王の一側面
城の中にある、私室に戻ったのはクーランだ。金などで装飾された絢爛な家具や調度品が置かれ、彼の好む絵画などが壁に飾られている。
クーランはその絵を向いて、赤い布が敷かれた石の椅子に腰掛けた。
しばし絵画をぼうっと見つめていたクーランは一つの絵で視線を止める。そこには美しい女性が描かれており、そのモデルは彼の妻である。
彼の正妃ミュテーシィアはその美しさでも有名で、彼女を巡って城が一つなくなったこともあった。それは政治的理由もあり今はクーランの側にいる。クーランも彼女の美貌に惚れ込んでおり、日夜続く内政とそのに付随する政争の疲労から堪える助けとなっていた。
今彼女は近くにいないので、彼はその絵を見ることで心を安らげているのだ。
「ああ、美しいミュテーシィア……」
誰もいない部屋に彼は思いを発す。
座ったまま絵に手を伸ばし、それから立ち上がってそのすぐ前まで寄っていく。恍惚とした表情で眺めていると、後ろからドアを叩く音がした。
夢心地から我に戻され、不愉快そうに顔を歪めたクーランだが、すぐに用事があったことを思い出す。
「私でございます、クーラン様」
「ベニタスか、入れ」
できるだけ音を立てず、ゆっくりと扉を引いて入ってくるのはベニタス。先の会議の後、一度解散したがこうして密にクーランの私室へと訪れていた。
クーランに近づくと一メートル手前で止まり、床に一度ひざまずき立ち上がった。そしてクーランは座ったままで二人は話し始めた。
「あのあと、ディターニの様子はどうであった」
「鼻息荒くしておりましたよ、陛下では甘すぎると」
「甘い、か」
「お気になされまい陛下。あれは戦のことばかり考える男であれば、政など知らぬのです」
「そう言ってやるな、あれも国を想ってのことであろう。ならば余も無碍には致すまい」
うむと頷きながら話すクーラン。
「その懐の広さこそ、賢王と呼ばれる所以でしょう」
「そろそろ世辞で腹が膨れそうだ、本題に移ろうではないか」
「はっ」
温和な会話が終わり、二人の目つきは真剣なものになる。
「彼らの知見は如何に」
「三日に渡る儀式の後、術士の一人がなにかを“視た”ようです」
彼ら、とはロレリア王朝が要する『魔術師』のことである。
それは市井に伝わる“まじない”などではない、れっきとした技術である。手法や手段などは一切秘匿され、王宮の中でも存在すら知らぬものが殆どで、今話している二人が数少ない人間だ。
魔術師はシュレーナに隠された地下施設で日々研究と研鑽に努めている。
魔術は各国に伝わり、その幾つかは本物の魔術師である。だがそれぞれに技法は異なり、門外不出の技となっていた。
ジン帝国にも昔から伝わるものではあるが、ロレリア王朝に移行したさいにその半分ほどを消失しており、原因はクーラン以外の王が忌み嫌ったからだ。
魔術士はそれから闇に潜っていたが、クーランが見出し今は国のために尽くしている。
今回ベニタスが言う内容は、件のローを殺した存在についてだ。魔術師の一人が特殊な薬物と一定の手順を踏むことで深いトランス状態となる。その状態では意識は体を離れ、高次元へと至ると言われている。
そうすると意識を取り戻したさいに、通常では知り得ぬ知識などを持ち帰ることがあるが、場合によってはそのまま魂の抜けた廃人になることもある。
「それはなんと?」
「非常に錯乱していたようで、なんとか聞き出しましたが支離滅裂なうえ、話した後に死んだようです」
「まさか……、そういったことは過去にもあるのか」
「報告に来た術士も取り乱した様子で、異例だということです」
クーランはごくりと生唾を飲み込んだ。ベニタスもその緊張を受けて口を真一門に結ぶ、そして少しずつ言葉を重ねる。
「それによると、『多くが闇に溶け、幾多の血が流れ固まる。やがて黒煙は広がり城を焼き尽くすであろう』と」
「ううむ……、ただならぬ言葉であるな。そしてそれがよもや……」
「はい、ただの個人とは考えられませぬ」
そう、これはローを殺めた人物を探るためにクーランが命じた結果だ。つまり他の政務官の予想と合わせても、それは群れではなく一個の生命ということになる。
「此度ばかりは魔術を疑うしかあるまい、荒唐無稽にすぎる」
「そのとおりであります。ですが魔術師たちは大いに恐れている様子で、厳重な警戒をと言っております」
「……そうだな。心に留めておこう」
「以上です、私は下がります。陛下もよく休まれるよう――」
ベニタスが去っていった。部屋に残されたクーランは天を仰ぐ。
「おお、神よ。我が国にどうか安寧を、せめて私が――」
クーランは王の器ではない。宮殿のある派閥はそう口にする。だがそれを最も痛感しているのは、クーラン本人である。先代国王の遺物、力で奪った数々の領土からの税と恭順。それだけが彼の統治における唯一の助けであった。
だが平和の中でジン帝国の威光が振るわれる機会は減り、徐々に求心力は失われつつある。やがて完全に失われたとき、それが彼の迎える結末である。
クーランは毎夜、それを想像しては子供のように震え、涙を流し嘆いては嗚咽していた。
「ああ、ミュテーシィア……。余の愛しの、ああ……」
今は居ぬ妻の名を、ロレリア王朝の賢王は広い部屋で一人つぶやくだけだった。
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