IKEAで眠る

 それは不思議なアルバイトだった。眠るのだ。

 いつでもどこでも寝られるのだけが取り柄の僕に仕事なんて見つかるはずないよと准教授言ったらすぐに学生課から募集要項をもらってきたのでおどろいた、冗談を言うような人ではないので。とにかくどこでも寝られる人がほしいらしいんですよと准教授は言った(僕と違って敬語の使える人なのだ)。いったいどういう仕事ですかたとえばカフェイン飲料のテスターとか? いやIKEAです。IKEA? 行ったことありますか? ないなあ。僕もないです。家具屋でしょたしか北欧の。ええそれでベッドで寝るのが仕事ですって。寝るのが? そう寝るのが。

 准教授が冗談を言うような人ではないにしても募集主が冗談を言うような人なのではないか、という僕の憶測ははずれた。ばかみたいに広い駐車場を突っ切って面接の時間に遅れそうになった僕を待ち受けていたのはごく純朴そうな男性で、こんな言い方はなんだけれども北欧の家具屋にぴったり、北欧の家具屋以外に就職先はなかろうという雰囲気のひとだった。駐車場に対して狭すぎる事務所で今にも崩れそうな書類の山に怯えながら、北欧の家具屋にしか就職できない面接官は、それで、あのう、どこでも寝られるとか、とゆっくり聞いた。ハイと僕が元気よく答えると(准教授が元気が大事とアドバイスをくれたので)面接官は今ここで寝られますかと尋ねてきた。僕はもう一度元気よくハイと答えて目を閉じた。

 ……。

 目を覚ますと二時間経っていた。やけに手触りのいい毛布をかけられていた。ふらっと立ち上がるとパイプ椅子の座面にくっきりと僕の尻のあとがついている。面接官が立ち上がった僕に気がついてノートパソコンから顔を上げた。採用です。来週から来られますか? 僕はとりあえず、この毛布もIKEAのなの、と聞いた。

 要するに僕はディスプレイのひとつだった。面接官は僕を寝具売り場に案内した。そこはベッドの海だった。病院にあるみたいなそっけないパイプ製のものから、小さな子供がほしいと泣き喚くであろうロマンチックなピンク色のもの、一見ソファにしか見えないが感動的な展開を見せるものまで。僕は支給された制服(白いパイピングの紺色のパジャマ。これも気に入ってあとで自分で買った)を着て思わずわーっと叫んだ。僕はまず最もふかふかした白いふとんに飛び込み、高い天井を見上げた。まったく笑ってしまうくらい高い天井なのだ。面接官からの指示は、なるべく日替わりで、全部のベッドで寝てください、ということと、4時間ごとに起きて30分ずつ休憩を取ってください、ということだった。僕はハイと元気よく返事をして、初日は高いヘッドボードの紺色のベッドで眠った。

 どこでも寝られる人を、という募集要項の意味はすぐ分かって、まあ僕を起こそうとする人の多いことと言ったらなかった。子供がこわごわほおをつねりにきたり、カップルの男の方が耳元で大きな声を出してやめなよおと彼女に止められたりしているのはまあ無視してしまえばいいだけなのだが、ときどきどうしても僕の口から僕が寝ている理由を知りたがる人がいて、そういう人は本当に何度でも何度でもしつこく僕を起こした。僕は制服のパジャマの中から社員証を引っ張り出し、アルバイトなんですここで寝るのが仕事なんですディスプレイのひとつと思ってくださいと、丸覚えした敬語でまくし立ててぱたりと倒れてもう一度眠りについた。

 四時間に一度の休憩時間はIKEAじゅうを散歩した。これはほんとうだけどIKEAほど散歩に向いたところはない、ありとあらゆる家具と雑貨、小さな部屋の形にしつらえたディスプレイ。僕はダミーの本の中に本物がまぎれていないか調べ、ワイングラスを一個割って叱られ、無意味に広がる白い壁に額をつけ、大物の家具が集められたセルフサービスエリア担当のおじさんと仲良くなり、おもちゃのエリアで子供と張り合い、巨大なペンギンの形の抱き枕を抱えて意気揚々と職場へ戻った。なにしろ天井が高く空間が広い。僕はふとんに入って天井を見上げるたび、なんて気持ちのよいところなんだろうと思った。そしてペンギンを抱えてすぐ眠りに落ちた。

 たまに不思議なことがあった。IKEAは広い、本当に広くて外の様子なんて全然わからないのに、あるベッドに寝転がったとき雨の音が聞こえたのだ。サー……と長くどこまでも続く静かなノイズ、あっこれ何の音だっけ、知ってる、知ってる、と思う間に僕は眠りに落ち、起きた時にはもう子供のはしゃぎ声しか聞こえなかった。

 僕はそのベッドが気に入って、五回に一度はそこで寝るようになった。雨の音はすることもあれば、しないこともあった。音がするときは当たり、そうでなければはずれ。当たりの日は機嫌がよいのでホットドッグを食べてもいいいことにして、はずれの日は自分を慰めるためにセブンティーンアイスを食べた。雨の音によって眠りの質が変わったりすることはまあ全然なくて、ただ、これは本当にみんな一回体験してほしいんだけど、天井の高い、広い空間に寝転がると、自分が世界の真ん中で、全部を手に入れたみたいな気分になる、でも少しその空間が把握しきれないという不安があって、でも雨の音さえすれば、空間は僕を守る幕と化し、もう何にも心配はない気持ちになれるのだ。

 僕がセブンティーンアイスを全制覇したころ、バイトを首になった。北欧の家具屋以外就職先はなかろうと思っていたあの人もやめることにしたという。再就職先はあるのかと聞いたら、「富士山の山小屋に置いてもらうことになりました」と言い出したので僕はおおいに笑った。

 それから二十年が経つ。僕は五年前に結婚し、三年前に娘もでき、ばりばりに働く妻に生活費の一切を任せて子供の世話をしている。子供は不思議だ、ぜんぜん変だ。娘を笑わせるのが今一番楽しい。それで、妻がベッドを買い替えたいと言い出したとき、僕は強硬にIKEAを推薦した。娘にあの雨の音を聞かせてあげたくなったのだ。でももう二十年もたっていて、当然同じものは見つからない。富士山の山小屋に本当に彼がいるのかも確かめないまま二十年が経ってしまったし、准教授は准教授のまま去年肺がんで死んだ。僕はいまだに敬語が使えない。それでも僕はあれに似たものを探し出し、妻に嫌がられながら部屋のど真ん中に置いて、低い天井を眺めている。そして娘を抱いて眠る。僕は毎晩毎晩娘に語りかける。君は世界の真ん中にいて、全部が君の手の中にある。そして同時に、君はすべてから守られているんだよ、と。


(IKEAで寝る。雨の音がする。

shindanmaker.com/509717)

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