コインランドリーの天使
コインランドリーの前を通ったら、中に天使がいるのが見えた。
一度目は酔っ払っていたので見間違いか幻覚だろうと思ったが、二度目は会社帰りだった。街灯の少ない町の中、そこだけ煌々と照らされた室内に天使は一人で座っていた。ガラスに映った自分の姿を眺めているのか、ぼんやりとした眼差しで窓を見つめている。背中の羽はおそらくダンボール製、白というより生成りのワンピースに、羽を背負うためのビニール紐の緑が不似合いだ。なんだただのヤバい人かと納得したものの、印象が薄れることはなかった。いったいどうしてそんな格好をしているのか、いつからいるのか、害はないのか、と疑問は尽きなかったが、私はこの町に越してきたばかりで知り合いもなく、噂話は聞こえてこない。家族や友人や同僚に「こんな人がいてさ」と説明するにはなんの落ちもない、ただの変な人の話で、だから天使の存在は私の胸の内にしまわれることになった。
私の家には引越しを機に買ったばかりの洗濯機があってコインランドリーに用はないから天使のそばに寄ることはない、と思っていた矢先に、布団にコーヒーをぶちまけてしまった。家で仕事中、上司が電話で意味不明な要求をしてきたのに怒りを抑えきれず、そうだリモートワークなら好きなだけ暴れてもいいんだと気づいてベッドに飛び込んだら、脇のテーブルに置いておいたコーヒーを道連れにしてしまったのだ。散々としか言いようがない。布団をぐるぐる巻いてIKEAの袋に突っ込み、コインランドリーに向かった。
見かけたのは二度とも夜だったから昼間はいないのだろう、という私の予想は外れて、天使はそこにいる。
一瞬躊躇ったものの、投げやりな気持ちが勝ってドアを開けた。きんきんに冷えた空気に思わずため息が漏れたが、天使はこちらをちらりとも見ずに自分の爪先を眺めている。くたびれたコンバースのスニーカー。羽はやはり白っぽい段ボールでできているようで、子供の工作のように切り口が荒っぽい。初めて間近に見る天使の頬にはにきびが散っていて、結構若いのかもしれない。男性とも女性とも言い難い顔立ちで、そこが天使っぽいと言えないこともなかった。
ともあれ布団だ。天使の横を通り過ぎて「布団用」と表示のある洗濯機を選び、布団をぎゅうぎゅう詰め込む。コインランドリーを使うのは初めてなので、いちいち説明を読んで書いてある通りにする。これでいいのか、と不安になりながら硬貨を入れると、どうやら動き出したようだったのでほっとした。戻って仕事を続けよう……と思い出すと上司の声が蘇り、胃のあたりがむかむかする。マスクの中が暑い。サンダルの爪先に力を込めて床を踏みつけ、天使の横を通り過ぎてドアを開けたとき、尻ポケットからスマホが落ちた。シリコンのケースに入ったそれは床を弾み、天使の足元まで滑っていく。
あ、と思う間もなく、天使はスマホを拾い上げて「どうぞ」と私に差し出した。どちらかというと女性の声に聞こえた。「ありがとうございます」と受け取るとき、天使の手と私の指が一瞬触れた。
熱い手だった。
もう一度天使の顔を見ると、天使も私を見返していた。あ、しまった、ヤバい人相手に目を合わせたら……と思ったが、天使のほうが先に目を逸らし、そして体を震わせた。背負い紐が肩から落ちそうになる。その視線を追うと、窓の外で子供がこちらを凝視しながら去っていくところだった。天使は居心地悪そうに紐を肩にかけ直した。
「それもうちょい短くしたほうが安定しませんか」
と言ってしまったのはその表情が思ったよりまともな……正気の人間ぽかったからで、好奇の目で見られるのは気の毒だと思ったからかもしれない。いや、私こそ好奇の眼差しで見ているのだけど。天使はぱちぱちと音の鳴りそうな瞬きをして、ビニール紐を摘んでみせる。そう、それ。
「このへんで」と私は自分の胸の下あたりを指す。「結んでみたらどうですか」
天使は言われるがままにビニール紐を手繰る。天使が背負っている羽は、平らで大きめの段ボール板にビニール紐がリュック状に通してあり、その板から羽部分が生えているような構造になっていて、座っているとその板がベンチの座面まで落ちて背中からかぱかぱ浮いてしまっている。天使は言われた通りにビニール紐の余分を結んで、羽の板と背中が密着するように調整した。腕を少し動かしては頷いている。それを見ているうちに気まずくなって、天使が何か言う前に立ち去ることにした。
仕事をしながらもなんとなく、変な人に変なこと言っちゃったせいでなんか次会ったときに話しかけられたりしたらどうしよう……と思うけど、やってしまったからには仕方ない。
適当なところで仕事を切り上げ、日が落ちてやや涼しくなった道を辿ってコインランドリーに行くと、天使はもういなかった。天使がいないと、そこは世界で一番安全な場所に見えた。清潔な洗剤の香り、せわしないが心休まる洗濯機の音。天使がいることでちょっと緊張してたんだなと気がついて、私のアドバイスに素直に従っていた天使の姿を思い出すと、ちょっと申し訳ないような気持ちになった。悪いことをしているでもない、ただ変なだけの人を勝手に警戒して緊張して。
布団を持ってアパートの外階段を上るのは思いの外難しく、なんとか辿り着いた部屋で扇風機をつけるとそんな気持ちも忘れてしまうが、その後ずっと小さな違和感がある。なにか忘れているような、変なことがあったような気分がするのだけど、それがなんなのか分からない、というような。
朝になってふと気づき、布団を広げ直してみると、コーヒーの染みはどこにも見つからなかった。
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