第六十八夜 電気屋の噂
世見町のとある大型家電量販店には、怖い噂がある。
土井崎がその噂を耳にしたのは偶然だった。
世見町にはよく行くし、その店にも何度か足を運んだことがある。
割と有名な企業が出している店で、名前に「××電気」とついているので、みな単に電気屋と言っている店だ。詳しく言うと店名を出してしまうことになるので、土井崎は言わなかった。
ただ、土井崎は一時期そこの店で働いていたことがあったらしい。今は異動して違う店にいるのだが、やはりその時は色々とおかしな事が起きた。
土井崎が聞いていたのは――その店は大きなビルの二階から五階を陣取っていたのだが――その階段を使うと、あるときだけ妙に足音が遠くまで響くという。そのときには気にせず、絶対に立ち止まってはいけない。一度でも立ち止まってしまうと、目的の階につけないまま歩き続けることになる。
何度も何度も階段をのぼって疲れ切って後ろを見ると、あれほど階段をのぼってきたというのに、すぐ後ろに自分が入ってきた階がある。なんだか気持ちが悪くなって、結局帰ってしまう客が多い――というものだ。
まあそんな都市伝説めいた噂だった。
だから土井崎も、ちょっと嫌だなと思いつつも、所詮は噂と気にしていなかった。
だが、その電気屋の怖い噂というのはそれだけではない。
その日は普通の、つまりは平日で、安売りでもなく、特に混んでいるということもなかった日だった。まあ二度、三度とちょっと困った質問や電話がきたりはしたが、そんなことは日常茶飯事だった。
――もうそろそろ時間か。今日は客も少なくて良かったな。
店内放送では閉店間際に流す音楽が流れはじめる。この音楽が動画サイトで替え歌で歌われていると教えてもらったのはいつのことだっただろう、とどうでもいいことまで考え始める。
点検も兼ねて見回っていると、不意に向こうのほうでわあわあと声がする。
まるで特売でもやっているような賑わいだ。
――えっ、こんな時間に?
でも、思い当たるような節もない。
新しいゲームでも発売されて、客が仕事終わりにギリギリでやってきた?
それとも、団体客がこんな時間に訪れた?
何かクレームでも入ったか?
不思議に思っていると、その声に交じって、おおい、おおい、と誰かを呼ぶような声がする。どうやら店員を呼んでいるらしい。やっぱり団体客か何かだろうかと声のする方向に向かってみるが、客は人っ子一人いない。
おかしいなと思っていると、今度はまた別の方向からわあわあと声がする。
「おおい、おおい」
「すみませぇん」
やっぱり店員を呼んでいるような声が混ざっているので、団体で移動したのかと思ってキョロキョロとあたりを見回してみても、それらしい集団は見当たらない。
「すみません、誰かいませんかあ」
「すみませーん」
しかし、また今度はどこからともなく店員を呼ぶ声がする。
土井崎は声のする方向へとまた行く羽目になった。
「はあい! 今、向かいます!」
この店では、声を出すことが教育のひとつとしてされている。特に客への対応などは、聞き取りやすい声で、待たせる場合でも声をあげてわかるように――と言われているので、土井崎は声をあげたのだ。
ざわざわいう声が大きくなって、ああこの先だ、とわかる。
ちょうど大きめの棚の後ろがわのようで、ようやく見つけたと安堵した。
ところが角を曲がって棚の後ろへとつくと、客は一人だけだった。ざんばらに伸びた髪に、野暮ったい色のロングスカートを履き、流行遅れのカーディガンを羽織った女性に見えた。
「はいっ、お待たせ致しまし……」
た、まで言うことができなかった。
ざわざわ言う声は確かにそこからまだ聞こえていたからだ。
「あー、やっときた」
「店員さーん」
「あのねえ」
「やっと来てくれたのね」
「あっ、店員さんだ」
土井崎は引きつり、思わず後ずさった。
何しろそこで土井崎を待っていたのは、およそ普通の人間ではなかった。その顔には目や鼻がなく、そのかわりに顔じゅうについた口がそれぞれ勝手に喋っている。それも本来の位置についている口も縦になっているし、それぞれ無茶苦茶な配置で割れた口が喋っている。髪の隙間からも声がして、そこにも口があるようだった。
肘を曲げて両手をあげ、こちらへ迫ってくる。その掌にもいくつもの口があった。
「うわああっ!」
思わずよく通る声で叫び、誰もいない電気屋の中を逃げていく。
「店員さーん」
「店員さん」
「店員さあん」
後ろからはまったく別々の声がしていた。
土井崎はほうぼうのていでスタッフルームまで逃げ込み、今あったことを話したが、まったく信じてもらえないどころか、有給でも取るように勧められただけだった。
だが、こんなところで有給を消費しては逆に店に来れなくなると考え、土井崎はそのまま店に出続けた。土井崎もやけになっていたのだ。
それからあの怪物を見ることはなかったが、時折閉店間際に大勢の声がすると、今でもびくりと構えてしまうのだという。
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