第二十二夜 シネマ七不思議・トイレ
鬼王シネマには七不思議があった。
鬼王シネマとはかつて世見町にあった映画館で、戦後の復興・町の再開発の象徴として繁華街の中心となった。
外見は赤煉瓦で出来ていたが、センスという面ではあまり役だっていなかったように思われる。そんな外観と同様、中のほうもだいぶ昭和を感じさせる作りだった。
スクリーンは映画に集中するからともかく、トイレなんかでは否応なく時代を感じさせられた。
そんなトイレには幽霊が出るという噂があり、七不思議の一つに数えられていた。
松坂もそんな七不思議を聞いたことのある一人だ。
その日松坂が映画館に入ると、ロビーはとても静かだった。
次の上映よりも早い時間に来てしまったらしく、スクリーンへ続く扉はどれも堅く鎖されていた。今入ってもきっとラストの十数分。ちょうどネタバレになってしまう時間だろう。わざわざ扉を開けて光を入れ、反感を買うのも面倒だ。
ちょうどいいやとばかりに、先にトイレに入っておくことにした。
だからなのだろうか。幽霊が出るなんて噂があるのは。
――まあ、確かに不気味だわな。
松坂はそんなことを思いながら足を踏み入れた。
ただでさえ少し奥まったところにある上に、窓も無く、電気もやや薄暗い。カバーの中では虫が死んでいて、黒い粒々が見える。掃除はされているものの、長年の取り切れない汚れはどうしようもなく清潔感にはほど遠い。青いタイル張りといういかにもな古臭い内装も手伝ってか、ひどく陰気だ。二つある個室も和式トイレだ。
とにかくどこをとっても、幽霊が出るにはおあつらえ向きだ。
小便器のほうへ足を向け、用を足す。
誰もいないが、妙に気になった。公園のトイレといい勝負だろうか。
それでもなにも感じることも見ることもなく、松坂は手洗い場の方へ行こうとした。
その途端、今度は入ってきた男と至近距離でぶつかりそうになった。
「……っ、あ、すんません」
「ああ、いえ」
急いでいたのか、それとも気配が無かったからか。
松坂は思わず驚きを隠しきれない声になってしまった。
思わず幽霊かと一瞬疑うほどだった。
動揺を抱えたまま、手洗い場の方へ行って手を洗う。
――びっくりした。あの男、いつからいたんだ。
自分はそれほど怖がりではないと信じているものの、急に目の前に現れれば驚きもするし動揺もする。特に変な緊張感があればなおのことだ。むろん映画館のロビーからトイレの前までカーペットが敷いてあるから、足音が消えているのは不思議なことじゃない。
それでも、まさか幽霊じゃないだろうなと、ちらりと男のほうを見る。そんなことがあってたまるものかと思ったが、松坂は一度前を向いたあと、また男を見る羽目になった。
きゅ、と蛇口を閉めて、呆然ともう一度前を見る。
目の前の鏡には何も映っていなかった。
位置的に小便器の前にいるはずの男の背中が映っているはずなのに、そこには誰もいないのだ。
それなのに、自分の後ろには確かに男がいる……。
「……うわあっ!」
松坂はそれに気が付いた瞬間に、叫び声をあげて逃げ出した。
慌てて映画館のロビーにまで戻ってくると、人が少しずつ大きな扉の中から出てくるのが見えた。人影はまばらなので、いわゆる「エンディングを見ない人たち」だろう。その人たちが見終わった映画のパンフレットを求めて、物販コーナーに集っている。
スマホを取り出して時間を確認したり、面白かったねと言い合っている人たちもいた。
松坂はその賑わいにホッとした。
近くにあったベンチに座り、ふうっと息を吐き出す。
今から見るのがホラー映画でなくて良かったと、本当に思う。
だが――だが、落ち着いたところで松坂はあることを思い出した。
そして、トイレで出会ったあの男には申し訳ないことをしたと思った。
さすがに変な奴に思われたかもしれない。急に声をあげたのだから。
何しろ鏡には、目の前にいる自分自身も映っていなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます