第5話
「夏休みは帰ってくるでしょ。ちょっと会えない?」
「いいよ。食事でもする?」
「最後の演奏会をしようかなと思って」
美樹は思わず深呼吸した。
「ウチあの家出ちゃうからさ、ラストチャンスなんだよね」
「会おう! 演奏会やりたい!」
「何かリクエストがあれば」
「そうだね……実は私昔言ってた作詞をまだやっていて、3曲だけ完成させたんだ」
「久保島曲書いたの? すごい。普通にすごい」
あの陽菜乃が他の人を褒めるなんて、と美樹は目を細めた。一番気に入っていた作品をメッセージで送った。
美樹は自分の発見を訂正した。自分たちはもう一斉に変化が訪れる年齢ではなくなっている。環境が違えば成熟の具合に比較の仕様がない差が生まれる。
陽菜乃は既に完全に大人の女性であり、眼差しと佇まいから色気を放っていた。ストライプの半袖と黒いミニスカートはモノトーンで統一され、首元には三日月がデザインされた銀色のネックレスを光らせていた。美樹なら決して選ばない地味な配色であったが、陽菜乃が身に着けていると、不思議に洗練された目を引く格好に見えた。濃い色の茶髪からは高級な香水の匂いが漂った。塗り慣れたファンデーションの白さからは家庭を持った女の顔すら垣間見えるようだった。耳から下がっているのは、おそらくイヤリングではなくピアスだ。
「今日はちゃんとママの許可取ってあるから」
声が変わった気がした。美樹は適切な返答の仕方を吟味した。
「それを聞いて安心したよ。ありがとう。久しぶりに入ったけど、いつ見ても印象的な部屋だね」
「曲に合わせるのにちょっと歌詞変えたけど、いいよね?」
「もちろん」
もはや無知なる恍惚に酔いしれることはなかった。価値観の相違は至る所に見いだされ、また技術的な未熟さにも美樹は気づいた。世界の色は変わらなかった。演奏は個人の趣味の披露でしかなかった。だからこそ、美樹は幸せだったのだ。陽菜乃が自分の歌詞に曲をつけ、今日聞かせるためだけに練習をして仕上げておいてくれた。このこと自体が何よりの好意の証拠ではないか。陽菜乃は何度も自分に愛情を示していたのだ。言葉でなく行為によって。今やっと気づいた。自分たちの関係は片方の気遣いではなく双方の愛情なのだ。
部屋に漂う芳香剤の香りは昔と何も変わらなかった。ソファーは自分たちよりも速く歳をとったらしい。モニターは見慣れない最新機器に取り換えられていた。Aura Leeのアレンジに、2番まである美樹の歌詞が全て乗せられた。もう終わりかと名残惜しく思っている美樹の耳に、もう一度サビが姿を現した。くすぐったさのあまり、美樹はクッションか何か抱きしめて自分のベッドに倒れこみたくなった。そうして演奏会は終わった。
美樹は感謝の拍手を送った。
「最近全然弾いてなかったんだけどさ、久保島に歌詞もらったから、慌てて練習したんだ」
「わざわざ私のためにありがとうね。こんなに嬉しいことが起こるとは思っていなかったよ」
「今くらいしか時間とれるときないからさ、今日来てくれてよかったよ」
「ねえ陽菜乃っていつギター弾けるようになったの?」
「小学生の頃、パパって呼んでた男の人が教えてくれたんだ。ずっと本当のパパだと思ってた。もういなくなっちゃったけどね」
美樹は軽率な質問をしてしまったことを後悔し、話題を変えようとした。しかし陽菜乃は美樹が返事をする前に話し始めた。
「ウチさあ、お父さんいないんだ。だから男見るとなんか、微妙な気持ちになるっつーか、たらしとか言われたりしたけど、でも実際のところは、安心するからいてほしい……みたいなね。久保島は彼氏いるの?」
「いないよ」
「それがいいよ。本気で好きになった人としか付き合わないにしなね?」
これは私の過失ではないのだと美樹は思った。陽菜乃が話したいことを話した。それだけだ。
日常の温度は思っていたより冷たかった。陽菜乃はギターを片付け始めた。ケースのファスナーを閉める表情は寂しげだった。
リビングは様子がかなり違っていた。家具が新しくなり配置も変わっていて、まるで来たことのない部屋のようであった。しかし出された麦茶の味はそのままであった。
「実はね、ウチ今度結婚するんだ」
「すごい! おめでとう。よかったね」
「……おめでとうって言ってくれるの久保島だけだよ」
「そうなの? 友香とか梨恵とか真奈美とかに伝えてみれば?」
「全然連絡とってない。多分繋がりなくなってる」
陽菜乃は目を伏せて笑った。
「名字何になるの?」
「古沢だよ」
相手はやはり渡辺ではなかった。昔の激しい嫉妬が可笑しくてたまらない。
「私のことは式に呼んでね」
「式は挙げないんだ。身内で食事だけすることになってる」
「そっか」
「優しいのはね、ホント久保島だけなんだよね」
美樹は微笑んだ。優しくなんかない。相当嫌な奴だよ私は。知らない方がいいこともたくさんあるよね。
よく見ると陽菜乃の顔には疲れが表れているのだった。子どものように大きな目は相変わらずだと美樹は感じた。自分たちの関係は今後大きく変化することなく、このまま遠いところで細く繋がりを保つだろう。稀に会うかもしれないし、全然会わなくなるのかもしれない。年賀状くらいは出すだろう。深く関わるのを避けながらも、自分は決して彼女の友達という立場を去らない。
周囲がどうあっても、結局人間関係は2人の努力によってでしか維持されない。彼女との縁を保てたことは誇りだ。陽菜乃の両耳で輝くピアスを見つめる美樹であった。
陽菜乃 文野麗 @lei_fumi_zb8
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