空き部屋

気体定数

空き部屋

「子供の頃は良かった」こう思わない人なんているのかな? ある年齢を境に子ども扱いを受けなくなった頃、僕はしばらく妙に居心地が悪かったのを覚えている。「もう一度人生をやり直せたら」なんて。でも幼くしてこんなことを考える自分は、周りに比べてまだ未熟な人間なんだろうと後ろめたく思ってもいた。

 さらにもう少しだけ大人になったとき、僕はとつぜん自分が幸せな子供だったことに気がついた。同時に冒頭のように考えていた自分の無知を知り、またひとつ大人の世間知を獲得したような気がした。それからの僕にも色々な出来事があったけど、僕はもはや無力な子供ではなかったし、以後の人生はいわばずっとこんな調子だ。大人らしい常識を得て、周りの大人がしていたように振る舞う。そして現在の僕が生まれた。

 再び冒頭にもどろう。子どもの頃は良かった。それはなぜ?



 子どもの頃に夢見た幻想を、大人になっても変わらず保ち続けている人はどのくらいいるのだろう。太陽の下をきらめく真夏の海、真っ白く研ぎ澄まされた朝の雪景色、息の詰まるような巨大なビル群と、時が止まったような懐かしい田舎の町。朝焼けと夕暮れ、頭上に輝く夜空の星々と、静かな夜。

 どれも華やかなようでいて、見る人によってはどこを切り取っても陳腐でしかないそんな光景は、本当に子供だった僕の目の前に現れたものと同じ景色なんだろうか。いずれにせよ、遠い彼方に消えていったかつての日々の実体を確かめる術はもはや誰にもないのだ。


 僕が育った家はとある閑静な住宅街に佇む一軒家だった。あの頃にわざわざ一軒家を構えたがる手合いといえば、今では自慢にもならない少しばかりの財力を蓄えた中流以上の家庭に限られていたのだけど、ここで僕の平凡性をことさらに強調するのはやめておこう。この告白にただひとつ平凡でない要素があるとすれば、それは僕の母親ということになる。家庭での彼女はとにかく身だしなみにべらぼうにうるさいことで鳴らしていて、たとえば、学校から帰る途中に寄り道をした僕の服装が少しでも崩れていると、彼女はすぐに勘付いて、とんでもなく嫌そうな声で叱責したものだ。そんなわけで当時の僕の帰宅の様式は、家に帰るなり大急ぎで自分の部屋に駆け込み、学校で着ていた服を手際よくクローゼットに仕舞い込んだあと、再び外に飛び出す算段を立てて遊びに向かうといったものだった。おそらく当時の自分の中で唯一変わった習慣だったに違いない――こんな下らないことを他人に話すのもおそらく、今日が最初で最後なのだろう。そんな必要性は滅多に生じるものじゃない。

 僕の個室は二階の階段を昇ってすぐ右手の突き当りにあったのだが、その横に子ども部屋なんてものもあって、数々の知育道具や揺り籠、年代物の木馬といった品々が、やがて来たるべき主を静かに待っていた。あの部屋のことを思い出すといまでも懐かしい気持ちになる。幼い頃の満ち足りた日々の記憶を、あの頃のぼくはどのくらい残していただろう。しかし当時のぼくにとっても子ども部屋の住人たちは少しばかり退屈で、その日が来るまでは半年間に幾度入ることもしなかった。

 あの日、学校から帰った僕は遊びに出かける気も起こさずに一人ぼっちで部屋にいた。遊び仲間と予定が合わなかったのかな? 理由はよく思い出せない。ただ、ぼんやりと部屋の寝台に腰掛けて、窓から初夏に芽吹く山々を眺めていたのを覚えている。そう、その時たしかに僕はそうしていたのだ。山はいつだってくっきりと見えた。話は変わるけど、山っていうのはなんて綺麗なんだろう――どの山だってそうだ。一年で季節の模様をひと回しする、絵画の生ける背景のような素晴らしさなんだ。例外なんてありはしないのに。だけどその日は何かが違った。山が綺麗なのはいまでも否定しようがない。でも確かに綺麗だけど――でも昔の方がもっと綺麗だった! 僕は一体どうしたんだろう? 空より綺麗な青色なんて無いし、山より綺麗なグリーンもありはしない。でも、あの頃の方が、昔の方がもっと綺麗だったんだ。これが大人になるってことなんだろうか。永遠の繰り返しとすら思われたのに、昔みたいに美しい景色が見たいのに、今はどうやってもあの時のように心が動かない! 自分は変わってしまったのだ。そんなふうに思うようになったのは、ちょうどその頃のことだった。そのことが何だか、あの日は無性に悲しくて心から離れなかった。


 両親におやすみを言った後も、暗鬱とした思念は延々と渦巻いて去ろうとしなかった。長らく暗闇の中で逡巡していたのだろう。悩みは増えやしなかったが、軽くなることもなかった。その内に寝付くのを諦めた僕は、母親が起き出さないよう足音を忍ばせつつ部屋を出て、隣にあった無人の部屋にひっそりと入りこんだのだった。そう、さっき話した子ども部屋だよ。暗闇の中に古びた木馬が佇んでいた。木馬の表情は明るい内に見えるものとは打って変わって無機質で、それを見た僕は当時画集で見かけて記憶していたフュースリという人の絵を思い出したのだった(両親は教育熱心だったのだ)。僕は遠い昔に親しんだのであろう、当時の僕にとっても少々小柄過ぎる相棒を不気味に感じたのだが、同時にぜひとも木馬に乗らなければいけないと思いもした。その時の僕の気持ちを上手く説明することはできない。しかし迷いはほとんど無かった。わずかに勇気を奮い起こして跨り、木馬は動き始めた。

 最初は漕ぐのに細心の注意を払っていたものの――軋んで母親が起き出したりしたら困るんだよ。でもどうやらその心配は無いようだった。僕は少し大胆になって、勢いをつけて木馬を漕ぎ出した。

 先ほどまでの悩みが脳裏から消えたわけではなかったが、木馬は僕を無心にさせてくれた。でも、木馬の音で両親が起き出さないかを相変わらず心のどこかで心配していて、同時に自分がこれほどまでに大胆なのを訝しんでもいた。ただひとつ言えるのは、僕は楽しんでいた、ということだ。こんなに楽しいなんて。遊園地の回転木馬だってこんなに楽しいわけないぜ、と。

 話が逸れるけど僕は回転木馬だって好きだったのだ。ちょうどその時から遡って半年ほど前、学校の行事で遊園地に行ったときのことを思い浮かべていたと思う。両親以外の誰かと遊園地を訪れたのは初めてのことで、あれほどの高揚感もそれまでの人生に無かったものだった。そう、その時の記憶を僕は木馬の鞍上でペースを上げつつ思い起こしていた。そうだ、今はこんなにも楽しい。そしてこれは正しいことなんだ。楽しいことこそが人生であって、いま僕が跨っているこいつも、古ぼけて見捨てられた玩具などではなく、軽快な音楽で愉快に踊る、きらめく回転木馬なのだ。目の前には巨大なパレードの輝きと、騒々しく華やかな音楽が聴こえる気がした。そして、まさしく夢中になった少年の視界に、突如としてそれは降ってきた。

 きらびやかなパレードを抜けて四方にどこまでも広がる大海原、都会のうだるような摩天楼から芳醇な生命あふれる山々。夏の日の白い日差しのなかで眺められた海。秋の淡い琥珀色の太陽できらめきわたる真っ青な空。そして、その時少年は全てを理解したのだ。そう、理解した。分かる、僕には何だって分かるし、分からないことなどありはしない。澄みわたる空気も、透き通る青空も、その上に広がる夜空も……大気圏を突き抜けて、巨大な宇宙のきらめきが眼前にはっきり映ったかのようだった。ありとあらゆるものがことごとく美しくあるままだったのだ。

 よかった。僕は木馬を降りて心の中で、でも今にも叫び出して小躍りを始めそうな気分でそう独りごちた。本当に良かった、すべてはこの中に、元通りのままあったのだ。

 乱れて少しばかり皺のいった寝間着と荒れた呼吸のまま入り口に向かいつつ、少年はこれ以上なく晴れやかな気持ちだった。


 何も変わりはしなかった。そして何も変わりはしないのだ。

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