第七十一夜 おおいの爺さん
稲垣は一時期、世見町を根城にしていた。
彼が言うには、当時の彼はいわゆる不良や暴走族の末端にいて、自分を特別だと思っている数多くの人間の一人だった。
その頃彼はヤクザの末端にいるKという男に拾われ、色々と仕込まれていた。たとえばそれは流儀や考え方、礼儀作法というものだ。Kは稲垣のことを「子供」と「イナガキ」の両方からとって、「ガキ公」などとありがたくない名前で呼んでいたが、実際稲垣もKには感謝して、忠犬のようについてまわっていた。
Kが根城にしていたのは世見町の雑居ビルの一つで、その頃はまだ近隣も似たようなものだった。Kはそこを「事務所」と呼んでいたが、何の事務所だったのかは推して知るべきだ。はっきりと明言するものではない。
さてその事務所のあったビルだが、時折、夜になると隣のビルに爺さんが現れることがあった。
爺さんはビルのオーナーでもないようだったが、隣のビルの前をうろうろしているのが時折見受けられた。誰かに声をかけようとしているようでもあり、困ったようにうろついていた。
そうかと思えば、「おおい、おおい」と声をかけることもあった。
――あんなのがいたら迷惑だろうが。
さすがの稲垣もほんの少しだけそう思ったほどである。
だが、爺さんを相手にするものはいなかったと見えて、いつのまにか去っていってしまっていた。
そんなある日のことである。
稲垣はKについて事務所に帰ろうとしていた。Kとバカ話をしながらビルの前にやってくると、ふとビルの前に老人ではなく青年が突っ立っているのが見えた。
しかも爺さんがいるのは隣のビルだが、青年がいるのは事務所のあるビルの前である。稲垣はKの前に出ると、青年を軽く睨み付けながら言った。
「なんだ、てめぇ。邪魔だ」
たいていの一般人はそうしてやればすぐに慌ててどこかへ行く。
だが青年は「今、気が付いた」と言わんばかりに稲垣を見ると、にこやかに笑った。
稲垣によるとあまり顔は覚えていないらしいが、背筋のシュッとした優男で、そこらのホストよりもだいぶ整った顔立ちをしていたので、世見町に似合わない奴だと思ったらしい。世間知らずか、金持ちのボンボンかと思ったくらいだった。
「ああ、良かった。ここの人?」
「はあ? だったらなんだってんだ」
「まあまあ、そう邪険にする事もねえだろう、どうしたんだ、兄ちゃん」
Kが何かを嗅ぎ取ったのか、前に出た。こうした飴と鞭の使い分けはKのやり方でもあるが、そう言われては稲垣も引き下がるしかない。
稲垣は下がったものの、変わらず青年を睨み付ける。
「いや、この隣のビルに、たまにおじいさんが来るでしょう?」
「……それがどうしたよ」
自分のすごみにもかかわらず、相手はしれりと話を進めた。
「いえ、あの人、此処がボケちゃってるみたいでね」と、青年は自分のこめかみをとんとんと叩いた。「すぐにおおい、おおい、って声をかけるんで、近隣の皆さん困ってるんですよ。お隣のビルの方が一番困ってると思うんですがね。こちらも捕まえようとしてるんですが、なかなか捕まらなくて。もし声をかけられても無視してくださいと」
稲垣は向こうに聞こえるように、チッと舌打ちをしてやった。
「あんたのところの爺さんかあ!? それを無視しろって、こっちは迷惑してんだよ、いい加減にしろや、オラァッ!」
稲垣はわざと凄んでやったにも関わらず、青年はにこやかだった。
「まあまあまあまあ」
Kさんはにやにやと笑いながら稲垣を下がらせる。
「無視しろって言ったってねえ。ほら、やっぱり夜中に声を出されるとうるさいからね。やっぱりこっちも迷惑被ってるわけだろう」
「そうですねえ、できるだけ早く捕まえますよ。お詫びに考えておきますので」
青年はそう言うと、親指と人差し指で、何か薄いものをつまむような仕草を見せた。
最初は何かと思ったが、それが札束の量のことだと理解すると、稲垣は驚いた。これにはKさんも驚いたようで、多少たじろいだ。
「わ、わかってるならいいんだよ。よろしく頼むよ」
「ええ。それじゃあお願いします。無視してくださいよ」
青年はにこやかに笑うと、そのまま背を向けて歩き出した。
「Kさん、いいんですか?」
「いいんだよ、それより爺さんとっ捕まえて、あいつにもっとせびるんだよ」
少なくとも金が出せるとわかった以上、Kは好機を逃すはずがなかった。
しかし、あの青年の肝の据わり具合からして、同じヤクザ者かもしれないという考えは吹っ飛んでいた。それ以降、夜になるとそれとなく外に出たりして、爺さんが出現するのを待った。
数日もすると、爺さんがうろうろしているのを発見して、稲垣はすぐにKに伝えた。
「おおい、おおい」
爺さんは相変わらず近くの人間を呼んでいた。稲垣はそろそろと近寄ると、にったりと笑った。
「よおう爺さん、へへへ、何をしてんだい」
稲垣はできるだけ柔らかい口調で言った。
「あー? なあんじゃ、あんたら」
「なあんじゃも無いだろう、爺さん。あんたの声が隣のビルにまで響いてんだよ。で、どうしたんだ?」
「おうおう、そうだったんか。実はなあ、ここの裏に大事な手紙を落としてしまってなあ。誰かに取ってもらえないかと思っとるんよ」
「へえ? 封筒をねえ」
「もし取ってくれたらお礼も考えておるんだがなあ。だーれも本気にしてくれん」
「へえ? お礼だってよ。おい爺さん、もし良かったらそいつはオレたちが取ってやるよ。おい、ガキ公」
「はいよ」
稲垣は探すふりをしてやったが、手を伸ばすと確かに封筒らしき古いものがある。建物にぴったりとくっつくようになっている。Kに目配せをすると、にやりと笑ったのが見えた。Kもやってきて稲垣と交代すると、探すふりをしながら、封筒に手をやった。そして稲垣が爺さんの相手をしている間に、するりと懐にしまい込んでしまった。
それからしばらく何もないところに手をやってから、Kは振り返った。稲垣もそれに続く。
「無かったぜ。爺さん」
「んー? そうかそうか」
爺さんは気付いているのかいないのか、それでもにこにこと笑っていた。
「それでな――」
「おうおう、それでも探してくれたなら礼をしないとな」
Kが続きを言う前に、ごくり、とその喉が鳴った。
何しろ懐から取り出された爺さんの手には、ぱんぱんに膨らんだ財布が握られていたからだ。しかもそれを開くことなく、財布ごと渡してきたのだ。
Kも稲垣も驚きのあまり、少しだけ顔が引きつった。
爺さんはひょいひょいとビルの中に入っていった。
あの爺さんはこのビルの人間だったのかと思う以上に、興奮をおさえきれなかった。
「もしかするとあの男と爺さん、とんでもない金持ちの輩かもしれねえぞ」
Kが震えながら中の紙を数えた。
諭吉が一枚二枚という話ではない。少し古いが、諭吉が十枚二十枚と重なっている。最終的に数えてみると、五十枚近い札束が入っていた。それも本物の諭吉だ。
「なるほどなあ。ボケてこういうことをやっちまうから、あの男は止めようとしたんだな」
Kは感心して言った。
「すげえ、こんな札束見たの、初めてっすよ」
「よしよし、おい、ガキ公。今日は俺の奢りだ。いい肉でも食いに行こうや」
「ほんとですか! ありがとうございます!」
Kも稲垣もほくほくとしていた。もちろん金はKが持っていったが、実にいいカモを見つけたと思っていた。それにカモだとしてもいい事をしてやったのだ。とやかく言われる筋合いはない。
その金がどこから出ているか考えることもなく、Kと稲垣は豪遊した。
その帰りに、件の封筒をKが小汚いという理由でその辺に捨ててしまった。人に踏まれくしゃくしゃになっていく封筒を見ることもなく、二人は上機嫌で帰ったのだった。
ところが、様子がおかしくなっていったのはそれからだった。
まずしばらくしてから、隣が妙に騒がしくなった。引っ越しが相次いだかと思えば、夜中に騒ぎが起きたりする。それはまあ、あの爺さんが騒ぎを起こしていると思えば納得できるが、それ以上におかしかったのはKの様子だ。
なんだか妙に怯えたようになって、事務所に籠もりきりになった。
昼間でもブラインドを閉めるようになったかと思えば、昔は「電気代がかさむ」という理由で殴ってでも電気を消させていたのが、今度は電気を付けっぱなしにするようになった。
それならまだいいほうで、次はドアというドアを開けっぱなしにした。
そうかと思えば、稲垣が数日ぶりに事務所に戻った時なんて、部屋の隙間という隙間がガムテープで目張りされていたりした。
稲垣が呆気にとられていると、Kはそんな彼を怒鳴りつけた。
「早く閉めろ、この野郎ッ!」
「え!?」
「閉めろって言ってんだよっ!」
稲垣はKに殴り倒され、視界がぐるりと回った。近くにあったソファにぶつかって呆然としている間に、Kは開いてしまったガムテープを一生懸命に貼り直していた。
「どこで奴が見てるかわからねえんだ、オレは負けねえぞ、負けねえ、負けねえ……」
ぶつぶつとそんなことを言うKを、稲垣は恐れ、案じた。
Kは次第に眠れなくなっていったようで、目の下には隈が刻み込まれ、猫背がちになり、ぎょろぎょろとあたりを見回すようになった。でっぷりと膨らんだ腹は萎み、誰が見ても痩せていっていることは明白だった。
衣服も派手さが抜けていき、風呂に入っていないのか異臭がしはじめた。
――もしかしてあの爺さん、とんでもない奴だったんじゃ……?
たとえば、敵対している組の人間だったとか、それでなくとも自分のところの組の人間で、あの妙な男に脅されているということもありえる。
何しろ、Kの独り言にはこんな言葉が含まれていたからだ。
「あの爺が見てるんだ。隙間から。どこからでも入ってきやがる……」
そう言っては引き出しやタンスの中をひっくり返し、そして発作がおさまったころにはぶつぶつと一人で引きこもってしまう。
しまいには誰も居ない空間を指して叫んだり、夜中に急に出て行ったかと思えば、必死になって何かを探していることもあった。
「Kさん、もしかしてと思うけど、ひょっとしてヤク――」
「うるせええっ!」
その叫びは大きな声ではあったが、力はこもっていなかった。「うるしぇえ」みたいな、声が出ないのに無理矢理怒鳴るような言い方である。でも稲垣は笑えなかった。Kの目は相変わらずぎょろぎょろと血走っていたし、事務所で静かに膝を抱えていたと思ったら失禁していた事態に遭遇しても笑えなかった。
今までそんな奴がいれば笑い飛ばしていただろう。小突いて殴りつけて笑いものにしていただろう。しかし稲垣はいまや狼狽するばかりだった。Kはいよいよ手に負えなくなってしまっていた。
どうにかしようと思っているうちに事件は起きた。
稲垣がいつものように事務所に帰ったときのこと。
「Kさん、今帰り――」
そこで言葉を飲んだ。
部屋はありとあらゆるところが刃物で切りつけられていて、ソファや布団といった柔らかなものだけでなく、本棚は押し倒され、机はゆがみ、たった一本入り口の近くに立っていた枯れかけの観葉植物は台座が割れて土がこぼれていた。
そんな部屋の真ん中に、Kが日本刀を片手に突っ立っていたのだ。
「フー……フー……」
肩で息をし、ぎろりと稲垣を睨む。
「……き、き、来やがったな……てて、てめえも……あの爺か。あの辞意の仲間か。てめえもかあああっ」
Kは涎を垂らしながら、日本刀片手に襲いかかってきたのだ。
「う、うわああっ」
稲垣は悲鳴をあげ、慌てて外へと逃げ出した。Kは稲垣を負って外へと飛び出してきて、比較的静かなビル街が喧噪に包まれた。
「ぎゃああああー!」
響き渡ったのはKの声だった。
「出たな、このくそ爺がああっ、殺してやる、殺してやる、殺してやるうううー」
血走った目で日本刀を振り回すさまは、醜かった。悪鬼のように巨大でもなく、羅刹のごとき威厳も無い。ただの醜い人間がそこにいた。
稲垣の背中に痛みと熱が走り、無様に転がった。これ以上ないくらいだった。Kからなんとか逃れようともがくうちに、全身に痛みが走った。傷は背中のものだけではなく、細かなものをあわせれば死んでいてもおかしくなかったと後で言われた。
やがて騒ぎと通報を受けてやってきた警官がKのまわりを取り囲み、稲垣は「きみ、大丈夫か!」というような声を聞きながら、意識を手放してしまった。
この事件は一時期、テレビで中継された。
稲垣も搬送先の病院でそれを見ていて、ぼんやりとKがどうなったのかを理解した。警察は何度もやってきたが、重要なことは何一つ教えてはくれなかった。
そんなときだ。
病室に見覚えのある青年がやってきたのは。
「……無視できなかったんだねえ」
その第一声に、稲垣は飛び起きた。
痛みが全身に走る。
「無視してくださいって言ったのに」
青年は首を振った。
叫ぶとまだ痛みが走ったので、それ以上叫ぶこともできなかった。だが、どうもその言い方が引っかかる。
「……お、おい……てめぇ、何か知ってるのか? おい! あの爺はなんなんだ!?」
「自分で見たほうが早い。これがきみの捨てたものだよ」
青年はそう言うと、くしゃくしゃになった古びた紙を差し出した。
それはただの白い封筒――もちろん古びているので元々は、だが――だと思っていたのだが、どうも大きな紙に、なにがしかを畳んでしまいこんであるようだった。開いていくと、中にあるのは同じく長方形に切られた紙だった。
ひっくり返すと、中央に仏様のような絵と、わけのわからない文様のような文字が描かれていた。
その途端、稲垣の体に電流が走ったように引きつった。
神社や寺でよく見るような文字で、つまるところそれはお札だった。見た瞬間に何かやばいものだというのを直感した。これは剥がしてはいけないものだったと。
「札返しだよ。わからないなら検索してみるといい。あの爺さんな、自分で剥がせないから誰かに頼んでいたのさ。だけど、ああいうものに手を貸してしまったが最後、きみたちも報いを受けた、というわけだ」
「な、な……、なんだって? いったいどういう……」
「話はこれでおしまいだ。もうあんなものに関わるのはやめたまえ。……もっとも……」
青年は顔を近づけて、気の毒そうな顔をした。
「そんなつもりはもう無いかもしれないけどね」
稲垣は言い返せなかった。
Kが警察によって射殺された事を恨むこともできなかった。半分くらいは、治療すればという希望を持っていたものの、いっそ安心してすらいた。あんなKを見るのはもう耐えられなかったからだ。
青年は名乗ることもせず病室を後にしたが、稲垣のような男から見ても比較的美しいと形容できるような容貌だったことだけは覚えている。
あとから調べたところによると、札返しとは怪異のひとつだった。お札に触れない妖怪や幽霊が、なんとかして知らない人間にそれを剥がさせようと、あれこれ手をつくすのが札返しというものだった。だがお札を剥がした人間にも、報いは起きる。
馬鹿馬鹿しいと思ったが、真相を追う気にもなれず、稲垣は退院してからアルバイトを点々とした。例の事務所は取り上げられてしまったし、もう帰るところもなかったからだ。
今でも世見町の思い出としてあるのは、あのときの恐ろしい経験ばかりだ。
だからつとめて、普段は忘れるように勤めている。
でも、話さなければ乗り越えられないこともあるのだと――そう語った。
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