第二十四夜 シネマ七不思議・映画好き
鬼王シネマに通う人々の間には、指定席の人、という話が伝わっていた。
それはいつしか七不思議の一つとして捉えられたのだが、野村という男も、この指定席の人物に出会った一人である。
野村は鬼王シネマの常連だった。
常連といっても閉館する直前の数年のことであり、昔からの常連ではない。
閉館直前の数年間は、建物の老朽化に加えて客も少なくなっていた。全体的な収入も落ちてきて、最後のほうは赤字だった。話題作の上映では人が溢れたが、新しい映画館は各地にできていて、ここだけでしか見られないということもなくなっていた。
そんな最近の映画館は、ほぼ指定席を導入している。専用のシステムが組まれ、チケットに表示された番号に座るのが常識になりつつある。
しかし昔ながらの映画館は特にそういうことはなく基本的に自由席で、早い者勝ちが更に激しかった。鬼王シネマもそのやり方だったが、既に平日の昼間や深夜はゆったりと座ることができるようになっていた。
特に夜のうちは名前も聞いたことのない外国の映画をやっていた。よく知られた――たとえばハリー・ポッターやマーベルのヒーローもの――よりも、人間ドラマに寄った作品が多かったし、中には自分と重ね合わせて思わずぐっとくる作品もあった。
雰囲気も手伝って、ずいぶんとノスタルジックな気分に浸れたものだ。
そんなことを一年も続けていた頃だった。
――あの人、この間もいたな。
野村はちらりと端の席を見た。
そこには中年の男がいた。何度か来ているうちに気が付いたのだが、いつも同じ席に同じ男が座っている。
特にその男はよく見ることがあった。
映画が始まれば真っ暗になるので、気になるほどでもない。
反対に映画が終わって劇場が明るくなると、いつの間にか立ち去っている。
きっと自分と同じく、深夜の外国映画が好きなのだろう。そう思うと、野村は奇妙な親近感を覚えていた。
なんとなく知った人間のような気になっているうちに、野村は海外への転勤が決まった。映画館も次第に客が減り、天映が買い取ることが決まったあたりのことである。それから閉館が決まり、最後の日が決まったくらいになると、野村は声をかけたいと思い始めた。
しかし、相手は映画が終わって明るくなるといなくなっている。
エンディングを見ないタイプなのかとも思っていたが、どうにも撤収が早いだけのようだ。そうなるとチャンスは短い時間しかない。
明るくなってどうせいないだろうと踏んでいたのだが、驚いたことにまだその男はそこにいた。
これは、チャンスだ。
”実は海外に転勤になりまして……、最後にどうですか、一杯。”
その言葉を紡ぎだすのは、会議で喋るよりも緊張した。
このままいつも通りに終わるのがいいのか、決めあぐねていた。
彼が近づいてくる。あの、と声をかけようとしたところで、先に話しかけてきたのは彼のほうだった。
「いつもこの席に座ってらっしゃいましたよね」
男はにこやかだった。
「あ、お恥ずかしい。知ってらっしゃったんですね」
野村は男のことをすっかり知っているような気になっていた。物腰も柔らかで、不快感を与える人物でもなさそうだ。
「今日の映画はどうでしたか」
「ええ、面白かったです」
そんな会話から、次第に野村は時間を忘れて彼と話した。
いつの間にか隣に座り込んだ彼と一緒に、映画の話で盛り上がる。
「いつだったかの『雨降り屋敷の人々』は良かったですね……偏屈な主人の心の傷が、執事の小さな描写から読み取れるようになってるの、あれはすごいと思いました」
「ええ、周りの人間の動作からわかるものといえば、フェルディス監督の『素晴しき日』や『コーヒー・ストリート』が有名ですけども、それはまた違った……」
あまり知られていない映画の知識がどんどんと出てくる相手に、野村は久々に楽しい時間を過ごした。
その時間のことは、今でも濃密に覚えている。確かに
だが一時間も経った頃だろうか。はっとしたように我に返る。いい加減劇場から出ないといけないのでは――そう思った時だった。
「……あれ?」
彼の姿を探してきょろきょろとあたりを見回す。
いつの間に出て行ってしまったのか。それともあれは夢だったのかと、今まで男が座っていたはずの座席に触れる。
「うっ」
濡れているわけでもないのに、ぞっとするほど冷たかった。
クーラーのせいだけではない、まるで氷で冷やしたような……。
それどころではない。いったいどれほどの時間が経ったのかとスマホを見ると、一時間どころか一分も経っていなかった。
それ以来、映画館に足を運ぶ暇もなく野村は出発した。鬼王シネマ閉館のニュースも海外で知ることになる。
あの人はなんだったのか、今でも釈然としない。
だが野村はあのとき、不思議と奇妙な満足感に包まれていたのだ。
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