子守歌

天鳥そら

第1話眠れぬ夜に

 武君は、夜眠れません。せっかくお布団に入っても、何度絵本を読んでもらっても、眠るのはいつもお母さんで、武君は退屈そうに目をパチパチさせているだけです。


 武君の家は海の近くにあります。5分ほど歩くと砂浜で遊ぶことができるので、よく散歩にでかけます。


 夏はたくさんの人がビーチを訪れます。ビーチサンダルをはき、ウキワを持った水着を着た人たちでとってもにぎやか。小さいながらも毎年開催されるお祭りでは、打ち上げ花火もあります。


 今年の夏、5歳になった武君はほんの少しだけ夜中に家を抜け出して浜辺を散歩しようと考えました。


 あんまり眠れない夜は人の声が気になるし、虫の音が聞こえると口笛を吹きたくなります。


 夏を過ぎれば人もまばらになり、静かな海をじっと眺めることができました。



 その日もお母さんは武君を寝かしつけるためにそばにいましたが、夏の間訪れた観光客のために働き、夏祭りの手伝いをしていたためとても疲れていました。武君を寝かしつけるつもりが、すぐに寝息をたててしまいます。


 お母さんに気づかれないようにそっと布団から飛び出すと、武君はそろりそろりと裏の玄関から抜けだして、一目散の浜辺へと駆けて行きました。



 広い海と白い砂浜に月がぽっかりと浮かんでいました。いつもはわいわい騒ぐ人もいますが、ラッキーなことに今日は武君一人きり。ぜーんぶ武君のものです。


 たった一人きりの冒険に武君はワクワクしながら歩き回ります。武君の冒険は、誰にも秘密です。


 だから、お母さんにバレる前にこっそり帰らなければなりません。


 誰もいない砂浜に、小さな生き物がごそごそと動き、静かに砂が呼吸しています。海の波は武君のくるぶしを優しく撫でていきます。


 まだ泳げないけれど、武君はいつか海のお兄さんたちのようにサーフィンをしたり遠泳をしてみたいとも思っています。そのために、いつもお風呂の中で息を止める訓練をしているので、遊んでいちゃだめだとお母さんに叱られます。


 お母さんってばちっともわかってないんだから。武君はいつも、はーいと返事をして、すぐにお風呂の中にもぐって訓練を続けていました。


 波に打ち上げられた棒切れやワカメ、観光客が残していったゴミを見つめます。その中から貝や丸くなった小石、それから波と砂と岩とで磨かれたガラスの破片を見つけてそっとポケットに入れました。


 武君はちらりと家のある方を眺めます。あんまりゆっくりして見つかってしまえば、こっそり冒険することができなくなってしまいます。ちゃぷちゃぷ打ち寄せる波にさよならを言って帰ろうとした時、武君の足元にピンク色の貝殻が落ちていることに気がつきました。


「大きい」



 武君の手のひらよりも大きい扇形をした貝殻は、今日一番の宝物です。月にかざしてため息をつくと、そっとその場を立ち去りました。



 家を出てきたときと同じようにゆっくりゆっくり裏の玄関を開けて、そうっと廊下を歩きます。たまにぎしりという音が足元からして、飛び上がりそうになりながら部屋に戻ります。


 お母さんはぐっすり眠ったまま身じろぎひとつしません。武君はほっとして、お布団の中に潜り込みます。持ってきた貝殻を胸の前で抱きしめるようにしていると、不思議とまぶたが重くなり、すぐに眠ってしまいました。夢の中で貝殻と同じ、ピンク色の鱗をした人魚と遊ぶ夢を見ました。


 朝、目が覚めた武君は、ピンクの貝殻をすぐにおもちゃ箱の奥にしまい込みました。貝殻のことは誰にもないしょ、武君の戦利品です。昨夜の秘密の大冒険は武君をちょっぴり大人にしました。



 その日の夜、いつものように武君を寝かしつけようとしたお母さんが寝てしまったのを、薄目を開けて確認しました。昨日と同じように浜辺を、いえ、もっと遠くまで冒険しようかと思っていました。昨夜の冒険の成功が武君を大胆にさせていました。



 そっと布団を抜け出そうとすると、どこからか潮の香りと波の音が聞こえてきました。てっきり窓の外からするのだろうと思いましたが、どうやら違うようです。


 布団のわきに立って、きょろきょろと部屋の中を見回してからおもちゃ箱がぼんやりとピンク色に光っているのが見えました。一体どうしたのだろう。不思議に思った武君がおそるおそる近寄ってみると、おもちゃ箱の奥が光っているのに気がつきました。


 そっとおもちゃをかき分けて見ると、昨日拾ったピンクの貝殻が光っています。波の音と潮の香りもどうやら貝殻からするのだとわかって、武君は不思議に思いました。



 貝殻を手に取ったとたん、武君はうとうととまどろんで、その場で突っ伏して眠り込んでしまいました。昨夜と同じ、ピンク色の鱗をした人魚と海の中を泳ぐ夢を見ました。



 次の日の朝、武君は布団の中で目を覚ましました。かけ布団もちゃんとかけてくれています。きっとお母さんが武君を布団の中へ入れてくれたのでしょう。



 目をこすって起き上がり、手に持っていたピンクの貝殻がなくなっていることに気づきました。慌てて布団をめくりましたがどこにもありません。おもちゃ箱をひっくり返して探しましたがやっぱり見つかりません。押し入れの奥、部屋の隅々まで探しましたが、どこにもありませんでした。



「お母さん、これくらいの大きさのピンクの貝殻、知らない?」



 もしかしたら、お母さんが捨ててしまったのかもしれません。お母さんのいる台所に慌てて駆け込みます。



「ピンクの貝殻?知らないわよ」



 お母さんの言葉に武君はびっくりします。よくよく聞いてみると、武君はずっと布団の中にいたと言うので、もっと驚きました。



「でも、僕、おもちゃ箱の前で、寝ちゃって。それで、それで…」



 お母さんはくすっと笑いました。



「きっと寝ぼけていたのよ」



 では、あのピンクの貝殻はどこにいってしまったのでしょうか。ピンクの貝殻だけではなく、武君がこっそり布団を抜け出して、夜の砂浜で集めた他の宝物も綺麗さっぱりなくなっていました。


 夜の浜辺への冒険は武君しか知りません。あの日の夜の冒険も武君の見た夢だったのでしょうか。武君には何がなんだかわかりません。ですが、それ以来、武君は寝つきが良くなりました。





 お布団に入っても眠れなかったのに、どこからか潮の香りと波の音が聞こえてきます。一緒に小さく優しく歌声が聞こえてくるような気がするのですが、歌声だとわかる前に、ぐっすりと眠ってしまうのでした。

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