第百夜 平野浩太朗は井戸へと向かう
平野浩太朗は、とある出版社でライターをしている男だった。
出版社といっても大手とは違う弱小会社だが、そこで一応は文章で食っている身である。
彼が世見町にやってきたのは、なにも歓楽街で酒を飲んだり女を求めたり、という本来の目的ではなかった。
今度の夏に怪談の本を出すというので、そのネタ探しに来たのである。
理由は、流行りだから――などという半年ばかり遅いように思う理由だったが、上がやれというのならやらなければいけないのがサラリーマンのつらいところだ。
それどこかただの怪談ではなく、せっかくだから少しひねって、世見町に関する怪談でいこうということになったのだ。
それというのも、世見町は東京屈指の歓楽街として有名であり、かつては性風俗街として有名だった。幽霊を探すより、ホストに入れあげたあげくに借金がかさんで風俗店に放り込まれた女を捜すほうがまだ簡単なところだろう。
平野浩太朗は、ユエという名の男とともに世見町の深部へ入り込んだ。
「凄いところですね」
平野は思わず声をあげた。
何しろそこは月の光さえ届かぬほどに入り組んでいて、代わりにじぃじぃと壊れかけた配線が音を立てていた。落ちているのは水なのか、ぽたぽたとどこかからしたたり落ちている。
「そうだろう? ここはまだ開発の手が及んでいない。昭和の中頃からずっとこんな風だ。……いや待て、違うな。昭和の中頃からずっと開発を続けてきて、こんな風になってしまったのさ」
ユエは不思議な男だった。
見目麗しく、顔が広く、何者なのかがまったくわからない。
巫山戯ていると思えば真面目で、怪談に精通している。
そして何を考えているのかわからないさまは、平野にとって敵か味方か最後までわからなかったことだろう。
やれるべきことがあるならしてくれればいいのに――というほんの少しの期待も裏切って、やることと言えば井戸のある場所につれてくるだけ。しかも怪談を話すことすらなく、じゃあこれで終わり、とまあこういうことでしかないかもしれない。
「平太郎君、あのお守りは?」
「あ、ありますけど」
「そう。ならいい。僕がいいと言うまで絶対に離すな。……そしてこれで、きみの面倒な役目は終わりにしよう」
何度、角を曲がり。
何度、いかがわしい視線をくぐり。
何度、人か獣かわからぬ目から遠ざかってきたのだろうか。
ユエが平野を連れてきたのは、小さな社だった。それはあまりに小さくて、月夜の威光からも隠れていた。
「こ……ここは?」
そう尋ねながらも、平野には覚えがあった。九十九話で詳細に語られた社――それが平野の脳裏に去来する。
ユエはすたすたと社に近づくと、平野を呼んだ。
「平太郎君、お守りを此処へ」
「えっ」
「いいから」
平野は言われた通りにお守りを社へと置いた。
こんなところに置いていいものか、何を命じられているのかわからず、戸惑いながらそこへ置く。あまりに不可解すぎた。
「あれはきみの身代わりだ。百物語の語り部にされ、腕を掴まれたきみの」
「ぼ、ぼくの……腕?」
「平太郎君。きみは本当に気付いてなかったのか? 彼女からの返答に」
「……」
「気付いてないはずはないんだ。なにしろ十話までのあの名前を使ったお遊びを仕込んだのはきみなんだからね。だったら、それ以降の『返答』にも気付いていなかったはずはないんだ」
ざわざわと奇妙に風の音がした。
ここは小さすぎて、果たして木々があるのかどうかもわからないのに――。
「……さあ、もういいだろう。帰ろう。けっして振り返らずにね」
ユエはそう言うと、歩き出した。
出口に向かって歩き出す彼に、平野は追随するしかなかった。あまりに無作法に蹂躙する足音を、平野は追った。もう終わりなのだろうかという気持ちが、もやもやと平野の中に渦巻いていく。
そんな時だった。
ひたり。
平野の後ろで、そんな音が聞こえた気がした。
足を止めると、ユエの背中が少しずつ遠のいていくのが見える。
ひたり。ひたり。
何かが上がってくる。
井戸を上がってくるのだ。
――見たい。
もし後ろからやってくるものが本物ならば――見てしまえばいい。
見たい、見たい、見たい――。
ここまで来たのだから、せめて何か収穫が欲しい。
ぴたりとユエの足が止まった。自分がついてきていないのに気が付いたのだ。置いてきたお守りが、自分の代わりに井戸に引きずり込まれるのを感じる。
そんなものは、幻覚かもしれない。
「やめろ!」
平野は声に反して振り向いた。
見たいという欲望を忠実に守ったのだ。
だが突然、ユエの声が遠くなった。
まるでどこか違う空間に一人取り残されたように、平野はぽつんとそこに突っ立っていた。目の前には井戸があり、平野は一人と一つの井戸で、向かい合った。
探し求めた井戸だった。
石造りで、ずいぶんと古い。
所々から緑色の藻だかなんだかよくわからないものが生えている。
ぽちゃん――と小さな音がした。
石造りの壁の欠片が、水面に落ちたのだ。
どうやってと考える間もなく、ずるり――と小さな音がした。それは次第に近づいてくるようだった。
ずるり、ずるり、ずるり――。
平野は井戸の底を見る。
やがて井戸の中から、汚れた指先が顔を覗かせた。その指先の主は、口付けるように平野の眼前へと姿を現わした。
腐りきった赤い女だった。
その手が腕を掴んだと思ったときには、赤き恨みの水底へ、平野を引きずり込んでいた。
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