第八夜 ビルの怪異

 Aさんは世見町のとあるビルで警備員をしていたが、そのビルが「出る」ので有名だった。


 古いビルだったため、むしろ幽霊よりも勝手に肝試し感覚で入ってくる酔っ払いが絶えず、そっちのほうが迷惑していたらしい。

 特に世見町なんて西側の繁華街が深夜を過ぎても盛況なので、そのノリで突っ込んでくるのが多かったそうだ。


 同じ町内とはいえ、わざわざ東側の区役所通りにまで突っ込んでくる輩なんて、面倒臭い輩ばかりだ。掴まえようとすると暴力団の名前を出して脅してくるようなのもいたが、たいていはまったく関係の無い人間ばかりだった。


 だが、警備日誌の中の「人間が入り込んだ」には、追いかけたら居なくなってしまったり、注意をしようと近づいたらフッと消えてしまったなどの「おかしな」報告が時々上がっていた。

 Aさんはあまりそういうものを信じるタイプではなく、自分の影を見間違えたか、見つかったと思って逃げてしまったんだろうぐらいに思っていた。


 そんなAさんだが、ついに奇妙な経験をすることになる。

 それは猛暑と言われる年の、ある日のことだった。


「じゃあ、行ってくる」

「はいはい。こっちは任せておいてくださいよ」


 Aさんは同僚に監視カメラの確認を任せて、見回りに出た。監視カメラがあるといっても、どちらかが見回りに出る必要がある。

 警備室はクーラーがあるものの、ビルの中はむっとした熱気が漂っていた。夜といっても気温がなかなか下がらず、Aさんは冷房の切れたビルの中を汗を垂らしながら歩く。


 ――暑いな。


 早く涼しい警備室に戻りたい。

 いつもならカップラーメンを夜食に選ぶところだが、今日ばかりは何か冷たいものでも食べたい。

 そんなことばかりが頭に浮かび、Aさんは足早に階段を登っていった。


 二階の廊下を一通り見回り、三階へと続く。そこの見回りも早々に終えて四階へ上がろうとしたときだった。懐中電灯に照らし出される足があった。


「むっ!」


 足音や気配がまったくしなかったので驚いたが、確かに人の足があった。慌てて懐中電灯を上に向けると、なんとジーパンにシャツ姿の後ろ姿が、懐中電灯の明かりから逃れて闇の中へと消えるところだった。


「おい、何をしてるんだ!」


 Aさんは暑さでイライラとしていたのもあって、いらだたしげに言った。

 一瞬、しまったと思ったが返事はない。

 ビルの関係者であったなら、必ず何か弁明があるはずだ。

 だが、人影は懐中電灯から逃れるように上へ向かっている。


 こりゃ侵入者だな。

 Aさんは流れる汗を拭い、帽子をかぶり直すと、気を引き締めて人影を追った。

 急いで階段を登り、踊り場を越えて懐中電灯で上を照らすが、そこに人影はなかった。


 ――いったいどこへ行った?


 廊下に出て、奥を照らしてみる。

 すると、人影が懐中電灯の光からサッと逃げた。


「きみ、待ちなさいっ!」


 厳しい声をあげ、逃げたほうへと灯りを動かす。どこかの部屋に入ったようで、スーッと扉が閉まるのが見えた。

 声は聞こえているだろうに、ふてぶてしいやつだ。それとも隠れようとしたのだろうか。

 Aさんは急いで後を追って、中に入ったとおぼしき扉を開けた。


 バン、とけたたましい音が響かせ、Aさんは中へ灯りを移動させる。

 だが――中には誰もいない。


「……? おかしいな?」


 中は倉庫のようで、がらんどうだった。どう見ても人の隠れられるようなところはない。


 別の部屋だったか?

 だが、他の部屋を確認してみても、鍵がかかっていないのは今入ったこの部屋だけだった。

 念のため部屋中を探して見てみたが、人の気配も、それらしい隣の部屋に通じているらしき扉も無かった。


 気のせいだったのか?

 いや、そんなバカな……。


 だが、取り逃がしてしまったのならしょうがない。あるいは、監視カメラなら何か映っているかもしれない。

 Aさんは急いで警備室まで戻ると、同僚に声をかけようとした。


「Aさんっ! 大丈夫でしたか!?」


 だが、監視カメラで見ていた同僚は真っ青な顔で尋ねてきた。

 あまりの剣幕に、Aさんのほうが驚いたくらいだ。


「い、いやそりゃあ大丈夫だが……」

「早いところ警察呼びましょう! あんなものがビルにあったら不味いですよ!」

「あんなもの?」

「Aさんが入った部屋ですよ! 男が首を吊ってたでしょう!?」

「ええっ!?」


 Aさんは今度こそ目を見張った。


 ……後に監視カメラの映像を見てみたあと、Aさんは今度こそ真っ青になった。


 監視カメラに映った件の部屋に、白い服の男が入っていったかと思うと、そのままロープをつるして首を吊り始めたのだ。男はあろうことか監視カメラのほうを見ながら苦悶の表情を浮かべていた。

 だが、後から入ってきたAさんは不思議そうに懐中電灯であたりを照らすだけで、まったく首つり死体に気付いていないようだった。

 その間、首を吊っている男は、次第にがっくりと両腕を垂らした。


 そこで監視カメラの映像が切り替わり、別の場所が映った。再び元の部屋に映像が戻った時には、もうそんな男はいなかったのだ。


 念のため探してみたが、当然そんな男は存在しなかったという。

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