第二十九夜 鬼王シネマの支配人

「それじゃあ、今までお疲れ様でした」


 事後処理も終わった最後の日、鬼王シネマの支配人だった野崎は花束を受け取った。

 花束を持ってきた女性職員の他に二、三人だったが、人数の少なさに負けない拍手が送られた。野崎は照れながらも頭を下げた。

 鬼王シネマと天映のやりとりは現場の人間には蚊帳の外であり、そこで下された決定には遺恨の残る最後だった。しかし、それに逆らうことはできやしない。

 だが閉館日には数十年前の勢いが戻ってきたかのような盛況ぶりで、長い間支配人をつとめていた野崎にとっては懐かしくも輝かしい一日となっていた。その日のことを思えば、何も言うことはない。


 打ち上げも何もない寂しい解散ではあったが、ここからまた世見町の歴史が変わっていくのだろう。

 まっすぐに家に帰った野崎は、そのまま家族に迎えられた。

 世間一般からすればとても幸せな最後だ。


 ――これから何をしようか。


 だがそれまで仕事一筋だった野崎には、これからのビジョンが何も見えていなかった。


 何しろ今までは朝五時には起床し、トイレに入って歯を磨いてからご飯と味噌汁と漬物を食べて身だしなみを整えた後に出勤する。

 満員電車に揺られて劇場に到着したあとは、朝イチの上映を終えたスタッフとともに軽い朝礼を行い、再び仕事に戻らせる。そして自分の仕事をこなしながら、問題を持つスタッフを叱咤激励し、次の映画のポスターの配置やキャンペーンについて頭を悩ませる。

 雇う余裕のなくなってきた清掃員に代わって自分が掃除をしたり、置かれた広告の数を調整したりする。次の映画のスケジュールを調整する……。

 その生活はあますところなく五十年近く続けられた。本当は六十で退職するはずだったものの、経営が怪しくなってきたころから、代替わりをするよりも契約の継続を求められたのだ。


 最初の内は同じ行動をしようかと思ったが、妻は「もう五時前に起きなくていいから」と六時まで寝始めた。息子夫婦が六時に起床すれば良かったので、それにあわせるようになったのだ。

 公園や近所をぶらついてみたが、何か変わったことがあるかというとそうでもない。


 かといって家の中にいてもこれといってやることはなく、テレビもほとんどがバラエティやニュースばかりで、映画の枠が少ない。あってもCMなどで短縮されてしまっている。家のことをやろうとしても、どこに何があるのかわからない。何か買ってきても、置き場所に困る始末。結局妻に頼るしかなく、最終的に「何か習い事でもしたらどう」と言われる始末。

 今までのきっちりとした生活から、急に緩んだ生活へと変わっても、戸惑いしかなかった。


 いつしかぼうっと過ごすことも多くなってきた頃だった。

 野崎のもとを、一人の老人が尋ねてきた。


「野崎さん、あんたは忘れておるかもしれませんがね。あたしァ、昔あんたのところで働いておった、コガという者です」


 野崎はしばらく男をじろじろと見ていたが、やがて記憶の底にひらめくものがあった。


「あ、あ、あんたは……」


 野崎は思い出す。

 映画館支配人という栄光の中にも、汚点はあった。

 まだ野崎が若かった頃、失敗を繰り返したため、怒鳴りつけて辞めさせたのが彼だった。かつてのフィルムは映画の途中で別のフィルムに切り替えないといけなかったため、失敗すると映像のはじめのカウントダウンが途中で入ってしまう。そのほかにも火気厳禁なフィルムを焼いてしまったりと、問題も多かった。


「あれから別の小さな劇場に行きましてね。やあ、野崎さんにはだいぶどやされましたが、あれもいい経験だったと思っちょりますよ」

「そうか、そうか。……あんた、映写技師を続けていたのか」


 引退の話は新聞にも載った。何しろ世見町の鬼王シネマといえば、有名どころの話ではないからだ。もちろん野崎の名前が載ったのは記事の後ろの方に少しだけだったが、それでも鬼王シネマ閉館の話は大々的だったからだ。


 だから、彼のもとに人々がやってくるのは不思議なことではない。

 それからだんだんと、昔の懐かしい仲間が挨拶に訪れた。


「覚えてますか? ツチヤっつうんですがね」


「どうもお久しぶりです。チバですよ。こいつはほら、ヘボいからヘボの愛称で呼ばれてたオザキです」


「あれまあ、館長さん――久しぶりですう。警備員やっとった、イツキですよ」


 彼らのほとんどは皆、年齢や事情があって映画館から離れた者ばかりだったが、どうやら閉館の話を知って挨拶へと訪れたのだという。

 野崎は久々に映画の話なんかをしたりして盛り上がった。機嫌の良くなった野崎は、毎日の生活のことなどどうでもよくなっていった。


 そのうちの一人に鬼王シネマの解体を見に行かないかと誘われ、少し迷ったが行くことに決めた。


「先週来たデグチさんだがね」

「え? なんですって」

「先週、うちに来たデグチって男だよ。鬼王シネマの解体を見に行かないかと誘ってくれてね」

「えっ?」


 ぽかんとして尋ね返す。


「……何を言ってるの? 先週は誰も尋ねてなんか来てないわよ」


 妻は不審げな面持ちをしていた。

 忘れているのだろうかと、思わず驚いた声をあげる。


「なんだって? 誰もって、その前にも来ていたじゃないか」


 野崎は次々に名前を告げたが、妻はますます胡乱げな表情を浮かべるだけだった。

 妻曰く、あなたが仕事を辞めてから尋ねてくる人なんていない、とのことだった。


「そんなバカな。人をからかうんじゃない!」


 野崎は食ってかかったが、妻は「忙しいから」とそそくさと部屋を出て行ってしまった。あとには呆然とする野崎だけが残された。


 妻の頭がおかしいのだろうか、と首をひねる。

 確かに自分は仕事ばかりで家庭を顧みなかった。息子夫婦を見ていると、どうにも自分たちと比べてどうも頼りない。小言の一つでも言ってやりたい気分になるが、それでもうまく回っているのが不思議だ。そういえば息子夫婦にはまだ小さな子供がいたはずだが、どうしたのだろう。

 解体作業を見に行くから孫も一緒にどうかと言うと、息子には苦笑されたが。


 気になって連絡先に電話をしてみたりもしたが、いつも通話中か家にいないという返答だった。

 皆そんなに忙しいのか。


 次第に不安になってくる。

 あれは現実だったのだろうか?

 自分が日常になじめないから見た白昼夢か何かだったのではないだろうか。

 電話は相変わらず通じない。あまりに頻繁に電話をかけようとしたからか、息子に苦言を呈されて口げんかになったりもした。

 後から考えると大人げなかったとも思うが、携帯電話を取り上げるとまで言われれば、親に向かって何だと言いたくもなったのだ。

 結局、野崎は約束の日まで待つことにした。


 きっと来るはずだ。

 他にも来る人間はいると言っていたのだから。


 朝起きても、妻は相変わらず起きていなかった。

 着替えを済ませると、薄暗い道を行く。仕方なく朝食を抜いて行くことにした。どこをどう進んだかあまり覚えてはいないが、気が付くと鬼王シネマの前まで来ていた。

 解体はまだ始まっておらず、思わず懐かしい映画館を見上げてしまった。たった半年近い出来事だというのに、ずいぶんと長い時間が経った気がする。

 すると、目の前にコガがいた。


「さあさあ、待ってたんですよ支配人」


 コガは嬉しそうに野崎を案内する。


「あたしよりこの映画館が長い連中が待ってますよ。やっぱり支配人がいないと始まりませんからね」


 どういうわけか、コガはすいすいと閉鎖されているはずの映画館の中へと野崎を連れていく。

 野崎も少し動揺しながらもついていくと、やがてパッと視界が開けた。

 明るいロビーの中に、大勢の仲間が拍手で迎え入れる。


「ああ……やっぱりみんないたじゃないか!」


 野崎は思わず笑った。


「さあ、支配人。そんな格好じゃあお客様にも、あたしらにも示しがつきません」


 野崎は自分の格好を確かめた。いつの間にかスーツを着ている。女性が持ってきた鏡で曲がったネクタイを直すと、立ち上がってひとつ咳払いをした。

 光に包まれている。

 ああ、此処が自分のいるべき場所だったのだ。


 新たな朝礼の時間だ。はじめよう。


「さあ、今日も一日はりきって、お客様に映画を楽しんでもらおう」


 はいっ、という力強い声を、野崎は確かに聞いた。







 それから数日後、新聞の片隅に、野崎が亡くなったという記事が小さく載った。

 鬼王シネマの解体に立ち会っていた時に突然死したということになっていて、最後まで鬼王シネマと寄り添って生きた支配人として訃報が載った。

 だが現実は少し違う。


 野崎は解体作業を再開しようと朝にやってきた工事の人間に発見されたのだ。

 最初は入り込んだホームレスかと思われたが、警察を呼んでから何者なのかがわかった。

 どうも彼は事後処理が終わってからというもの、やや認知症の症状が出てきていたのだという。一日中ぼんやりと過ごすようになって、見えない誰かと会話していたという。既に大学生になって一人暮らしをしている孫のことも、記憶から消えていた。朝と夜もひっくり返りつつあり、妙な時間に起き出す事も多くなった。

 しかし家族のほうも自分の生活がある。仕事が急になくなったからだろうと気楽に構えているうちに、ある日の夜中に抜け出していなくなったらしい。連絡を受けた家族はもう少しで捜索願を出すところだったと告げた。


 しかしひとつだけ不思議なことに、映画館は既に工事の手が入っていたので、当時はどこからも入れないようになっていた。外側を覆った唯一の扉にも工務店の錠前が当然かかっていて、その鍵はちゃんと工務店側が用意した事務所に入っていた。

 だから、野崎がどこから入り込んだのか誰にもわからなかった。


「きっと彼は鬼王シネマを気に入っていたから、呼ばれたんだろう」


 誰ともなく、関係者の間ではそういうことにされていった。

 そのほうが幸せであると信じて。

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