第四十五夜 霊安室
長岡は霊安室までやってくると、ため息をついた。
二度と見たくなかった顔ではあるが、さすがに死体で見ることになるとは思わなかった。死体になると余計に見たくないのは事実であるが、それでもこれ以上病院に迷惑をかけられないと思ったのだ。
長岡が守屋総合病院から連絡を受けたのは、つい二時間ほど前だった。
父親が死んだから身元引受人になってもらえないかという話だった。長岡はスッと心臓のあたりが冷えるのを感じたが、淡々と雑務を済ませることにした。介護は完全に放棄したのだから、死んだあとの処理くらいは、という気持ちだった。
こういうとき、「子供が非協力的」と表現すると、冷徹な人間のように思われるのが困る。何しろ冷徹で非協力的だったのは父親のほうであり、長岡自身はそんな父親を見限った立場だからだ。
入院していたのも、いい年して風俗店に入り浸り、酒に酔って従業員の――と警察はぼかしたが――女性に手をあげ、店の外に放り出された。そのまま路上で倒れ込み、頭を打って衰弱したところを発見された。聞いているほうが頭を抱えるほどだったが、もはや情けなさや怒りを通り越して、呆れるばかりだった。
だいぶ衰弱していたらしく、病院に運び込まれて警察が身元を探った結果、長岡のところへ連絡がきたのだ。
警察と病院への申し訳なさもあったが、それ以上に、初めての給料をむしり取られた記憶が蘇ってきた。
ほぼ言いなりだった母親を離婚させ、精神的に自立させるのにもしばらくかかった。それでもいまだに子供や妻は自分の所有物であるという発想が抜けず、職場やマンションの近くをうろつかれたのを覚えている。
嫌がらせもいいところだった。
死んだら身元は引き受けます、という自分の言葉に驚いたが、警察のほうもそういうことは多々あるのか、そうですかわかりました、というような反応だった。
ふう、ともう一度ため息をついたあと、霊安室へと入る。
ベッドに寝かせられている遺体、もとい死体を見ると、妙に複雑な気分になった。
父親はすっかり老け込んでいて、白髪の隙間から地肌が見えていた。おそらく傷ついたところは処置されていて、初めて見るような安らかな顔をして眠っていた。
「ご愁傷様です」
看護師が頭を下げたあとに、出て行った。これが習わしなのだろうか。
遺体を見たら文句の一つも言ってやろうかと思ったが、出てくる言葉は無かった。妙に陰鬱とした気分だった。ショックというわけでもなく、悲しいわけでもない。ただ空しさだけがある。大事なものを亡くしたわけでもないのに、空虚な気分だ。
加えて、霊安室は妙に冷えた。
短時間でも遺体を保存しておくために必要なんだろうが、ただでさえ空気の悪い地下室の、更に暗くて狭い部屋の中で遺体と二人きりなのだと思うと、ぞっとする。
寒くなってきた。
――冷房が効きすぎなんじゃあないか……?
腕をさすり、そのままきびすを返して帰ろうとする。
そのときだ。
ぱちぱちと音を立てて、シンプルな電灯が明滅した。
――うわっ?
声には出なかったが、思わず上を見上げる。電灯はすぐに復活したが、少しだけさっきより暗くなった気がした。
――なんだ、いくら霊安室とはいえ……大丈夫なのか、これは?
むしろこんなときに電気がおかしくなるなんて、他の家族なら悲しみに集中できないんじゃないのか。そう思って、遺体に目をやった。
ぴくり、とその腕が動いたような気がした。
左手だ。父親の利き手を覚えている。長岡をいつも殴った拳。
ハッとしてもう一度見つめる。
その目は見開き、嘲笑っているようだった。顔はいつの間にか若い頃に戻っていて、左手は長岡を指さしていた。
ばちばちと音がして、電灯が再び明滅する。
「お前は俺から逃げられない」
そんな言葉が幻のように聞こえる。
何者かが――父親が――長岡の名前を呼んでいる。
「同じ血が流れているものな。だから、俺のものなんだ。お前の金も命も俺のものなんだ」
葬儀はしないにしても、火葬するための金も、家の片付けも、最後の最後まで、長岡の金で行われる。
ニィーッと笑った顔は、かつて自分に向けられた笑みだった。長岡を殴る時のあの顔だ。慌てて後ずさったが、その肩にぬめりとした手がかかった。
――後ろ!?
「なあ、なあ、そんなつれない態度を取るなよ。てめえ、何様だと思ってるんだ。しばらく見ない間にずいぶんとえらくなったじゃないか。この俺より偉いだなんて思ってるわけじゃないだろうな、ええ?」
腕は肩を通り越して、まるで抱きしめるようだった。
その腕は妙にがっしりとしている。だが、ひどく冷たい。
やがて肩越しに青白い顔が現れた。
目の前で笑っているはずの父親だった。
「そのまま死んでろ!」
長岡は左手で勢いよく青白い顔を殴りつけた。
ぬるりとした手応えがあった。そこには本当は何も無いはずなのに。明確な怒りではない衝動のようなものに駆られて、青白い顔を殴り続けた。青白い顔は突然のことに驚いたのか、長岡を見上げるように怯えた表情をしていた。
それを見た途端、何かがはじけた。
その顎を蹴り上げ、ぐりんとのけぞった顔を踏みつける。奇妙な心地よさが沸き起こる。無茶苦茶にしてやりたいという気持ちが何よりも優先され、実際にその通りにしてやった。加虐心を刺激してくるこいつが悪いのだ。生意気で、往生際が悪くて、みすぼらしくて、どうにも苛々する。
長岡はそのままサンドバックにし続けた。
ハッと気が付いたときには、青白い顔はいつの間にか消えていた。後ろを振り返っても老人が一人死んでいるだけだった。
肩で息をする。
さっきまでのあれは幻だったのか?
だとしたら――。
――……だとしたら。
左手がひどく気持ち悪くて、何度も手を振り続けた。あのぬったりとした異様な感触を覚えている。
――ああ。
同じところに堕ちてしまった。
きっとさっきまでの自分が、忌み嫌った人間とまったく同じ顔をしているのだろうと思うと。
長岡は胸にこみ上げてくるものを感じ、顔を覆った。
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