中継、君に本当のボクを知って欲しい

 今から始める大和との会話を比喩表現で例えるなら『ボルダリング』の様な感覚なのだろう。

 命綱を使わないフリークライミング。

 登る際には一つ一つ慎重に取っ掛かりを掴む。登る前には事前に道筋ルートを確認。

 順を追って足場を固め、危険な場所は避けて、本命の終点ゴールを見据えながら、ただ上だけを目指す。

 思い出を語り、絆を確かめて、彼の心に触れ、休まず一気に高みまで登り詰める。

 一つでも何かを間違えれば奈落の底まで真っ逆さま。命綱も成功する保証もない無謀な挑戦チャレンジ

 失敗は許されない。落ちればもう後は無いから。

 ハイリスクハイリターンの危険な賭け。だからこそ怖い。

 それでもマインスイーパーとは言わないよ。

 だってボクは今までの経験で大和の地雷を熟知しているから。

 地雷が見えるマインスイーパーはマインスイーパーとは呼ばない。

 それに今回は地雷トラウマに触れるつもりは毛微塵もないのだから。

 ボクが一番大和の心を知っている。

 自惚れでもおごりでもなくこれだけは確かな自信がある。

 この事だけは誰にも譲る気はないから。

 例え相手が家族でも親友でも。

 ひめちゃんでさえも。

 大和の一番の理解者はボクだ。

 そう自分に言い聞かせたら自信が持てた。

 自信があるから無謀な賭けにも挑戦出来る。舞台も整った。

 あとはやるだけだ。

 だけど。

 ただ一つ、懸念材料があるとすれば。

 それは外部からの干渉による第三者の介入だろう。

 どんなに渇望かつぼうしても二人きりの時間はそう長くは続かないのだから。


「……どんな存在、か」

 質問を受け、大和はボクから目を逸らし、視線をフッと床の方へ落とした。

 地面とにらめっこ。人にしかられた時や何か言い辛い事がある時にする大和の癖。

 その癖の根源ルーツをボクは知っている。

 根源というより根元であり原因の方が正しい表現なのかもしれないけど。

 主な原因は父方の祖父の叱咤しったと何かがある度に比較対象にされていた『あの人』の存在だろう。

『大和よ。どうして美命みことの様に出来ないんだ!? それでもお前は柏崎家の嫡男ちゃくなんか!?』

 小さい頃はそんな怒声が隣の家から頻繁に聞こえてきた。下手をしたら鳥のさえずりや虫の鳴き声よりも聞く頻度が高かったかもしれない。

 今思えば、あの叱咤が教育の一環だったとしても、一種の『しつけ』と形容するにしても、あれはいささか度が過ぎた行為だったと思う。

 というか、あれはもはや教育という名目の児童虐待だ。

 大和には悪いけど。

 至極個人的な意見だけど、大和の御両親が離婚したのは英断だったと思う。

 引越しで離れ離れになったのは嫌だったけど。

 あの神童バケモノと一つ屋根の下で比較され続ける生活なんて、考えただけでも背筋に悪寒が走る。

 鳥籠みたいなあの家にいるくらいなら今の家庭環境の方が何倍もマシだ。少なくともボクはそう思っている。

「…………」

 押し黙る大和。

 表情から察して返答を言いよどんでいるのだろう。

「…………」

 ごめんね。

 また君に嫌な思いをされてしまったね。

 ごめんね大和。

 最初に答え辛いことを『あえて』訊いたのは、いわば問題提起もんだいていきなんだ。

 大丈夫だよ。

 今回は話しやすい様にボクがしっかり補助アシストするから。

「……大丈夫だよ。ボクは君が言いたい事を言ってくれるまで、ちゃんと待つから」

 今回は急かしたり、叱責して無理矢理訊いたりはしないから。

 今この瞬間だけは偽りのない素直な気持ちで君に接するから。

 だから──。

「君の本音きもちをボクに教えて」

 そんなボクの言葉を皮切りにして──ボクと大和の二人きりの対話が始まる。

「……お前は、真面目な奴なんだよ」

 ボクは大和の一言一句に耳を傾ける。

「頭も良い上に勤勉で努力家だし、学校の成績は常にトップクラスで……俺と違って遅刻も早退も無い。性格も口うるさい所を除けば誠実で正義感もあって、文句の付けどころがない」

 だから、と大和は言う。

「やっぱり、お前は間違いなく優等生なんだよ。良い奴か悪い奴かで言えば……良い奴なんだ」

「っ…………」

 嬉しいよ、大和。

 君にそう言って貰えるの、凄く嬉しい。

 少しでも気を抜くと涙がこぼれ落ちそうだよ。

 大和は。

 昔から人の“良いところ”を見付けるのが上手だった。

 そして同時に人を良くめていた。

 人としての価値を彼なりに認めてくれていた。ボクに対しても『みんな』に対しても。

 昔の大和は誰よりも優しかった。

 そんな大和にボクは──。

「そんなお前に叱られるとな、なんか自分が悪人になった気分になるんだよ」

 今までずっと──。

「だからな、お前に叱られるのが──説教されるのが、俺は凄く嫌だった」

 言葉では言い表せないほど、酷い仕打ちをしてきた。

 その罪は計り知れないほど重い。

 その罪は謝ったくらいで許されるのだろうか。

「…………っ」

 胸が苦しい。お腹の底が凄く冷たい。

 罪悪感がボクの身体を責め立てる。吹雪が渦巻く雪原の中で氷塊ひょうかいを抱きかかえているかの様な。そんな不安な気持ち。

 本人を目の前にして告げられる彼の剥き出しの感情。

 恨み言。怨嗟えんさの告白。

「…………」

 身体が震えているのが自分でも分かる。恐怖で身も心も凍えそうだ。

 初夏の教室に漂う空気は肌にまとわりつくほど生温いはずなのに。

「ボク、はね……」

 いざ言葉を発しようとすると唇が震えて上手く喋れない。呼吸をすると乾いた風のせいで喉がカラカラになる。

「君が思っているほど、真っ当な人間じゃないんだよ……」

 怒られるのが怖い。許してもらえないのが怖い。見限られるのが怖い。興味を持たれなくなるのが怖い。

 大和との『繋がり』を絶たれるのが怖い。

 本当のことを話したら間違いなく軽蔑けいべつされるから。

 悪役でも良いから大和のそばに居たかった。

 でも。

 このまま嘘を重ねて自分を偽り続けるのはもう嫌だ。

「……君がボクの事、良い奴だって称してくれるのは素直に嬉しいよ」

 嬉しいけど、君の見ている“ボク”は仮面を付けた道化なんだ。

 大和の見ている『それ』は優等生を演じる私であり、善人を気取るボクであり、偽りの正義を振りかざす帯織伊織だから。

「でもね、それは君の過大評価だよ」

 だって、とボクは。

 今まで言えなかった言葉を。

 認めたくなかった事実を。

 自分の口から大和に伝える。

「ボクは君が犯人じゃないことを知っていて──今までずっと、現実から目を背けて、君のことを──見捨てていたんだ」

 ありのままの醜い自分を彼に知ってもらうために。

「あの時のボクは我が身可愛さに自己保身に走っていたんだ」

 自分の意思で自分の罪を告白する。

「そんな卑怯者の偽善者が良い奴なわけがない……君だってそう思うだろ?」

「……………」

 耳鳴りがするほどの重い静寂。あまりの静けさに時間が止まった気さえする。

 大和は暫くの間何も言わなかった。

「…………」

 ボクは愚直に大和の返事を待つ。時を刻む針の音がやけに鮮明に聞こえた。

「……一つ、いや二つだけ訊いてもいいか?」

 大和は。

「……どうして、俺が犯人じゃないって知ってたんだ?」

 重くなった場の空気を切り裂く様に、ボクにそうたずねてきた。

「……それはね」

 大和のまとう空気に怒りや憎しみの色は見えなかった。

 だからだろうか、この時ボクは一種の安心感を覚えた。

「ボクが君のことを──君の人間性を知っていたからだよ」

 だからだろうね。

 思いの外、すんなりと言葉が出た。自分でも驚くくらい口がよく回る。

「白々しく聞こえるかもしれないけど。ボクは君のこと、他の誰よりも信頼していたんだ」

 他の誰よりも君に心を寄せていると自負しているから。

「もしも、仮に、本当に君が犯人だったら、君は“絶対”にひめちゃんに謝っていたはずだから」

 大和のひめちゃんに対する想いをボクはずっと、ずっと近くで見てきたから。

 だから分かるんだ。大和が犯人じゃないって。

「犯人じゃないから謝らなかったし、認めたくなかった」

 それに大和にだって自尊心プライドがあるから。

「安易に否定しなかったのは“みんな”に自分のことを信じていて欲しかったから。そうだよね?」

 他人が聞いたら滑稽だと笑われるだろう。何の証拠も無い不確かな推理。

 でもね。一つだけ確かなことがあるんだ。

 自分のことは信用出来ないけど大和のことは信用できる。

 だって大和はボクと違って『意味のない嘘』はつかないから。

「じゃあ、なんで……」

 少し当惑した様子の大和。

 重々しく苦々しい言葉で大和は二つ目の質問をボクに投げかける。

「そこまで分かっていて……なんでお前は……」

 質問の途中で言葉を詰まらせる大和。

「お前は……」

 二つ目の質問ははっきりと聞かなくても予想できる。

 だってその質問は真実を知れば必然的に浮かぶ疑問だから。

「理由は色々あるけど……そうだね、やっぱり最終的には自己保身になるのかな」

 どんな質問でも大和に訊かれた以上は包み隠さず答えなければならない。それがボクに課せられた責任であり義務だから。

「君を犯人扱いして距離を取れば少なくとも自分の身の安全だけは確保できると思っていたんだ」

 理由の中では一番弱い部類だけど。それでも多少は心の中でそう思っていたはずだ。

 だからこれは一番の理由ではなくても嘘では無い。

「……だからって、別に『あんな事』しなくても良かったんじゃないのか?」

「…………」

 あんな事。

 それはおそらく今までボクがしてきた大和に対する険悪な態度と行き過ぎた行為の事だろう。

 それには明確な理由がある。

 大和のために悪役を演じる。それも結局は自己保身からくるただの言い訳なんだ。

「……それはね」

 ボクは本当の理由を大和に伝える。身勝手でワガママな自分の間違った願望を。

「ボクは君から“罰を与えて”欲しかったんだ」

 君の、君自身の手で直接。叱責されて、乱暴されて、めちゃくちゃになるまで。それで君の気が晴れるなら。

「だから、わざと君に険悪な態度を取り続けていたんだ。君を怒らせて、いつか『制裁』を加えて貰うために」

 そうすればどんな形であれ謝罪する糸口きっかけが作れたと思うから。

「…………ん?」

 言われている言葉の意味が理解出来ていないのか、小首を傾げる大和。

「……つまり、あれか? お前は俺に殴って欲しかったってこと……なのか?」

 大和の問いにボクはコクリと首肯しゅこうする。

「そうだよ。君に殴ってもらって勝手に納得して、勝手に自己満足でスッキリしたかったんだ。そうすれば罪悪感から解放されると思っていたから」

 なんならこの身体の純潔を捧げる用意だってあったんだ。大和さえ『それ』望んでくれるなら。いつでも、どこでも。

 まぁ、そんな事あるわけがないんだけどね。

 大和の性格上、それは絶対にありえないはずだから。

 それに。

 それにボクはあの時におびえてしまったから。

 大和に胸ぐらを掴まれたあの時、とっさとはいえ自己防衛のために家訓を引き合いに出した。

 自己保身の為に。大和にもう一度殴られるのが怖くなった。

 それで気付いたんだ。自分の身勝手さに。自分の愚かな行動に。

「……お前、馬鹿だろ」

 ポツリと。

「そんな事したって何にもならないだろ……」

 大和は呟く。

「お前なら、もっと良い方法を思い付けただろ……」

 本当のボクのこと、少しは大和に知ってもらえた気がした。

「……そうだよ。ボクは馬鹿な奴なんだ。愚かで不器用でどうしようもない駄目人間なんだよ。君が思っている以上に、ね」

 終着点が見えた。後は誠意を見せてしっかりと謝るだけだ。

「だから、ね」

 膝を折り床に手をついて、彼の、大和の眼前でボクはゆっくりとひざまずく。

 不思議と心は穏やかだった。

「ボクは君にちゃんと言わなければいけないんだ」

 見上げていた彼の顔から目を逸らし、こうべを垂れて手を胸の上に乗せゆっくりと眼を閉じる。

 服従の姿勢。ボクなりの忠誠の証。

 あくまでも土下座は最終手段だから。

「今までの非礼をボクに詫びさせて下さい。……許して下さいとは言いません。ですが、一つだけ君に聞いて欲しいことがあるんです」

 出来る事はやったつもりだ。後は天運に身を任せるしかない。

「願わくば、ボクに罪を償う機会を与えて下さい。身勝手なのは重々承知しています」

 だから、とボクは大和の前で誓いを立てる。

「どうか、ボクの自己満足に付き合って下さい。何卒、よろしくお願いします」

 そしてボクは。

「今まで本当にごめんなさい。誠に申し訳ございませんでした」

 今までずっと言えなかったその言葉をようやく大和に伝える。

「……今まで辛かよね? ボクはずっと君に謝りたかったんだ……」

 大和の顔を見るのが怖かった。

「ごめんね。大和、ボクはもう君を裏切ったりしないから。それだけは約束するから……」

 姿勢を変えずボクは大和の返事を待つ。

「…………顔を上げろ伊織」

 言われて、ボクは彼の顔を見上げる。

「なんつーか、お前……重い」

「…………」

 衝撃の一言だった。

 重いって。

 いや、確かに重いけど。

 でも、もうちょっと言い方ってのがあると思うんだけどなぁ……。

「正直言って、お前の事、恨んでいないって言ったら、それはやっぱり嘘になると思う」

「…………うん」

 そうだよね。

 そう思うのが普通なんだ。

 でもな、と大和は言う。

「それと許す許さないは別の話、そうだろ?」

 大和は少し照れ臭くさそうに。

「お前にそこまでされたんだ。許さないと後がこえーよ」

 そう言って。

「……そのことはもう気にすんな」

 ボクのことを許してくれた。

「なんつーか、お前って意外と不器用な奴なんだな。全然知らなかった」

 彼の表情には確かな笑みがあった。それを見ると胸の内に安堵感が広がる。

 零れそうな涙を目の力で必死にせきとめる。

「……そうだよ。ボクは不器用なんだ。君が思っているよりもずっとボクは鈍臭いんだから」

「ははっ、そうだな。幼稚園の運動会でお前、徒競走の時派手に転んだもんな」

「ううっ、それは幼稚園の時の話でしょ……」

 言って。

「いつまで跪いてるんだよ、ほら」

 大和の方から手を差し伸べられる。自分の手よりも何回りも大きい手のひら。

 ボクはそれを少しだけ遠慮がちに掴んだ。

「……ありがと」

 案ずるより産むが易しとは言うけど。

 終わってみれば案外、簡単に事が運ぶものだ。

 完全に和解が成立した──そう思っていた。

「ん? お前、その目の下の隈どうした? 寝不足か?」

 立ち上がった時に大和がボクの顔を覗き込む。

「…………」

 ええ……そこ今頃になって気付いたんだ。

 大和って本当に鈍感。

 でも、ちょっと嬉しいかな。

「うん。ちょっとね」

「お前、本当にクソ真面目だよな。テスト勉強くらい少しは休めよ」

「嫌だよ。一応これでも学年首席の座を護るプライドがあるからね」

「はぁ、委員長様は大変だな」

「その委員長様呼び、ちょっと嫌なんだけど?」

「へいへい。わかったよ帯織さん」

「……それも出来たらやめてほしい、かな」

 そんな。

 そんな他愛のない会話の最中に『それ』は何の前触れもなくボクの前に現れた。

 ──ブブブブブ。

 微かに聞こえるバイブ音。

 自分のスマホからでは無い電話の呼び出し。

「誰だよ、こんな時間に」

 おもむろにポケットからスマホを取り出す大和。画面を確認してから大和は『誰か』と通話を始めた。

「急にどうした? 何かあったのか?」

 嫌な予感。身の毛がよだつ焦燥感。

「え、ああ。まだ学校だけど?」

 大和の連絡先アドレスを知っている相手。始まる不本意な推理。

「は? 校門の前で待ってるから早く来い?」

 大和のその嬉しそうな顔を見ると胸の内にザワザワと言い様の無い感情が込み上げて来る。

「…………」

 分かってるよ。

 電話の相手なんて考えなくても直感で分かるんだ。

「え? ああ、伊織なら近くにいるけど」

 なんでなの?

 どうして君はいつもいつも、ボクの邪魔をするの?

 せっかく大和と仲直りできたのに。

「あん? 伊織も一緒に連れて来いって、それは……」

 ボクはまだ大和と二人きりでいたいのに。話したい事だっていっぱい、いっぱいあるのに。

「なぁ、伊織。お前、この後──」

「嫌だよ」

 そう言ってボクは。

 大和の耳からスマホを半ば強引に引き剥がして画面に表示されている赤い丸のマークを指で押す。 指に確かな憎しみを込めて。

 通話終了。

 切る前に確認した画面の中に映る文字列。

 名前は姫川姫光。

「…………」

 ほら、やっぱりそうだった。

「伊織?」

 ボクの行動を不審がる大和。

「急にどうしたんだ?」

 頭にキンキンと不協和音が響く。それがたまらなく不快だった。

「ねえ、大和。まだ君に訊きたいことがあるんだ」

「訊きたい事? 何だよ?」

 いや、本当は聞かなくても分かるんだ。

 だってあの子の性格は嫌と言うほど思い知らされているから。

「ひめちゃんと仲直りする時、どっちが先に謝ったの?」

 大和は。

「…………それは」

 すぐに答えなかった。返答を言い淀む。それはつまり。

「どうせ大和の方から謝ったんだよね? そうでしょ?」

「…………っ」

 無言の肯定。ほら、やっぱりそうだった。

 それが分かったから。

「ひめちゃんてさ、どんなに自分が悪くても絶対に自分からは先に謝らないよね」

 昔からそうだった、と。

 口から恨み言がドバドバと決壊したダムの水の様に流れる。

「……大和は何も悪く無いのに、どうして大和にばかり謝らせるんだろうね。あの子って」

 それが本当に許せない。

「ねえ、どうしてなの?」

 感情が抑えきれないボクは、私は、魔女になった帯織伊織は──。

「あんな女のどこが良いの?」

 大和の前で言ってはいけない一言を口に出してしまった。

「ひめちゃんはワガママな上に自己中心的で、他人の迷惑も顧みない様な利己主義者なんだよ。自分が楽しければ周りも楽しいとか、そんな事ばかり考えている精神異常者なんだよ?」

 そんな女、一緒にいても君を傷付けるだけじゃないか。

 ひめちゃんは君にふさわしくない。あんなのは雪雄にでも引き取ってもらえば良いんだ。

「君のことを裏切った売女と一緒にいたら君が絶対不幸に──」

「やめろ!!!」

 一喝。

「……それ以上、姫光を悪く言うな」

 大和の静かな声音でボクの恨み節は終わりを迎えた。

「…………あ、ああ……」

 冷静さを取り戻したからこそ。

 自分の犯した過ちの重大さが嫌でもわかった。

「……今のは、違うんだ」

「何が違うんだ?」

「……違うんだよ。大和」

「違うなら何が違うか説明してくれよ」

「ボクは……ボクはね」

 脳裏をよぎる過去の記憶。

 嫌な思い出。大和にぶたれた痛くて苦い過去。

 帰れない過去。変えれない立ち位置。

 奪い返せない居場所。

 だって大和はひめちゃんの騎士ナイトだから。

 ひめちゃんを傷付ける奴は誰が相手でも許さない。

 例えそれが仲間でも。ボクでさえも。

「……そんなのズルイよ」

 気が付いたらポロポロと目から鱗の様に涙が零れ落ちた。

 落涙らくるい

 ずっと今まで我慢していたはずなのに。

「お前、泣いているのか?」

 酷いよ大和。泣かせてるのは君じゃないか。

「ボクだって、大和のこと……ずっと、ずっと……」

 そこから先の言葉が言えないから。

 ボクはずっと負け犬のままなのだろう。

「……ひめちゃんなんて大嫌いだ」

 そんな負け犬地味た捨て台詞を残して。

 ボクは二人きりの教室を抜け出した。

 向かう先は女子トイレ。

 そこなら大和は入って来れないから。

 誰もいないのを確認して、一人個室に閉篭とじこもる。

 もう良いよね?

「う、ううう……」

 声を押し殺してすすり泣く様に。

「ううぅぅ、うぁぁぁぁ……」

 嗚咽おえつを漏らし溜まっていたものを吐き出す。

 完全下校時刻のチャイムが鳴るころには涙もすっかり枯れ果てていた。タイミングを見計らいトイレから出て、学校を後にする。

 心のどこかに淡い期待があった。もしかしたら彼が待ってくれているかもしれないと。

 駅に向かう道中も、駅から家に着くまでの帰路も、見慣れた隣人の姿は影も形もなく。

 家に着いても、結局大和はボクの前に姿を現さなかった。

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