第七十四夜 耳

 佐藤は元ヤクザで、世見町を根城にしていた。

 そういう人間というのは得てして小指が無かったりということが多いが、佐藤は片方の耳が無かった。

 たいていいつも帽子や髪で隠していたので、佐藤は常に長髪だった。

 失われた片耳にまつわる話はいつもバラバラで、抗争で耳を撃たれたと言うときもあれば、でかいヘマをして耳を落とされたとか、はたまた生まれつき無いと言うこともあった。そこまでバラバラだと、本当のことを言っていないというのはすぐに誰にでも理解できた。

 吹聴はするものの、真相は隠しておきたいのだろうというのがおおかたの理解するところだった。

 そんな佐藤だが、一度だけ酒の席で酔っ払ってこんなことを言い出した。


「女に食われたんだよ」


 また耳にまつわるホラ話だろうかと皆は思ったが、佐藤の目は思いの他真剣だった。


「耳無し芳一って知ってるか?」


 佐藤の話はそんな導入から始まった。


「あれはな、まだオレがこの町でそういう商売をしていた時のことだ。オレの女にミミコってやつがいてな。漢字はここの、ほれ、耳たぶの耳と一緒だっつってたな。本名かどうかは知らねえ。ただ本人はもうそう名乗ってたんだよ」


 ミミコがそう名乗ったのはおそらく、ベッドの中での癖が原因だろうと思われた。

 男と繋がる前に、ミミコは男の耳をべろりと舐めるのだ。

 佐藤自身はそんな性癖など持っていなかったが、その舌遣いが絶妙だったらしい。甘く優しく耳たぶをかみながら、最後には耳の中に舌を入れる。一種の疑似行為のようだった。最初は戸惑ったものの、ミミコはそれ以外も逸品で、ミミコを抱く時だけはその性癖も許した。

 きっと今までそんな男は五万といたのだろうというのが佐藤の推測だった。


 佐藤とミミコは愛し合っていて、ミミコのためなら足を洗ってもいいと思うぐらいだった。ところが、そんな日々はあっという間に終わりを告げたのだ。

 言ってしまえば佐藤の浮気だ。

 ミミコとは正反対のタイプの女に手を出し、遊びのつもりがあれよあれよという間に子供まで出来てしまった。堕ろさせるつもりだったが、あまりに幸せそうな女を見ていると「まあいいや」くらいの感覚でオーケーしてしまったのだ。


 そこで怒ったのがミミコである。

 佐藤を呼び出しどういうつもりなのか、自分と結婚する気はあるのか、はっきりしろと迫った。

 抗争の気配が高まっていた時期のことで、佐藤もぴりぴりとしていた頃だった。佐藤は自分のことを棚にあげてミミコに手をあげ、髪を掴んで振り回すと、そのまま罵倒した。なんと言ったのか佐藤は自分からは言わなかったが、表情は暗く、あえて感情を出さないようにしているようだった。


 はっと気が付いた時には、ミミコは目を見開いたまま床で佐藤のことを見上げていた。その瞳に一瞬ドキリとした。だがミミコは生きていた。ゆっくりと立ち上がると、どこかに出て行ってしまった。佐藤もそれで落ち着いた。

 すぐに戻ってくると思っていた。

 頭を冷やしたらすぐに帰ってくると。

 いつもそうだったし、帰ってきたときにはベッドに入るのがお約束だった。

 だがその日、ミミコは戻ってこなかった。


 もたらされたのは、世見町の暗渠でミミコが浮かんでいるということだった。

 どうも相手組織の人間に佐藤の恋人であると認識されたらしく、死体は衣服を剥かれ、無惨なものだったと伝えられた。

 佐藤が入れ込んでいた女も、実は子供ができたのは嘘だったことがわかったし、突如としていなくなった。つまりはそういうことだった。


「ミミコの死体はオレも確認したし、ミミコが死んだことは組にとっては小さなことだった。代わりの女を見つければいいとも言われたけど、オレはミミコを忘れられなかった。……それからすぐのことだったよ。ミミコが再び、オレの前に現れたのは」


 ミミコらしき影は、ふとした拍子に佐藤の視界に入り込んだ。

 ミミコはずぶ濡れで、青白い顔でいつも突っ立っていた。佐藤のことを睨み付けているように思えた。

 電柱の影から。

 建物の影から。

 部屋の隙間から。

 気が付けばミミコはそこにいて、佐藤を睨み付けてくる。


「オレの精神はぼろぼろになってたよ。きっとオレに怨み辛みがあるんだろう。何しろあんなことがあった直後の出来事だったしな。オレがミミコを守らないといけなかったのに。……そんなとき、あの男が現れたんだ」


 佐藤がミミコの影を求めてふらふらとした頃、佐藤の属する組に妙な男がやってきた。

 その人物はスーツ姿でぱりっと決めた若い男で、組長と世間話――例え話だとかそういうことではなく、本当に世間話だった――をしたあと、不意に組長がこんなことを言い出した。


「でな、おかしいのはこいつだよ。ちょいと様子を見てくれや」


 佐藤の前に現れたのは、ヤクザ者によくいるようなタイプではなく、むしろ軟弱に見えた。どちらかいうとテレビやなんかできゃあきゃあ言われるようなタイプに見えたし、何故急にこんな男に様子を見てくれと言われたのか理解できなかった。

 少なくともこんなところで仲良くしていていい人間ではない、というのが第一印象だった。

 男は佐藤のことを一瞥しただけで、こう尋ねた。


「きみの後ろにいるのは恋人かね」

「えっ」

「きみを睨み付けながら耳を噛み千切ろうとしてる」


 その瞬間、佐藤は膝から崩れ落ちた。


「『あんた、ミミコの事を知ってるのか。お前が殺したのか!』って食ってかかったよ。だけどすぐに止められた。まあそうだわな。それに何日も食ってなかったもんで、オレもぼろぼろだったんだよ。すぐに膝から崩れ落ちた。そしてその若造に言ったんだ。『ミミコに会えるのか』ってね」


 すると、男はこう言ったのだ。


「会えないこともないけど、やりきれない怒りのようなものが見えるねえ……これだから色恋沙汰なんてのは手に負えない! 直接会った瞬間にきみの耳を持って行くぞ」

「それでもいい、ミミコに会わせてくれ。頼む、お願いだ」

「……ふうん? どうする?」


 男が組長にそう言うと、組長は頷いた。


「このままじゃあこいつが哀れだ」


 おそらくその時の佐藤は気が付かないままにかなり酷い状態だったのだろう。久々に鏡を見て、まるでホームレスのような自分に驚いた。

 あれよあれよという間に真っ暗な部屋に祭壇が作られ、佐藤は禊ぎだかなんだかいって風呂に放り込まれたあと、神社でよく見るような結界だかなんだかいうところに放り込まれた。

 ロウソクの火だけがあたりを照らし、急に上の人々は神妙な顔になった。困惑した顔をしているのは下っ端だけだった。

 佐藤は放心したまま、これから何が起きるのかをぼんやりと考えていた。

 何とか言う儀式がはじまると、男は言った。


「これはきみの髪の毛を切らせてもらったものだ。これをミミコ君に見せて持って行かせる」

「ミミコに……?」

「そうだ。きみから引き離す。きみがどうしてもミミコ君とどうにかなりたいなら僕は別に構わないがね」


 まるで詐欺のようだが、佐藤にはそうは思えなかった。

 ミミコに一言謝れるならどうでもよかった。


 不意に冷たい風が吹いた。


「来たっ」


 男はいっそう愉しげにそう言うと、佐藤の心臓近くに札のようなものを貼り付けた。


「それを絶対に剥がすなよ」


 男はにやりと笑っていた。つまりそういうことなのだ。

 奇妙な祝詞と香が焚かれ、雰囲気だけは一気に高まっていった。どれほど時間が経ったのかわからない。そもそも部屋の電気は落とされていて、


 胡乱げな表情をしていた下っ端たちでさえごくりと唾を飲み、これから何が始まるのかを見守っていた。

 ロウソクの熱が妙に熱く、汗が噴き出た。

 それなのに不思議なことに、札だけはそこにぴったりと縫い付けられたように貼り付いていた。ひどい汗でくっついているんだと思ったが、今考えるとそうじゃなかった。何か不思議な力のようなもので貼り付いていたように思う。

 そのときだ。


「うわあああっ」


 下っ端の構成員のひとりが声をあげ、そして一人、また一人と波をひくように部屋の隅へ散っていった。

 組長ですら目を丸くして腰を引かした。まるで道を譲るようだった。


「ミミコか……!?」


 思わず言うと、風のようなものがふっと通り抜けた。それは佐藤の耳のすぐそばを通り抜けていった。覚えのある噛み筋、甘い吐息。全部覚えていた。風はまっすぐに、佐藤の髪の毛が備えられている小さな机へと向かっていった。

 だがミミコはいくら待っても見えない。

 おそらく他の奴らには見えているのだ。

 あの男ですら見えているようだった。一人だけ涼しげな顔で、風が髪の束へと吹き付けるのを眺めていた。

 見えていないのは佐藤ただひとり。


 その途端、佐藤の胸の中には妙な感情がぐっと沸き起こってきた。

 あれを掴ませてはダメだ。それはオレではない。


「す、すまねえ。すまなかった。オレが悪かった、ミミコ」

「おい、やめろっ!」


 誰になんと言われようが、佐藤はミミコに頭を下げなければならなかった。

 自分に貼られた札を震える手で取り払うと、髪の毛の束の前で突っ立っているミミコの姿が見えた。ミミコは青白い顔で、ずぶ濡れだった。前から見えていた姿そのままで、妙に暗い。今まで見たことのない表情だった。

 佐藤はふらふらとミミコの亡霊に近づくと、その場に膝をついて頭を下げた。


「持ってってくれ。持ってってくれや。それでお前の気が済むんなら」


 佐藤が床に頭をつけた途端――風がごうっと吹き抜けて、ぶぢりという音が響き渡った。


「あああああああ!」


 部屋の中に佐藤の絶叫がこだまし、佐藤は片耳をおさえてもんどりうった。暴風ともいうような強い風が部屋の中を一巡し、他の人間はそれに恐れおののいて震えていた。

 だが、風がおさまった時には慌てて佐藤にとびかかった。

 そして佐藤の耳から手を引き離すと、顔の半分が真っ赤に染まるほどの血が噴き出し、耳は消えてなくなっていた。それも今し方乱暴に引きちぎられたかのようで、その場にいた全員がぞっとした。


「おい、耳を探せっ!」


 組長の声に若い衆が総出で耳を探したが、どれだけ探しても佐藤の耳はそこには一片たりとも落ちていなかった。


「これだから色恋沙汰は嫌なんだ」


 男の呆れた声が聞こえた。

 それが男に会った最後で、熱を出して二、三日寝込んだあとは会うことはなかったのだという。


 そう説明した佐藤は妙に沈んだように見えて、今までに語ったどの話よりも神妙な顔をしていた。

 だからきっとそれが真実ではないかと――みなそう思っているということだ。

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