み込まれてしまうような錯覚に捉われた。

泣き出したいのか、大声で笑い出したいのかもわからない。


「ホンマに一人で平気か?淋しくはないんか?」

「なっ!?……あ、当り前でしょう!?」

剣吾の問いかけに、薫子の顔は殊更赤くなった。恥ずかし過ぎてムキになる。

「それじゃぁまるで、あたしがあなた無しでは生きていけないみたいじゃない!」

「おまえは俺無しでも、平気なんか?……俺は、おまえ無しでは無理やな」

どうしてこの男は、こういうセリフを平気で言えるのだろう?

内心呆れかえりながらも、薫子は今にも自分が泣き出しそうなことに気付いた。

瞼の奥がジンジンと熱くなっていて、目には溢れそうに涙が溜まっている。

「わかったわ!もう、わかったから!」

薫子は強い口調でそう言うと、剣吾を睨むように見上げた。

「ちゃんと待ってるから!平気なんかじゃないけど、頑張ってやり遂げて、剣吾を待ってるから!だから……ちゃんと迎えに来なさいよね!」

そう言い切った薫子の瞳からは、涙がポロポロとこぼれた。

剣吾は親指で、優しく愛しげにその涙をそっと拭うと、微笑んだ。

「絶対やで、俺等は死ぬまで一緒に居るんやからな。忘れたらあかんで?」

「忘れるもんですか!そっちこそ、……ちゃんと責任とってよね!」

泣きながらも、どこまでも高飛車な言い方の薫子に、剣吾は大笑いした。



その三日後に、剣吾は名古屋駅の新幹線ホームに立った。

東京から舞い戻って、寝る間も惜しんで僅か十日で全てを片付けた。

剣吾を慕う人々がこぞって見送りを申し出てくれたが、派手な見送りは苦手だという理由で、丁重に断った。敢えて週のど真ん中の水曜日を出発日に選んだのも、そんな理由が大きかった。


そんな中、朱音だけは夫の優と共に駆けつけた。

「なんか悪かったな、来て貰って。田島君まで一緒に……仕事は大丈夫やったんか?」

当面の着替えと必要なものを詰めたキャリーバックと共に、剣吾は二人を振りかえった。

「そんな気遣いは、無用ですよ。そこんところは僕等上手くやってますから」

優がニンマリと笑って答えると、

「マスター、引越しの手伝いに行こうか?大変でしょ?」

朱音が心配そうに尋ねた。

「大丈夫やで!向こうで若いスタッフの連中が待ち構えてくれているからな!わざわざ朱音ちゃんの手を煩わすようなことにはならんよ」

「なんだ、残念!東京に行けるチャンスだと思ったのに」

「そういうことやったら大歓迎やで!落ち着いたらいつでも遊びに来てや」

「マスター、ごめんね……」

朱音が言いにくそうに語尾を濁した。

「ん?何がごめんなんや?なんで朱音ちゃんが謝るねん?」

「だって……薫子連れてこようと思ったのに、あの娘、頑として首を縦に振らなくって、あたしは行かない!の一点張りなの。暫く会えないっていうのに……」

剣吾は、薫子のその頑なな姿を思い浮かべながら、ハッハッと笑った。

「ええんや、あいつが絶対にこないだろうことは予想通りやからな。俺も、来て欲しくは無いしな。あいつはきっとこんな風な別れは、嫌いなんや」

「それにね!前に薫子がマスターの携帯もアドレスも知らないって言ってたから、余計な御世話だとは思ったんだけど……」

「ん?朱音ちゃんが教えてくれたんか?あいつ、どうした?素直に受け取ったか?」

朱音はゆっくり首を横に振った。

「あの娘……必要ないって言ってせっかく送信したデータ、目の前で消しちゃったの。薫子が、あんなに頑固だとは知らなかったわ」

呆れ顔の朱音に、剣吾は優しく微笑んだ。

「きっと、その意地であいつは立ってるようなもんなんや。朱音ちゃんだけはわかったって欲しい、頼むわ。俺が居ない分もな?」

「マスター………」

朱音は彼の薫子に対する想いの大きさに、胸が詰まった。

いつでも少し離れたところで温かく見守ってくれたこの人が、誰か一人を愛したら、その人はとても大きな愛情を得るんだろうなと、いつだったか思ったことがあった。

おそらくは、誰よりも薫子を理解し愛しているのだろう。

朱音は気を取り直し、ニッコリと笑いながら大きく頷いた。

「薫子のことは、任せて!大丈夫よ、私達が傍に居るから。ね?優!」

朱音の言葉を受けて、優もニッコリと笑った。

「彼女は、なかなかの美人だから、悪い虫が付かないようにちゃんと見張っておきますよ!ただし、あんまり長く放っておくと知りませんがね?」

「そんじょそこらの虫には毒が強過ぎて、喰われるような玉じゃないけどな!」

そう言って豪快に笑い飛ばしたマスターに、二人も釣られて吹き出した。


和やかな空気のまま、出発の時刻は訪れ……剣吾は特別名残惜しさも見せず、いつもの笑顔で二人にあっさりと手を振って、車内に消えていった。

あっという間にホームを滑り出していった流線型の車体を見送り、朱音は堪え切れずに涙ぐんだ。いつの時も、人と別れるのは淋しいと思う。

「よく頑張って笑顔で見送れたな、辛かっただろう?」

優が朱音の肩をそっと抱き寄せ、朱音はその肩に頭を預ける。

「マスターは、お兄ちゃんのようだった。あそこへ行けば、色んなもの吐き出せて、元気をもらえる場所だったの……」

「そうだね、僕もマスターは大好きだったよ。それに、今回の彼の決断は、男としては羨ましくもあるし、深く尊敬もしている。だからこのままさよならするつもりはないし、また二人で押し掛けような?東京は遠い街ではないよ」

朱音は優の言葉に何回も頷きながら、もうとっくに見えなくなった線路の先を名残惜しそうに見つめた。


その頃、薫子は北海道に居た。

『初夏in北海道弾丸ツアー』と称された人気の格安ツアーのサブ添乗で訪れていた。

本来は薫子の担当ではなかったのだが、担当者が体調不良だった為、急遽引き受けた。剣吾が東京に発つ日は知っていたし、このツアーを引き受ければ見送りに行けない事も十分承知していたが、そもそも見送るつもりは更々無かったから気にも留めずに快く受けたのだった。

もちろん、朱音は猛然と反対したし、そのピンチヒッターを自分が代わると言ってきかなかった。何が何でも剣吾を見送るべきだと、朱音にしては珍しくしつこかった様に思う。

だが、薫子は動じずにキッパリと断った。

「朱音、これで最後よ。あたしは行かないから!いい?行かないの!そんなに言うんだったら朱音があたしの代りに行って来てよ」

「どうして、そんなに意地を張るの!?暫く会えないのよ?マスターの再出発なのよ?あなたこそが見送ってあげなくちゃ!」

薫子は、その言葉よりも、自分と剣吾の為に必死になってくれている朱音の気持ちに対して、感謝を込めて微笑んだ。

「……ありがとう、朱音。でも、本当に大丈夫なの、剣吾はわかってるわ、あたしが行かない事を。あの人だって同じよ、きっと望んでないわ」


どこまでも抜けるような青が広がる空に、薫子は目を細めた。

本州とは明らかに違う空の色と、目に沁みる程の緑溢れる風景の中、薫子は剣吾を想った。淋しくない、と言えば嘘になる。これほどに愛しい人と離れ離れになって淋しくない人間など、いるわけがない。

朱音がせっかく送ってくれた剣吾の携帯番号もアドレスも、申し訳なかったがその場で消去した。薫子は、淋しさに負けたくなかったのだ。

もし、剣吾のアドレスを登録したら、きっと一日千秋の想いで彼からのメールや電話を待ち焦がれてしまうだろう。

待つことに支配される生活の淋しさや虚しさは、亮介の時で懲りていた。

そんなことをしても、剣吾だって喜びはしないだろうと思う。そんなことよりも、他の事を思い出す間も無い程に、目の前の成すべきことに没頭するべきだと薫子は強く思った。

あたしは、間違っていない!剣吾だってきっとそれが正解だと言ってくれる!

二人の間に距離はあっても、二人の心に距離は無い。

死ぬまで一緒に居ると決めたのだから、こんな僅かな時間は取るに足りないのだ。

薫子は、挑むような微笑みを浮かべ、空を見上げた。

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