第四十二夜 非常階段の影
能川はまだ入って半年にも経たない新人の看護師だ。
ようやく仕事に慣れてきたところだったが、人間相手の仕事というのは一筋縄ではいかない。慣れてきたとはいっても日常の大まかな流れを追うのが精一杯で、不測の事態は常に訪れた。
「ねえ、Aさんっていう患者さん見なかった!?」
特に認知症を発症しかけているような患者はすぐにどこかへ行ってしまう。ステージや死亡率の低い癌の手術で二週間程度、というような人でも、見ているだけでも大変だ。かといって二十四時間監視しているわけにもいかないし、できるわけがない。
家族のほうが理解がある人たちだと良いのだが、病院にさえ入れていれば無事に過ごせるだろうというような家族だと、いざ不測の事態が訪れた時に何を言われるかわからない。
「Bさんがトイレで倒れたみたいなんです!」
「Aさんがまたどこかに行ってて」
先輩たちにとっては「いつものこと」であるが、能川たち新人にとってはそうではなかった。一体どこまでいけば非日常の事態なのかがつかめない。どこかで吐いた、漏らした、転んだ、いなくなった――日常生活から考えればどれもこれもただ事ではない。けれども、危急の事態であるそれと、そうでないものの区別がまだつかない。
下手に大騒ぎをしても、先輩たちは何でも無いことのように事をおさめてしまい、ぽかんとすることも多かった。
するうちにAさんが非常階段で何事も無かったかのようにうずくまっているのを発見し、Bさんの汚物を綺麗にし、更にナースセンターで不安をぶちまけはじめた人の相手をし終えた頃には疲労だけが溜まっていた。
「はあ……もう」
思わずため息をつくと、近くを通りかかった先輩の言葉の鞭が飛んだ。
「ほら、しゃきっとして。まだ終わってないんだから」
「は……はい」
特に能川の先輩に当たるCさんは厳しいことで有名で、なかなかなじめなかった。単なる上司と部下に過ぎないのだし、そこまで……とも最初は思ったが、信頼関係が関わってくると、さすがに腰が引いてばかりでもいられない。そこに人の生死が絡んでくるとなおさらだ。
「ちゃんと患者さんの容態や状況を見ていればそんなこともなくなるわ」
「で、でも……心配じゃないですか」
「そうね、ここにいる人は皆病気なんだから皆心配よ」
「そ……それはそうですけど。
「一人一人に気を配ることは大事よ。でも、一人の患者さんにいつまでもかまっていられないの。ここでは皆平等だから。ある程度区切りをつけないと」
「……でも……」
「いい加減になさいっ。あなたは大げさなのよ」
さすがにCさんの怒りに触れたのか、理不尽な怒られ方をする。
――私に八つ当たりすることないのに。
冷徹に見えるCさんも、見えないストレスを抱えているのだろうか。
――今度の夜勤、大丈夫かな……。
次の夜勤は能川とCさんが一緒になる。
ここでは初めての夜勤ということもあって、能川は緊張感に苛まれた。
しかしどれほど嫌がろうとその日はやってくる。ある程度説明を受けたあとに、能川はナースセンターではじめての夜を過ごすことになった。
しばらく事務処理をしていると、ナースコールが鳴った。
「ああ、この人すぐに眠れないとナースコールを押してくる人だから」
「は、はい」
C先輩の説明を受けてから、「どうしました~?」とできるだけ落ち着いて対応しにいく。たいていそういう人は面倒なのだが、重大な事が起きていても困る。
それにしても、どこにどんな人がいるのか完璧に把握しているんだろうか――C先輩は恐ろしい人だが、感心してしまった。
それからしばらくは静かだったが、やがてがらりと扉が開いた。ナースセンターから覗くと、老人の患者さんがふらふらと出て行くのが見える。
「先輩、あれ……」
「Aさんね。いいわ、私が行ってくる」
「はい」
C先輩はAさんの後ろを追っていき、角を曲がるところで声をかけた。二人の姿はそのまま角を曲がり、見えなくなった。少し話をしたら戻ってくるのだろう。
しんと静まりかえったナースセンターは、奇妙に耳が痛かった。
もしかしたら電話がかかってくるかも、もしかしたらナースコールがあるかも……と考えると、一人だけでは緊張とほんの少しの恐怖が沸き起こってくる。
そわそわしながら能川は待つ。
かけらえた時計のカチコチいう音と、冷蔵庫か自販機のようなブーンという音だけが低く響いている。
――先輩、早く戻ってこないかな……。
たとえ厳しくて怖い先輩であったとしても、いないと不安になる。もし今、緊急の患者さんが出たりしたら……。
こつん。
能川は急に聞こえた足音にハッとした。
――足音! どこから?
ナースセンターのカウンターから顔を出してあたりを見回す。
一体どこから、ときょろきょろしていると、非常階段のほうへと人影が向かうのが見えた。後ろ姿からして患者だ。
どきりとする。こんな時間に一体どこへ行こうというのだろう。
――落ち着いて! 徘徊癖のある人とも限らないし……。
能川はナースセンターから出ると、声をあげた。
「あ、あのう、どうされました?」
非常階段のほうへ向かう人影は、そのまま行ってしまう。
「すみません、規則なもので……」
声をかけながら後を追う。だが、非常階段の扉の影に隠れた瞬間、凄まじい音が木霊した。
ガタタタッ、ガタァァン!
――何!?
能川は急いで非常階段まで走ると、らせん状になっている階段の下を覗き込んだ。人影はいない。驚いて下のほうまでを見ると、らせん状の中央の筒抜けになった場所、その階下に、人影が倒れているのが見えた。
「た、大変!」
急いで後を追わないと。
足がもつれそうになりながら階段を降りようとする。
そのときだった。
突然肩を掴まれ、能川はぐいっと後ろにバランスを崩した。なんとか足でバランスを取ったが、本当に突然のことで驚き、声が出なかった。
ハッとして後ろを見ると、C先輩が息をあげながら能川を見ていた。
「せ……先輩! 今、いま……、患者さんが!」
慌ててそう報告したが、先輩はどこか苦い顔で能川の肩を叩く。
「大丈夫だから、深呼吸して。私の言う通りにして」
「ええっ? えっ? なんですか、だってどうして」
「いいから、私の言う通りにっ」
厳しい言葉に、日頃の先輩を思い出して言われた通りに深呼吸をした。
すると、次第に落ち着いてくる。先輩がじろりと地下を見て、息を吐いた。
「もういないわ」
促されて手すりの下を見ると、もう誰もいなかった。
「そ、そんな……」
能川の声は小さく非常階段に反響した。
それから先輩に連れられ、ナースセンターへと戻った。
十分だけ、という約束で休憩をとり、紅茶を淹れてもらった頃には、真っ青になっていた顔の色も次第に良くなってきた。
「前もね、あなたと同じように、あの影を追いかけた人がいたのよ」
「……どうなったんですか?」
先輩は黙って首を振った。
「生きているものとそうでないものの区別もつけなさい。病院……ここだと特にね」
その沈痛な面持ちに、それ以上は何も言えなかった。
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