夜の泣き声

ギア

夜に聞こえた泣き声をあるべき場所に帰した話

 これから話すことは本当にあった出来事だ。


 すでに10年近くの歳月が経とうとしている今になって、なぜあらためて書き残そうと思ったのか。それはこの出来事に関わった人物が3人とあまりに少なく、かつそのうちの2人はおそらくもうこの出来事自体を覚えていないだろうと思われるからだ。

 私が忘れてしまえばこの出来事はなかったことになる。それが耐えられなかった。まだ多少なりと記憶に残っているうちに、覚えていることを全て書き残しておこうと思う。

 誰のためでもない、私自身のために。


 夏の暑さがこれから厳しくなるであろう7月の初めだった。当時の私は多忙を極めていた。退勤時間は毎晩のように日付をまたぐ寸前だった。幸い(と言っていいのか分からないが)当時の住まいは会社の最寄り駅からバスで20分の距離にあるアパートで、例え深夜になろうと帰宅するだけならば徒歩で小一時間も歩けば可能だった。

 そのことに対する甘えもあったのだろう。同じ職場の先輩方のように終電の時間を区切りとすることもなく、毎日長く社内に残っていた。


 あの夜は、しかし珍しく早かった。理由は覚えていない。何かが限界を迎えていたのかもしれないし、作業を進めるのに必要な情報が仕事先からの提供待ちで帰らざるを得なかったのかもしれない。

 いずれにせよ、会社を出たのは午後9時頃だった。空調の効いた車内から外に出ると熱気が顔に吹き付けた。熱帯夜と呼ぶにはまだまだだが、それでも気温差もあり、早くも汗が流れ始めた。

 会社から駅前へ向かい、改札前を通り過ぎて駅の反対側へ抜けた。家まではそこから大通りと並行して伸びる住宅街を貫く通りを歩いて約30分。

 泣き声が聞こえたのは、同じような外見の建売住宅が並ぶ通りの途中だった。


 数年前まで大きな駐車場だったような気がする大きな敷地をどこかの大手ハウスメーカーが買い取ったらしく、短期間にクローンのような家々が立ち並び、あっという間に入居者が決まっていった。

 しかし費用を削減できる所をとことん削った結果なのか、通りの街灯は飛び飛びにしか設置されておらず、影の多い通りだった。それぞれの住宅の玄関先にはライトが灯っていたが、同じ形状をした建物の同じ位置にあるため、必然的に等間隔の暗がりを生み出していた。

 声はその暗がりの1つから聞こえて来た。真新しい一戸建ての玄関先から1つ曲がった壁沿いの茂みの中だ。幼い子供の泣き声のように聞こえた。

 どうするか、と迷った。次の日も仕事があった。今からまっすぐ帰ってもシャワーを浴びて食事をしたら大した自由時間はない。ただでさえ毎日、仕事で神経をすり減らしているのにプライベートでまで厄介ごとを背負い込む余裕などあるはずもない。

 それでも結局は茂みを覗き込みにいった。

 当時は分からなかったが、今なら分かる。仕事とプライベートの厄介ごとはそれぞれ逆の側のつらさを和らげる効果がある。いや、忘れさせると言ったほうが正しいかもしれない。仕事が忙しければプライベートの様々な悩み事はそのあいだだけでも忘れられるし、逆もまたしかりなのだ。

 無意識のうちに仕事のことを忘れるためにあえてプライベートで火中の栗を拾いに行った。そういうことだったのだろう。

 結果として良かったと思う。

 その茂みの中にいたのは就学前と思われる小さな男の子だった。目が合った彼は泣き止んだが、それは安心したとか気が緩んだというより単に驚いただけのようだった。

 そのことに気づいた私はとっさに距離をとった。ほとんど通りを挟んで向かい側まで後ずさった。夜中にいきなり見知らぬ大人に近寄られて怖くないわけがない。

 その子は、泣き止んだあと、暗くてよく見えないがどうやらこちらを凝視したままのようだった。

 私はまず腰をかがめて視線の高さを合わせた。

「大丈夫かい」

 私はあまり大きな声にならないようにその子に呼びかけた。幸い、夜も暮れて辺りは静まり返っていた。遠くの大通りから聞こえる車の音くらいしか夜の空気を満たすものはなかった。

 少年は無言で頷いたように見えた。

「外にいるのは危ないよ。家はどこだ。その家が君のおうちか」

 私は薄暗がりでよく見えないかもしれないと思い、大げさな身振りで、少年の背後にある家を指した。彼はまた頷いたように見えた。

「家の中に戻ったほうがいい。どうして家の外にいるんだ」

 私の問いかけに、相手が何か言葉を返してくれたが、小さすぎて聞こえなかった。

 私は少し迷ったあと、あらためて話しかけた。

「ごめん、声が聞こえない。少しだけ近寄る。怖かったら言ってくれ。そこで止まるから」

 相手が頷くのを確認してから少しだけ近寄った。ほとんど車の通らないこの路地裏の道路の真ん中あたりまで足を進める。少年から何か反応があったわけではないが、私はそこで一旦足を止めた。

「もう一度、どうして家に戻らないのか、教えてもらえるか」

「お兄ちゃんがいるから」

 小さい声だったがハッキリ聞こえた。

「そうか。お兄ちゃんと喧嘩したのか」

 相手が頷いた。

「お兄ちゃんと2人でお留守番をしていたのか。お母さんはいないのか」

「いない。お留守番」

 なるほど。

 しかし状況は分かったが、ここで私に何が出来るのだろうか。幸い、今の季節は夏だ。このまま親が帰って来るまで外にいても風邪をひくようなことはない。それに私のような地元民でもない限り、わざわざ歩こうと思わない路地裏だから、行きずりの他人がこの子をさらうようなこともないだろう。

 このまま帰ってもいい。それは分かっていた。

「中にいたほうがいい。お兄ちゃんには私から話す。一緒に玄関まで行かないか」

 これを断られたら、そこまでだ。

 家に帰って、布団に倒れ込んで、明日も仕事だ。朝は大通りを抜けるバスの中だからこの家の前を通ることもない。おそらくその後を知る機会もないだろう。

 その子は頷いた。そして私のほうへと近づいてきた。

 私は、仮に誰がか見ていたとしても人さらいと思われないよう、すぐ少年に近づくようなことはせず、玄関へと回り込むように近づいた。私を追って玄関先へと少年もやって来た。

 呼び鈴のボタンは子供の手の届かない位置にあったので、私が押した。

 玄関のドアが開いたとき、少年は私の後ろに隠れようなこともなくまっすぐ立っていた。段々と恐怖が麻痺していたのかもしれない。

 中の冷房が漏れ出て来た玄関の中には、小学校の中学年くらいに見える男の子が立っていた。まず弟を見て、次に私に気づき、少しひるんだ。当たり前だ。私だって何事かと思うし、正直なところとっさに警察を呼ばれても不思議ではない。

 内心は慌てていたが、表面上は平静を装いつつ、先ほどと同じく子供の目線に合わせて腰をかがめる。

「この子が君と喧嘩をしたから外にいたと言っている。だけどこの時間に子供が外にいるのは危ないと思った。だから中に入れてあげて欲しい」

 早口になり過ぎないように気を遣いつつも、相手に言葉を挟ませないよう一気に話しかけた。

 その勢いに呑まれたのか、単にもう喧嘩の熱も冷めたのか、彼は黙ったまま弟を中に迎え入れた。外にいた子はそれまでのおどおどした態度が嘘のように元気な様子で中に駆け込んだ。

 そのまま、つけっぱなしになっていたテレビの前に座る。テレビでは何か私の知らないアニメーションが流れていた。この時間に放映しているような番組には見えなかったから、おそらくはビデオだろう。

「じゃあね。ちゃんとカギをかけるんだよ」

「はい」

 初めて発したその言葉が、私とその「お兄ちゃん」が交わした最初で最後の言葉になった。閉まったドアの向こうでカギのかかる音がした。


 これでこの話は終わりだ。後日談もない。私はその後も何度か徒歩で帰ることがあったし、この家の前を通ることもあった。しかしこの家の住人に会う機会はついぞ訪れなかった。

 具体的な日時は覚えていないが、あの夜からもう10年以上が経ったはずだ。あの少年たちも中高生になった頃だろう。きっと両親の留守に兄弟喧嘩をしたことも、見知らぬ大人が仲裁に入ったことも覚えていないに違いない。

 親には話したかもしれない。しかし心配したかもしれない両親も、その後次々と訪れたであろうもっと差し迫った心配ごとを前に忘れてしまっただろう。


 だからこれは今では私だけの物語だ。私以外、誰も知らない、私が忘れてしまえば無かったことになってしまうであろう、私だけの物語だ。

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