目を閉じる

 ブルーシートの上で寝る。枕は弁当のゴミ、布団は誰かがかけてくれたコート。二の腕のあたりに石だか根の隆起だかがあって不快。ストッキングに包まれたつま先を風が通る。日がかげるたび震えるほど寒くて、身を縮こまらせてなんとかコートの中に入ろうとするのだが、うまくいかない。再び差してきた陽光とともに、桜の花びらが降り注いでくるのを感じるが、たぶん気のせいだろう。佐野さん本当に寝てるの? と誰かの声がする。そうみたい、という声はけっこう近くからする。渚さんだ。薄く目を開けると、渚さんの、うすい水色のズボンに包まれたお尻が見える。安心してまた目を閉じる。春の空気の甘い香りが遠ざかり、渚さんの吸う煙草のにおいがする。いま渚さんが吸っているのか、それとも渚さんの体に染みついたにおいなのか、はたまたただの錯覚なのか、わからない。目を閉じているとなにもわからない。

 私の、右の手のひらが上を向いている。ゆるく指が曲がって、お椀のようなかたちになっている。圧迫された二の腕から、その指先へ、血が通っているのがわかる。渚さんが間違ってそこに手を置いてくれないかなあ、と思う。煙草を持った手を、ブルーシートの上につくつもりで、私の手の上に。熱っ、と言って私は飛び起き、細い目を丸くした渚さんが、ごめんごめんごめん、と叫んでくれるだろう。手に跡くらい残るかもしれない。

 いや、それではつまらない。また日がかげってきて、冷たい膝をコートの中に入れようとすると、今度は腰骨に何かが当たる。地面というのはどうしてつめたいのだろう。渚さんはいつも誰にでもやさしい。だから誰にもばれないように、そっと私の手を灰皿がわりにしてはくれないか。灰をとんとん落として、私の手のひらに積もらせてくれまいか。悲鳴なんてあげないから。掌紋を焼かれて泣いたりしないから。そしてなんでもないように起きて、灰を払って、きっと誰よりてきぱき片付けをする渚さんを手伝うから。渚さん帰り何線ですか? って、手のひらの火傷なんてないような顔で、並んで歩くから。

 でも渚さんはそんなことしない。そんなことしないから渚さんなのだ。恋は私の中の渚さんを狂わせる。渚さんに恋しているのか、私の中の狂った渚さんに恋しているのか、もう、わからない。目を閉じているとなにもわからない。腰で踏んでいるなにかが震える気がする。痛い。血が上手く通わない指先が冷えて感覚がなくなっている。氷の指。渚さんの煙草で温めてほしい。渚さん。

「佐野」

 と渚さんに呼ばれてぱっと目を開ける。「うわ起きてんじゃん」と渚さんが笑う。渚さんのやわらかい目の色に見惚れる。こんな人が人の手を灰皿代わりにするわけがない。目を閉じている間の私はちょっと、すごく、おかしい。あまりの寒さに体をぶるぶる震わせ、なんとか起き上がる。

「吸わないんですか、今日」と尋ねると、渚さんは呆れたように笑って「禁煙」と答えた。私は両手を擦り合わせコートを体に巻き付けて頷いた。何度も、何度も頷いた。目を閉じるのが怖くて、でも閉じていたくて、そっと左目だけを閉じる。まぶしい。花びらがゆっくり降り注ぐ中に私の好きな人が座っている。渚さんが口元を緩ませ、リラックスした表情になって、私に手を伸ばす。彼女の手が私に触れるまでの間に、目を閉じるのか、開けるのか、決めなくてはならない。



ブルーシートの上で寝る。灰皿。

https://shindanmaker.com/509717

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