第2話 薫子の恋
飲み会好きで、合コン好きの薫子は久しぶりに専門学校時代の飲み仲間に誘われて、市内の大手銀行員とのコンパに参加した。
仕事柄、話し上手でなかなかの美人タイプの薫子は、相手受けするという理由で合コンのピンチヒッターとして誘われることが多かった。
ただ、その激しい気性がゆえに引いてしまう男性が殆どで、女子側にとってはある意味便利、それでいて本名を持っていかれることのない、安全パイ的な存在でもあったのだ。
もちろん、薫子とてそこのところは十分承知していたし、合コンで本気で結婚相手を探しているわけでもなかった。
ただ、単純にワイワイ飲めるのなら何でもよかったのだ。
その日は、4対4の合コンで、市内のワインバーが集合場所だった。
いつものように適当な理由を作って、残業を後輩に押し付けると、会社を出た。
相手が銀行員と聞いていたから、少しおとなしめのワンピースとメイクも控えめできめる。
それでもスタイルの良さは隠しようがなかったし、華やかな顔立ちは十分人目を惹いた。
初めて目にした亮介の容姿に、薫子は目を見張った。
融資課の主任を務めている30歳だと自己紹介した亮介は、どこからどう見てもとても30歳には見えない童顔で、流行りのジャニーズ系の顔立ちだった。
実のところ歳がいも無く、密かにジャニーズのアイドルグループがお気に入りだった薫子は、未だかつて無いほどに、亮介に釘付けになった。
しかも、ここ最近のパターンとしては珍しく、亮介の方もまんざらではなかったようで、さばさばした薫子の気性に怯むことなく、二人は意気投合した。
その後、亮介の積極的な誘いもあって、二人だけで食事に行ったり飲みに行ったりを重ね……一か月後には、薫子は完全に亮介の虜になってしまっていた。
童顔なのは容姿だけでなく、彼自身が少年のように無邪気で純粋だった。
自分よりも六つも年上で、会社でも出世レースに勝ち残ったポジションに着きながら、プライベートでは夢を熱く語り、野球一筋だった青春時代を大切に思い、今も誇りにしている亮介は、まさに薫子の理想のような男性だった。
その昔、十代だった頃に、理想の男性像を聞かれた時、薫子は何の迷いも無く……
「仕事とプライベートにギャップのある男性、少年のような目をしている人」と答えて、周囲に大笑いされたことがあった。
薫子のイメージとあまりにかけ離れていると、皆に言われたのだ。
“お金持ちで何でも言うことを聞いてくれる男”というのが薫子のイメージらしかった。まぁ、皆がそう思うのもわかる気がして、それ以来その理想は胸にしまい込んだ。
そして、……ある日突然、亮介に出会った。口には出せなかったが、自分がずっと理想としてきた男に出会ったのだ。
そして亮介と付き合うようになって、今まで付き合ってきた男がどれ程つまらなかったかを、嫌という程思い知った。
あれ程好きだった合コンや飲み会からも、ピタッと足が遠のいた。
別に、彼の為に生活を改めたということでもなく、単純に亮介以外のことに興味が失せただけだった。昔から性格的に、興味のないことには見向きもしない。
そういう意味では、一途なのかもしれない。
だが……一途ならば、何をやっても許される筈はなかった。
お互いをお互いの恋人であると、はっきり自覚し始めた頃、薫子は亮介からとんでもない事実を突き付けられた。
「薫子……許して欲しいことが……あるんだ……」
亮介は言葉に詰まりながら、とても言いにくそうに、自分の右腕を枕にしてまどろみかけている薫子に、そう話しかけた。
今日で、亮介と付き合いだして丁度三ヶ月だった。つまりは男女の関係になって、という意味である。
彼は実家暮らしで、上木家の“どんなに遅くなっても家へ帰る”というルールに則って、泊ることはないが、週に一度はこうして薫子のマンションを訪れていた。
「ん……なぁに?……なんのこと?」
薫子は、うとうとしかけていた瞼を無理矢理こじ開けて、亮介の方に顔を向けた。
「ねぇ、薫子……君は僕を許してくれる?」
亮介は、天井を見つめたまま、そう聞いた。
「許すって……何かしたの?」
「お願いだから……約束して欲しいんだ。僕が何を言っても、僕を嫌わないって。今、薫子に嫌われたら……立ち直れる自身が無いよ……」
いつもと違う、その切羽詰まったような声音に、薫子は思わず頭を起こして亮介の顔を覗き込んだ。
「いったい、どうしちゃったの?何があったのよ?あたしが亮介を嫌うって……なんで?」
それでも尚、亮介はすぐに答えずに薫子の顔を繁々と見つめて、それから徐に彼女を抱きしめ、その髪に顔を埋めた。
「僕は……君に嘘をついたんだ。いや、最初からどうしても君に話せなくて、本当は、言うべきだったんだけど……君を好きになってしまったから、君を僕のものにしたくて……隠していたんだ」
やはり、言いにくそうにそこまで言われても、薫子にはイマイチぴんとこなかった。
嘘をついていた?隠していた?本当は言うべきだったって、何を?
薫子は自分を抱く亮介の腕を解いて、頬に手を当てながら、首を傾げた。
「……ごめん、今日のあたし冴えてないみたい。教えて?何を隠してたの?どうして、あたしが亮介を嫌いになるのよ?」
薫子を見つめる亮介の瞳に、一瞬にして色々なものが過ぎり、ゆっくりと口を開く。
「……僕、結婚しているんだ。」
その彼の一言で、時間が止まった。
少なくとも、薫子の中の時間は……、止まった。
人間は、全くの予想外の出来事が起きると、ショックや衝撃から心や精神を守ろうとする本能的な力が働くのかもしれないとは、どこかで聞いた気がする。
受け入れ態勢を整える為に、一瞬でも頭の中が真っ白になり、時間が止まったかのような錯覚を起こすのはそんな現象のひとつかもしれない……
そんな、普段は考えもしないような事を考えているうちに、薫子は徐々に正気に戻った。
スローモーションのようなゆっくりとした動作で、ベッドから全裸のまま降り立つと、無言でバスルームへ足を運んだ。
熱めのシャワーを頭から無造作に浴びると、今度は一気に感情が戻ってきた。
亮介が……結婚していた。
いつの間にか知らないうちに、自分は不倫をしていたのだ。
“不倫”ということに関しての自分の考え方は、少なくとも肯定派では、ない。
だからといって、不倫愛好家の人たちに意見するつもりもないし、否定も止めもしない。
ただ、自分は不倫はしない、と決めていただけだ。
理由は、簡単至極。あまりにも面倒なことが多く、色んな人を巻き込む可能性があるし、意図しなくとも、必ず傷を負う人を作ることになる。だから、しない。
だが、それもたった今、足元からひっくり返された。
突然、激しい怒りが込み上げてきた。
最初に何も言わずに自分を抱いた亮介に、そして、何一つ疑いもせずに舞い上がって彼に抱かれた自分に。
どうして、気が付かなかったのだろうと後悔したところで、今更後の祭りだ。
彼のワイシャツがいつもパリッとしていたのも、ハンカチにしわ一つ無かったのも、靴がピカピカだったのも、彼が、もしくは実家の母親が、綺麗好きだったのではなく、彼の妻が綺麗好きだったのだ。
彼がけっして泊らなかったのは、実家暮らしのルールだったわけではなく、彼を待つ人がいたからなのだ。
そこまで考えて、今度は吐き気がした。自分が安っぽい昼ドラの主人公になった気分だった。
薫子は、乱暴にシャワーを止めると大きなバスタオルを身体に巻きつけて、勢いよく部屋へ戻った。
この怒りが収まる前に、別れを切り出さないと、きっと言えなくなる。
だが、部屋に戻って亮介の姿を見たとたんに、燃えるような怒りが萎えていく。
彼はベッドでうなだれたまま、微動だにしていなかった。
肩を落とし、母親に叱られでもしたかのように俯き、じっとしていたが、薫子の気配を感じると、パッと顔を上げ、すがるような目でこちらを見た。
薫子は、うんざりと目を閉じた。
彼にではなく、自分にうんざりした。
どんなにプライドを引っ張り出しても、別れなんて言い出せない自分に、うんざりしたのだ。
こんなに彼が好きで、こんなに彼の虜になっていて、その彼にあんな目で見つめられたら、別れられっこない。
「……別れる、なんて言わないよな?……薫子?」
弱々しい亮介の言葉を合図のように、薫子は無言で亮介の腕の中に飛び込んだ。
あれから、もう一年が過ぎたのだと、薫子は自宅のベランダで缶ビール片手にぼんやり思った。
亮介とのこの一年の関係は、かなり骨が折れたものでもあった。
まず、亮介に約束して貰ったのは、彼の家庭の話、もしくは愚痴を絶対話題に出さないということだった。
例えば、よく有りがちな妻との不和であったり、家庭生活での不満、実は離婚を考えている、……この関係の理由をそういった家庭のせいにされることだけは、受け入れたくなかったのだ。
そして、もう一つ。将来の約束はしないということ。
離婚したら結婚しようとか、ちゃんとするまで待っていて欲しいとか、そういう約束は一切しないと決めた。
当てにならない約束はしたくなかったし、誰かの代りになることを心待ちにしてしまうような関係にだけは、なりたくなかった。
だから、薫子は亮介との先の見えない関係を続けながらも、元々の自分の生活ペースも保つことにした。
以前のように、機会があれば合コンにも積極的に参加し、会社での飲み会にも欠かさず顔を出した。
自分の毎日を、亮介を待ちわびるような毎日にしたくなかった。
それは、もちろん自分の為ではあったが、何よりも亮介の負担や重荷にならない為でもあった。
そして……いつでも解消できる付き合いをしたいと告げた。
薫子に他に好きな人が出来た時、また、突然見合い話が降って湧いて、運よくまとまったりした時(これは、まず有り得ないが)、どちらかの気持ちが冷めた時……要は、いついかなる理由でもすんなり別れられる関係であること。
亮介は、薫子が主張したこれらの条件に、色々意義を唱えてはいたが、最終的には渋々呑んでくれた。
だから、不倫なんて面倒臭いし嫌だったのだ。沢山の境界線を引かなくてはいけないし、呑み込まなければいけないことだらけだ。
そのくせ、なんのメリットもない。
それでも、離れられなかったりするのも、この恋なのだと……、苦々しく思う薫子だった。
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