2-5.すべての始まり

 魔王の魔力は恐ろしく強大だ。配下の諸将が束になっても半分にも及ばぬほどに。

 そんな魔王が放つ「ファイアーボール」。いかに勇者召喚の対象者といえども、巨大な火の玉によって一瞬にしてその身体は蒸発した……


 はずだった。


 しかし実際は違った。少女は蒸発しなかった。いや、蒸発しないどころか何の変化もない。だがその点は別に驚くべきことではない。なぜならそもそも火の玉が現れなかったから。勇者レオンとその仲間たちを大地にかえしたあの魔法は発動しなかった。魔王の右手のひらからはロウソクにも劣る炎がわずかに揺らめいただけ。その炎も2,3度揺らめいたかと思うと、大気の中に溶けるように消えてしまった。


「うわあ、おもしろい手品ですね」


 少女にぱあっと笑顔が広がった。魔王に向けて両の手をパチパチとたたいた。その様子は珍しい手品を見て喜ぶひとりの純粋無垢むくな少女そのもの。


 だが魔王の内心は少女の様子とは正反対であった。


(なぜだ!)


 魔王の思考はこのひと言だけで停止してしまった。ほかのことは考えられなかった。前代未聞の事態にすっかり混乱してしまっていた。


(なぜだ! なぜが魔法が発動せん! 対魔法結界か? いや違う。そのようなものは微塵みじんも感じられぬ。別の何かだ。何かがわれの魔法の発動を邪魔しておる!)


 魔王は目を見開いて目の前の少女を見つめた。


(まさか彼女の能力なのか? 魔法を封じる力を持っておるのか? いや、そのようにも見えぬ。第一、彼女は魔法陣すら知らなかったではないか。魔法陣も知らぬ者が魔法をあやつれようか。今も何らかの能力を発動しているようにも感じられぬ。違う、彼女ではない。ではいったい何が?)


 魔王の全身に寒気が走った。外からは見えぬがその身に冷や汗をかいていた。前魔王から魔王の地位を奪った戦いでも、勇者レオンとの戦いでも、またそれ以外のありとあらゆる戦いにおいても、こんな事態が起こったことはなかった。ただの一度としてなかった。己の魔法が発動しないなどあり得ない。


 まさに想定外の緊急事態。魔王は必死になって頭をフル回転させた。不発の原因をなんとしても突き止めねばならない。


(起動は完璧だった。が手の中で魔法はたしかに完成していた。だが外へは出てはいかなかった。出すことができなかった。まるで出口のないピストンを押しているかのような。行き止まりの道を無理やり進もうとするかのような。そんな感覚であったぞ。)


 魔王の頭脳が全力で答えを探し求めた。頭脳だけではない。全身の感覚が研ぎ澄まされた。ほんのわずかなヒントをも察知すべくアンテナを張り巡らした。そしてそれらの感覚のひとつがある「異変」を感知した。


(待てよ? 何か変だ。われまわりに魔力が感じられぬ。世界に魔力が満ちておらぬ。われのうちにはこれほどまでにも魔力があふれておるというのに。)


 その瞬間、魔王の中にひと筋の衝撃が走った。幼い頃に読んだある物語が思い起こされた。人族の物語が。いくつもの世界を巡ったある男の物語が。その世界のひとつが……。


(ま、まさか、この世界には魔力が存在せぬのか!)


 そうだった。それですべてが説明できるように思われた。ファイヤーボールが発動しなかった理由も。少女が魔法陣を知らなかった理由も。


 魔王自身は魔力のある世界の住人だから体内に魔力を宿している。だが魔法というもの、ただ己の魔力だけで完結するものではない。己の魔力はいわば種火にしか過ぎない。燃え上がるには外の世界に満ちている魔力が必要だ。己の魔力が外部の魔力を巻き込むことで魔法としての形を成し、種火より桁違いにブーストされた力をさらに外部の魔力が媒体となって波動のように伝える。それが魔法。特に魔力を直接放つ攻撃魔法の実態だ。


 しかしいまは違う。世界に魔力が存在しない。外部の魔力によるブーストは効かない。いかに魔王の魔力が強大であっても種火は炎にはなれない。加えてこの世界には魔力を伝える媒体がない。どれだけ大きな音であっても空気がなければ伝わらぬのと同じこと。


 ではなぜ人族の魔法陣はこの世界に現れることができたのか。さすがに魔王でもその理由は分からなかった。もしかすると勇者召喚の秘術の中に「魔力の存在しない世界で魔法陣を展開させる方法」なるものが伝わっていたのかもしれない。


 しかし魔王にとって、今やそんなことはどうでもよかった。目の前に広がる少女の笑顔。その笑顔の前には他のあらゆるすべてはどうでもいいことになってしまった。


 そんな魔王を少女の言葉が現実に引き戻す。


「ええっと、助けてくれてありがとう。あのう、お名前は?」


(えっ?)


 魔王は完全に不意を突かれた。予期せぬ問いに咄嗟とっさに思考を切り替えることができない。しかし自分は少女から問われている。早く答えなければ……、と焦る思いが彼にとんでもないことを口走らせた。


「わわわ、私はまおぅ……」


 なんということか! よりによって自分が魔王であることを自らばらしてしまうとは!


(しまった! これでわれが魔王だということが彼女に知られてしまった。嫌われる。嫌われてしまう。いったいどうすれば……。どうすればよいのだ!)


 魔王は恐れおののいた。これまでただひたすら少女に嫌われたくないという一心であったのに。いま己のうかつな言葉によって己の努力のすべてが灰燼かいじんすという思いが、彼の心をこれまでにない恐怖で覆い尽くしていた。


 しかし対する少女の反応は彼の恐れとは正反対であった。


「マオさんですね? 私は勇子って言います」

「ユウコ……」


 魔王はなか呆然ぼうぜんとした精神状態の中でその名を口にした。どうやら助かったらしいという思いが彼の頭を熱くさせていた。まるでコンピューターが熱で動きを停止させるように、その熱が彼の思考を奪ってしまっていた。


 激しい雨がゆっくりと熱を冷ましていく。


 やがて魔王と少女ユウコは互いに向き合った。どちらからともなく自然に笑顔がこぼれた。


「マオさん、びしょれじゃないですか」

「ユウコ、そう言うあなただって」

「あはは、そうですね。じゃあうちへ来ません?」

「えっ?」

「私の家、近くなんです。そこなら服を乾かせますし」


 またもや予期せぬ展開に。魔王の脳裏に服を脱ぐユウコの姿が一瞬浮かんだ。彼はあわててその妄想を打ち消した。自分は何かイケナイことをしようとしているのではないか。この流れは押しとどめなくてはならないのでは……。


「で、でも出かける途中だったのでは?」

「帰るところですよ、学校から。だからちょうどいいんです」


 抵抗する間もなかった。ユウコは魔王の手を取って駆け出そうとした。


 その時、魔王の目に道に転がる赤いものが映った。さっきまで彼女が差していた傘だ。


「傘を忘れてますよ」

「あっ、ごめんなさい」


 ユウコの大きな目がよりいっそう大きく見開かれた。かと思うや一瞬で顔いっぱいに赤が広がった。思わず伏し目がちに顔を横に向ける様子。小走りに傘を取りに行く様子。戻ってきて恥ずかしげに魔王に傘を差し伸べる様子。


 そのすべてが魔王の魂を打ち抜いた。


 それまでの魔王は死んだ。いま新たな魔王がここに誕生した。

 魔王にとってユウコはもはや抹殺すべき対象ではなかった。愛しく、離れがたく、己のすべてでもって保護すべき対象になっていた。


 そしてこれがすべての始まりだった。


 魔王の考えた通り、ユウコはその後何度も魔法陣により召喚されそうになった。

 そのたびに魔王は彼女を助けた。


 いつ、いかなる時と場所であっても、どこからか現れて危機にひんした彼女を救った。


 ユウコにしてみれば、それはまさに白馬の王子様。

 童話や映画にしかいないはずの夢の存在かと思ってしまっていくのも無理のないことだっただろう。


 そしてそれらを重ねるうちに次第にふたりは離れられぬ存在となったのだ。

 そう、「あの日」が来るまでは……。

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