誕生日のInstagram
kamikamimikako 彼氏いない誕生日って中学生以来かも! #ビールなう
白い壁にビールの缶が掲げられている。うすい水色の缶に直線で構成された猫の絵、その猫の首を締めるように缶を掴んだ手には凝ったネイルが施されている。白っぽいフィルターがかけられて腕は死人のよう、不自然な手首の曲げ方はもっとも細く見える角度を模索したのだろう。ふうむ、と私は大仰な動作と表情でその投稿を見つめ、いいねを押さずに家を出た。
快晴である。
傾きかけた太陽を背に、自転車にまたがる。走り出す前にもう一度スマホを取り出して、今度はインスタではなくラインの画面を開く。
さとうつむぎ
どうする?私は魚。
既読がぽぽぽんと三つ続けてついたので、しばらく自転車にまたがったまま待つ。子供がすぐ脇を走り抜けていったので、私はちょっとよろめいて塀に手をついた。黒いジーンズに熱が集まってくるのがわかる。
田中栄子
じゃあ私アクエリアス
sachi
花かなー
田中栄子
花はよくない?
あいあい
いやむしろ花でしょ
あいあい
あいあいはクラッカーにします
私はちょっと顔をしかめて、「あいあいいつ来れるの?」と返信した。スマホを鞄に放り込むと同時に地面を蹴って、漕ぎ出す。あいあいが来れるのは多分夜だろう。
よく巨人になる夢を見る。足がとんでもなく長くて、一蹴りですごい距離を走れる巨人。自転車に乗って、大きく蹴る、大きく蹴る、大きく蹴るだけを考えて漕いでいると、巨人になっているときと同じ感覚がする。町中をそうやって走るのはとっても気持ちがいいけれど、こんなに人通りの多い時間だと今みたいにちょこまかちょこまか漕ぐしかなくて、少しつまらない。スーパーまでの道は、そこに向かうおばさんたちでいっぱいだ。
スーパーの駐輪場で、また自転車にまたがったまま携帯を見ていると、知らないおばさんがにらみつけてきた。いや走りスマホしてねーし。むかついたのでおばさんと目を合わせる。目が合ったままおばさんが近づいてくる、近づいてくる、近づいてくる、そらした! 勝ちだ。勝利の味。満足したので携帯に目を戻す。あいあいはやっぱり夜になるらしい。
kamikamimikako 酔っぱらった! #弱すぎる #でもサイコー #ビールおいしいれす
今度はセルフィだ。目をぎゅっとつぶってちょっと首を傾け、アヒル口、たぶん、アヒル口を目指してゆがんだ口、をとがらせている。ちょっと前に流行った猫耳と猫ひげのフィルター、今年になって初めて見たかもしれない。肌はきれいに加工してあるけどそのせいで髪のつやのなさが際立って、後ろに映り込んだ部屋干しは下着じゃないのか?
店内はクーラーがききすぎている。
私は鮮魚コーナーに直行し、お刺身のパックを真剣に見つめた。三割引じゃないお刺身を買うのなんて初めてだ。指先で架空のそろばんをはじいてグラムあたりの値段が一番安い盛り合わせを選択し、良心が痛んだのでマグロのさくも追加した。
長い長いレジの列に飽きてまたインスタグラムを開くと、二件も更新されていた。悪い兆候だ。三本並んだビール缶の写真は水平が取れていない雑な構図、夕焼けの写真は空の美しさよりラブホとスーパーの看板が目立って意図が分からず、もう七時近いなあ、という感情しか起こさない。
自転車を飛ばす。
向かう方向にはスーパーもなく、駅もなく、漕げば漕ぐほど人が減っていく。
大きく蹴る、大きく蹴る、大きく蹴る、それだけを考えていると、私の足は巨人になり、視界は高く、空気は澄んで、なんて気持ちがいいんだろう。西日がちりちりと右頬を焼くけれど、日焼け止めを塗っているから大丈夫だ。大きく蹴る、大きく蹴る、一蹴りで飛ばせる距離だけの景色を、次々見送っていく。
漕ぐのをやめて坂を下りきり、スピードを緩めきれないままぎゅっと止まる。あぶないあぶない。駐車場にはすでに栄子がいて、私を見つけて「おっす」と言う。
「うーす」
「あ、ほんとに魚だ」
「食えるかねえ」
「わかんない」
栄子の手に提げられたローソンの袋には、アクエリアスだけじゃなくてコーラとお茶とポテチも入っている。気が利くなあ。栄子は重たそうでもなく歩き出し、アパートの非常階段を上っていった。私も自転車に鍵をかけて、その後を追う。
三階につくと、栄子はすでにインターフォンを押していた。どうせ一回では出ないので、私はのんびり歩いていく。二回目を押してしばらく待ったら次は電話する、それからもう一回インターフォンを押したころには出てくるだろう。私たちはあの子のことをよく知っているのだ。
予想通り、栄子が二回目を押してから私が電話をかけ、もう一回押したところで鍵が開いた。鍵が開いたあともしばらく沈黙があり、それから、死人のような顔色の未可子が顔を出す。「なに……」という顔は、さっきのアヒル口もどきとは似ても似つかない。
栄子はコンビニの袋からヘパリーゼとアクエリアスを出して未可子の胸元に押しつけた。私はドアを大きく開けて、よどんだ部屋に風を入れてやる。
私たちは未可子のことをよく知っている。
お酒に弱くてビール二本も飲めばふらふらなことも、手巻き寿司に目がないことも、下着泥棒を恐れていつも部屋干しなことも、高校生のときからつきあっていた恋人に先月振られたことも、自分を甘やかすのが下手なことも。
未可子の表情がふにゃふにゃと音を立てるようにほどけて、「栄子ぉ、佐藤ぉ」と声が潤む。
非常階段のほうから、沙智が「おっ、やってるねー」と言いながら走ってきた。黄色と白のブーケを手渡されて、未可子の手はいっぱいになる。
「誕生日おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとう」
未可子は顔をゆがませて泣き出し、私たちはひとつの生き物のようにくっつきあいながら部屋に入る。もうしばらくあと、あいあいが来てクラッカーを鳴らしたら、もっとましな写真がインスタに上がることになるだろう。
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