第九十六夜 Kさん

 横見は昔、世見町にあった料理教室で講師として働いていた。


 怪しげな歓楽街とはいっても、表側はごく普通の繁華街めいたところもあるため、表通りに近い雑居ビルには割と普通のお店が並んでいたのだ。

 その中でも料理教室にはいろいろな人間がいた。


 ごく普通の主婦やOLから、区役所で働いているという人間。

 学校帰りの大学生もいたし、仕事を辞めて無職でいるうちに何か習っておこうという人もいた。

 中には世見町でホストをしているという青年が、「何かひとつ得意なことがあったほうがいい」という先輩からの指導に従って習いにきていることもあった。


 Kさんという女性もそんな雑多な生徒の一人だった。


 Kさんは大人しめの三十代くらいの女の人で、まあ普通の主婦か勤め人だろうという風体をしていた。派手すぎもせず、そこそこ小ぎれいにしている。

 ただ問題があるとすれば、男性に対して距離が近いことだった。

 というのも、横見のいた料理教室では基本的に一人一人がそれぞれのスペースで料理をするのだが、ときおり生徒同士でお互いに手伝ってもらうことがある。説明するときには集まってもらうこともあるし、作った料理を食べるときもたいてい一緒になって食べる。

 解散したあとに軽く話をしたり、仲良くなった生徒同士でお茶でも、ということにもよくなる。


 もちろん場所柄、そういう人はいることはいる。

 ただ、派手な女性が皆そうとは限らないし、水商売の人たちだって、お金も貰えないのに好みじゃない男にベタベタしたくないだろう。第一、料理を習いたくてきているのに、それを放り出してまで色恋にせいを出すとは思えない。


 だがKさんは違った。他に派手な女の人がいて中心になるときは端っこのほうでニコニコ聞いているのだが、そうでないときはススッと男性講師や大学生の若い男の子なんかに近づいて、隣を陣取る。

 男性陣のほうも最初のうちはにこやかに対応していたが、恋人かと思われるくらいべたべたとされてはたまらない。

 わからないことがあっても、横見のような女性講師より男性生徒を頼る。もちろん他の人たちは「同性のほうが話しやすい」とかでわざわざ隣にいる異性や講師より、同性の生徒のほうに行くこともあることはある。

 だがKさんの場合は露骨だった。誰が見てもそうなのだ。


 それが派手な女性でないということで、余計に意外なイメージがあったので印象に残った。


 するうちに、男性生徒のひとりが「あまりベタベタされるのは苦手なのでやめてくれ」とはっきり言った。

 なんでも、最初のうちはその男性もいい気になって番号を交換したりSNSを教えたりしたらしい。ところがだんだんと教室だけでなく、これから仕事があると言っても「待ってるから」と無理矢理ついてきたり、自宅のほうまでついて来られたりしたらしい。


 次第に怖くなってきて、とうとう宣告したのだ。


 だが、「苦手」などとやんわり言ってしまったのが悪かった。

 Kさんはその後も何が悪いのかを理解しないまま男性生徒につきまとい、ほとほと困って当時講師をしていた横見にまで話が来た。


「ここの料理教室は楽しいし、駅も近いし良かったんですけど……」

「あんまりに酷いようなら警察に行ったほうがいいかもしれないわね。上にも一応かけあってみるけど、やっぱり生徒同士の問題となると……。どちらかを辞めさせるっていうのは厳しいかもしれない」


 横見の答えに、男性生徒はため息をついた。


 Kさんの挙動はますますおかしくなっていった。

 普段は普通だったが、件の男性生徒を探しているのかぼんやりすることが多くなり、とうとう料理教室にも来なくなった。

 みんな心の中ではホッとしていたが、あるとき、こんな話が舞い込んできた。


 Kさんは男性を探して職場に乗り込み、包丁を振り回して警察に捕まったと聞いた。


 ところがそれからしばらくしてから、「料理教室の周りでKさんを見た」という話が広まった。


「捕まったって聞いたけど、すぐ釈放されたのかしらね」

「もしかしてあの生徒さんを探してるのかも」

「見つけたらどうすればいいの?」


 という話が出てきたが、どうも話がおかしい。

 声をかけようとしたが、すぐにいなくなってしまうというのだ。それが歩き去ったというより、不意にいなくなるように消えてしまうというのだ。


 そんな折り、横見が一人で片付けをしていた時のことだった。

 料理教室は基本的に硝子窓になっていて、外のフロアから見れるようになっている。不意に視線を感じた横見は、ふっと入り口を見つめた。


「ひっ!?」


 思わず声をあげた。

 教室の硝子窓に、Kさんがべったりと顔をくっつけていたのだ。青白い表情で、蛇のようにぎょろぎょろと瞬きしない目だけが動いていた。


 横見がたじろぐと、Kさんはずるずると消えるようにいなくなった。

 どこかへ歩き去るというより、やはり消え入るようだった。


 横見は慌てて外へ出てあたりを見回したが、どこにも人などいなかった。


 後から聞いたところによると、Kさんは最初の話のあと、何度か同じことをして実家に戻され、そこで自殺したという話だった。

 料理教室の周りに居るという話が広まった頃には、もう葬儀も四十九日もとっくに済んだあとだったらしい。


 だがKさんは今でも男性を探しているようだ。

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