第七十夜 会館のエレベーター

 尾木が世見町のとある会館に来たのは偶然からだ。

 ここはいわゆる貸し部屋のようなもので、パーティや会議なんかで使われる。

 ……のは表向きで、かつての世見町を知る人々には、中国のマフィアが建てたとか、建築に関わってたとか、元々は反社会的勢力の事務所だったとか、まあ色々噂がある。真実はどうかわからないが、反社会的勢力の息がかかっていた――あるいはかかっていたことがある――のは間違いないだろう、という常識がある。

 何しろこの会館の中で銃撃戦の殺し合いが行われたほどである。とはいえそれも二、三十年ほど前のことらしいので、今は静かなものだった。


 それよりもむしろ、この会館にまつわる噂というのはそれだけではない。

 殺し合いが行われた会館――ということで、今ではもっぱら幽霊話のほうが有名だ。


 尾木が会議の下見のために訪れたときも誰もおらず、確かに幽霊話には事欠かないように思えた。

 エレベーターが来るのを待って、乗り込もうとしたときだった。


「うわっ」


 尾木は思わず声をあげてしまった。


 エレベーターの片隅に、男が一人がたがたと震えていたからだ。

 男はまだ若い男で、髪を茶髪に染めていた。上半身は裸で、近くには派手な色のシャツがくしゃくしゃになって落ちていた。男はゆっくりと振り向いて尾木を見ると、今にもぐりんとひっくり返りそうなほど眼球を丸くし、口を開いた。


「あ……あ……、ああああ~!」

「うえっ」


 慌てて横に退くと、男はばたばたと泣きながら外へと走り出ていった。


 ――なんだありゃ。何か相当こっぴどくやられたんだな……。


 正直、今あんなのが出てきたエレベーターに入るのは気が引けたが、そのまま流れで乗り込んでしまった。

 扉が閉まってから気が付いたが、なんだか変な臭いがする。


 ――くせぇ。いい年こいて漏らしたのかよ。どんなヤクザだ。


 だが乗っているのはほんの少しの時間だからと、スーツに臭いがつかないことだけを祈ってボタンを押した。

 ため息をついたあとは、息をとめる。できるだけエレベーターの臭いを嗅いでいたくはなかった。上に表示された数字が、二、三、と点灯していく。目的の階は五階だからもうすぐつくだろう。帰りは階段にしようかと思った。


「……んっ?」


 違和感に、尾木はあたりを見回した。

 急にがたんとエレベーターから大きな音がしたかと思うと、大きく揺れた。少しバランスを崩しそうになって、尾木は思わず壁に手をついた。もう一度がたんと大きな音がして、エレベーターが止まった。

 もしかして故障か――と嫌な予感がこみあげてくる。


 ――ヤクザの次は故障とか!


 バチバチと電気系統がイカレた音がして、灯りがぷつんと消えた。ただ、すぐに非常灯がついたようで、緑色の光がつく。


 ――おいおい、勘弁してくれよ。しかもまだ臭ぇし。俺がやったと思われるじゃん。


 だが、ここで待っていても始まらない。冷静になって目をこらすと、エレベーターのボタンの近くを眺めた。非常時の際にはこういう所に連絡用のなにがしかがあったはずだと思いながら、非常時の手段に従ってボタンを押した。やがてノイズのような音が聞こえだし、ザァザァ言う音の中に声が混じった。


「はい……こちら……、……、です」


 電気が危ういのか、妙にノイズが走っている。

 だが声は通じた。

 これでいいはずだ。


「すいません。エレベーター止まっちゃったみたいで」

「……はい。すぐ行きます……」


 ――すぐ行きます?


 尾木は疑問に思ったが、まあいいかと流した。

 とりあえずエレベーターが動けばいい。まさか地震ではないだろうし――と、お願いしますとだけ言ってボタンを離した。

 時間に間に合うかどうか、スマホを取り出して確認する。

 エレベーターが止まっちゃったみたいだと連絡だけでもしたほうがいいだろうかと思い立つ。同じ会館のエレベーターだし、おそらく先方もわかるはずだ。

 

 ところがそれから十分経っても二十分経ってもエレベーターは動き出さなかった。

 さすがにそろそろまずい。


 その前に尾木はもう一度エレベーターの非常用ボタンを押した。またあのノイズのような音がした。


「あのー、すいませーん。まだでしょうか?」


 少し反応を待つ。


「……すいませーん。あの、管理の人……」


 すると、ノイズに混じって声が聞こえだした。


「す……ぐ、ずぐ……行きまず、ので」


 ぞっとするような声だった。

 いくら電気だか電波が悪くてもこれはないだろう、というような声だった。尾木が首をかしげたとき、急にがたんと音がして、エレベーターが揺れた。


「うわっ!」


 慌ててバランスを取る。荷物だけを守るように両手で抱えた。


「くそっ、マジでなんなんだよ……」


 悪態をつきはじめた時、更に奇妙な音が耳に届いた。

 ぺたり、ぺたり――というような音だ。


 思わずあたりを見回す。

 ぺたり、ぺたり。

 下を見る。

 ぺたり、ぺたり。

 上を見る。

 ぺたり、ぺたり――。


 ――な、なんだ。何の音なんだ?


 ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたッ!


「うわっ!」


 四方八方から聞こえてきた音に、思わず後ずさる。まるでエレベーターの箱を素手で叩いているようだ。

 背中に閉まったままの扉がぶつかった。あまりに慌ててしまって、びっくりしたように後ろを振り向く。しかし、扉が閉まったままだということを再確認しただけだった。再び後ずさって、エレベーターの箱の真ん中で荷物を抱えてあたりに目をやる。

 もう音はしなくなっていたが、視界の隅で妙なものが見えた。

 暗い壁が見えているはずのエレベーターの窓の上のほうから、青白い手が伸びてきていたのだ。

 それはあまりにすうっと伸びてきていた。それから次第に逆さまになった髪の毛が見えた。だんだんとこちらを見るように下がってきている。それどころか、窓の下のほうからも青白い指先が伸びてきて、黒い髪の頭頂部が見え始めた。やがて上側からは額が見え始めた頃、尾木はごくりと息を呑み、やがて――。


 それを見たとき、尾木の喉からは悲鳴があがった。





 エレベーターが開くと、女は思わず驚きの声をあげた。

 エレベーターの真ん中にはスーツを着た男が座り込んでいて、ぶつぶつと何か言っていたからだ。男は扉が開いたことに気が付くと、青ざめた顔のまま悲鳴をあげ、ばたばたと慌てるようにエレベーターの外へと出ていった。

 男は――尾木は、枯れかけた声で悲鳴をあげていた。


 女は一瞬躊躇し、首をかしげながらも、エレベーターに思わず乗り込んでしまった。

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