第四十四夜 四階
ぱちり、と目が覚めた。
時刻は夜中の二時半だった。
――あー、くそ。変な時間に。
安藤はもう一度寝てみようとしたが、変に目が冴えていた。覚醒したあとに朝かと思って無理矢理に目を開けたし、時間を見ようとしてスマホの光で目を刺激したせいだ。そのくせ周りは真っ暗で、消灯の時間は続いている。なんとかもう一度眠れないものかと思ったが、そうそううまくはいかなかった。
大体ここは世見町の病院なのだから、夜の二時なんてまだ電気がついている時間だろうに。安藤はそう一人ごちた。
安藤の入院は手術の必要なものだったが、自覚は無いのでしょうがない。勤め先の人間ドックで異常が見つかったからと病院に行くように言われ、面倒くさがりながらもやって来ると、小さい腫瘍なので今のうちに摘出しましょうと言われて、一週間の入院を余儀なくされた。
つまるところまったく自覚の無いまま入院まで決まってしまったので、痛いとかつらいとかとは無縁だ。むしろ、やることがスマホしかないのがつらいくらいである。消灯時間も早いせいでまったく眠れない。夕食も健康を気遣ったメニューであるので、僅かな空腹も覚えた。
――そういえば、前に同じように入院した奴も暇で夜中に起きたって言ってたな……。
それもこれも軽度であるから言えることなのだが、安藤にはすっかりそのことは頭になかった。
結局、何度か寝返りをうったあとに起き上がった。
財布を持ってのろのろと廊下に出て歩き出す。だが、すぐにナースセンターにいた夜勤の看護師にすぐ見つかった。
「どうされました?」
「あー、喉が渇いちゃって。売店って今開いてますかね」
「売店は無理ですね。でも、売店前の自販機なら」
「寝るの早すぎて、この時間でも起きちゃったんすよ」
安藤が愚痴ると、看護師は苦笑した。
「他の患者さんの迷惑にならないように」
「うーい」
適当な返事をして、非常階段を使って降りていく。廊下と違って非常階段は電気がついていて、明るかった。
安藤のいる五階は、実際には四階だ。病院では四はヨンではなくシ、つまり死に通じてしまうから、できる限り使わないようになっている。少なくとも患者の目につくところの数字からは排除されていて、四階や四号室といった数字は使われていない。最初こそ大げさなと思ったが、入院患者の中には今にも死にそうな顔をした者もいる。ああいう奴が気にするのかなと思い直した。
そういうわけで二階ぶん階段を降りると、まっすぐに売店のほうへ向かった。売店は予想通り開いていなかったが、売店前にある自販機は動いていた。缶ジュースは無く、ペットボトルか紙コップで受け取るものに限られていたが、そのぶん種類は多い。安藤は紙コップで売られているホットのお茶を購入すると、近くのテーブルに腰掛けて飲み始めた。空きっ腹に熱いお茶が入ってくる。少しだけ落ち着いた気がして、紙コップをゴミ箱に棄てて早々に帰ることにした。
再び非常階段をあがり、二階ぶんをのろのろと上がる。それから廊下へと出た時だった。
――あれ?
五階に戻ったはずなのに、妙な違和感があった。ナースセンターに灯りがついておらず、真っ暗だ。非常灯はついているものの、ナースセンターに灯りがないだけでこんなにも暗かったのかと思ったほどだ。
しかし、確かに自分の入院している階に戻ってきたはずなのだ。
酔っ払っているならともかく、ちゃんと二階分上がってきたのは確かに言える。
――おかしいな。
間違えてるはずがないのだが。それでもほんの少しの違和感とともに、自分の病室のあるところへと戻っていく。もしかしたら今の間にナースセンターを閉鎖したのだろうか。そんなことを考えながら自分の病室へと戻り、一応、部屋の号数と名前を確認した。
すると、そこに自分の名前が無いのだ。
だがそれだけならばまだ、階を間違えたで説明がつく。問題なのは部屋の号数だった。そこには間違いなく、四の数字が使われていたのである。
――四号室、だって……!? そんな馬鹿な……!
見間違いかと思って凝視してみたが、確かに四号室だ。もしかしてと思って隣を見て、ぐっと詰まった。隣には当然三号室や五号室があると思い込んでいたのだが、あろうことか隣も四号室だったのだ。
サッと血の気が引いた。
よくよく後ろを振り返ると、非常灯は緑色のはずなのに、妙に赤い。そのせいで廊下全体が赤く発光しているように見える。そのさまは不気味そのもので、どこかこの空間そのものが異質に見えた。
――なんだ、これ……。
そのときだ。廊下の向こうから、かつ、かつ、と足音が聞こえてきた。
思わず音のしたほうを見ると、奥の廊下の角から妙に長い人影が近づいてきているのが見える。好奇心やそのほかの何かよりも、何より恐怖が最初に沸き起こった。
――ま、まずい。逃げないと。
すぐに階段へと振り返り、逃げるように歩き始める。ぱたぱたと自分のスリッパの音が響いてしまう。
すると、後ろからやってきていた足音が僅かに足を速めたような気がした。慌てて階段のほうへと向かうと、足音は次第に走り出して、すぐ後ろに迫った。
――やばい。やばいやばいやばい……!
階段にたどり着き、勢いよく駆け上る。とにかく自分のいた五階に行かないとという思いで、一気に駆け抜けたのだ。そして一階分をあがっただけだというのに、心臓は高鳴り、汗が噴き出した。
そして階段の手すりの陰に隠れて感覚を研ぎ澄まし、耳を澄ますと、もうあの足音は聞こえてこなかった。
はあはあと息をあげ、手すりにすがりついて階段に腰掛けた。
「安藤さん。安藤さん! どうされました?」
ハッと気が付くと、安藤は汗だくのまま階段に座り込んでいた。安藤は座り込んでいたところを発見されたのだ。帰りが遅いのを心配して、売店まで行こうかという話になっていたようだ。さすがにあるはずのない階を発見したなどとは言えず、適当にごまかすことになったが、本当は体調が悪いのではないかと疑われたのだけが誤算だった。
あれから手術も無事に終わったものの、安藤は夜に部屋から出ることは決してしなかった。
特に、階下へ行こうなどとは。
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