第四十一夜 深夜の患者

 これは茂上が守屋総合病院に入院している時に体験した出来事だ。


 茂上はその日、廊下の密やかな騒ぎで目を覚ました。

 パタパタと静かな、それでいて慌ただしい音が階段のほうへと消えていく。


 ――ああ、救急外来か……。


 ナースセンターに近い病室では、たまにこんなことがあった。


 世見町にある唯一の総合病院、守屋総合病院の夜は長い。

 何しろ世見町にあるというだけで、深夜の患者の数は他よりも跳ね上がる。突然の事故や急病ならまだ良いほうで、喧嘩や殺傷沙汰といったのが多いのが特徴だ。ごくごく稀にだが、病室まで怒鳴り込みながら一緒に入ってくる人がいたこともある。すわヤクザかと思ったら、何のことはない喧嘩中の一般市民だったのが一番驚いた。


 ――変な時間に起こされちまったな。


 スマホを取って時間を見ると、深夜の二時だ。

 音を聞いていると妙に目も冴えてしまって、これは一旦トイレにでも行ったほうが改めて眠れるな、と思い至る。

 それ以上に興味もあった。自分の病状のほうはいくぶん落ち着いていたし、そうなってくると、この世見町の病院の患者、特に緊急でやってくる患者が気になる。必ず何かしらの騒ぎはくっついてくるし、ほぼ戦場と言っていい。

 体を起こしてスリッパを履き、そっと引き戸を開けて廊下に出る。

 音はできるだけ立てず、しかしぶらぶらとトイレまで向かった。

 消灯時間はとっくに過ぎているので、廊下は最低限の灯りしかない。明るいのはナースセンターだけだ。思った通りゆったりと歩いていると、ナースセンターにいた女に呼び止められた。


「どうされました?」


 見とがめられたように、優しくはあるが少し厳しい声が飛んできた。

 ピリピリしているのだろう。


「あー、ちょっとトイレに。なんか急患だったんですか?」

「起こしちゃったんですね。すいません」


 謝る看護師に、いいんですよと笑う。


「何かあったら言ってくださいね」


 看護婦はそれだけ付け加えると、すぐに自分の仕事に戻ってしまった。茂上は若いし、そうそう手が掛かる患者でもない。茂上もトイレに行くと言ったからには、そのまま早足で向かった。

 用を足してから帰り際に、茂上は少し大回りして部屋に帰ることにした。

 茂上の病室からトイレまでは、ナースセンターの右側から行けば早いのだが、左側から行くと少し距離がある。茂上はわざと左側のルートを通って戻ることにした。ナースセンターを中心に一周しながら帰ることになるが、こうして歩いている人もいるので特に不審がられることもないだろう。

 何か緊急の患者の関係でわかればいいのだが。

 茂上はそう思いながらぶらぶらと歩いていると、やがて廊下の向こうから足音がするのに気が付いた。


「……ん?」


 ぴたりと足を止める。

 足音はこちらへ近づいているようだ。

 何人かの足音と、ガラガラというストレッチャーの音が近づいてくる。茂上が壁際に退くと、その一団は急ぐ様子もなく横を通り過ぎていった。

 だが、その一団――ストレッチャーを囲んでいる看護師や医者らしき人物も、妙に沈痛な面持ちをしていた。茂上は自分を追い越していくストレッチャーを眺めた。顔が隠してある。


 ――ああ、死んだのか……。


 そう思うと、妙にぞくぞくした。

 直接見たわけではないが、体の芯にひやりとした風が吹き込んだ気分になった。

 なんだかもう早く寝てしまおうという気になって、そこからは足早に病室へと戻った。


 それからはスマホを見ることもなく、ベッドに潜り込んですぐに目を閉じた。


 翌日になって、茂上はいつも通りに起きると、暇を持て余して病室から出た。すぐ目の前のナースセンターでは忙しく働いている様子が見れたが、軽く挨拶を交わして話しかけた。


「そういえば昨日の患者さん、亡くなったんですか」

「えっ!?」


 女の看護師が驚いたような声をあげたので、茂上は続けた。


「いや、昨日の夜に緊急で患者さんが来ましたよね。亡くなったのかと思って」

「ええ? いえ……そんなことはないはずですけど」


 守秘義務というより、困惑の表情だ。

 しまった、と思った。


「えっ、そ、そうですか」


 茂上は自分が早合点していたことに気付いてどぎまぎしていた。


「ここの廊下をお通夜みたいな風に歩いていくのが見えたから、俺はてっきり」


 頭を掻いて、言い訳のように告げる。もしかしたら緊急の患者などではなく、同じ階の人が亡くなったのかもしれない。驚いた表情の看護師の顔が急にこわばった。


「……変な夢を見ただけですよ」

「うーん。確かに通っていったんですけど、もしかして手術だったのかな」

「おかしいですよ、茂上さん。その話はしないようにお願いしますね」


 妙な言い方だった。それも妙に緊張した表情だったので、さすがの茂上も頭を掻きながら退散するしかなかった。


 それから茂上は退院し、二ヶ月も経った頃には久々に出会った友人と酒盛りをできるくらいになっていた。


「そんじゃまあ、退院おめでとうってことで!」


 お互いにビールを片手にかち合わせ、ぐびぐびと喉へ通す。


「ま、退院祝いっていっても二ヶ月も経っちまったけどな! はははっ!」

「いいって、別に! お前も忙しかったんだろう?」

「おう。お互い体は大事にしようや」


 久方ぶりの話を楽しみつつ、話は茂上の病気や入院生活の思い出話へと移った。


「それにしてもよう、お前、世見町の病院……なんて言ったっけ」

「守屋総合病院」

「おう、それだ」


 友人は声を潜める。


「あそこってさ、出るんだろ? 幽霊」

「そうだったのか? あんまりそういう話は聞いてないなあ」

「なんだ、つまらんなあ。有名だぞ、守屋の病院。確か……ほら、なんて言ったかなあ」


 友人が何かを思い出している間、茂上はつまみを口にしていた。


「ああ、そうだ。ストレッチャーだ」


 だが再び話し始めたそのとき、茂上の手は見事に止まって、ごくりと唾を飲み込んだ。


「深夜に妙にゆっくりとストレッチャーで運ばれてく一団の幽霊とかな。あれが通ると、その階の人間がひとり、近いうちに亡くなるとかっていう……」

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