おてつ

@kounosu01111

第1話


(一)


 両親の声がした。

聞くともなしに聞いているうちに、おてつは布団の中で目が覚めてしまった。


 「身寄りが誰もいねぇってんだから、奴さんが弱るのも無理はねえわな。」


と、母親のお勝が言っている。

 

「いやそうじゃねぇ。十三かそこらでは遠国から出てきて、こちらで所帯を持ったわけだ。国は越後だっていうから、そこへ帰れば、そりゃ誰かいるじゃねぇか。」

「江戸に頼れる人間はいねえってことよ」

「死んだかみさんの身内もいないのかねえ」

「それはいる」


と、父親の長作は言った。


「なんでも、四ツ谷の方で商売をしている家らしい。それが親の許さねえ何とかで、所帯を持ってからは行き来していねえ。

だから、お通夜にも誰も来ねえし、葬式には、姉だという人が来たには来たが、長屋の連中にもろくな挨拶もなしに帰っちまったという話だ。」

「子供がかわいそうだよ、子供が。」

「だからあれも、仕事に行く気にもなれず、ああしてぼんやりしているわけよ。」

「とりあえずお乳は、お増さんがやっているそうだけど。」

「そうか。そいうつはよかったじゃねいか。」


 おてつの眼に、一人の男の姿が浮かんでいる。いつも日焼けが醒めないような黒い顔をし、細い眼が悲しげに見える無口な男である。

 年は二十七、八。男は十日程前、女房に死なれ、両腕に乳飲み子を抱えてしょんぼりしている。

 そうでなくとも優しく、もの哀しげな感じがする伊作。腕のいい蒔絵師だというが、おてつには若いのに何となく爺むさいだけの男に見える。


 両親の話すのを聞いていて、その理由が解ったような気がした。

要するに田舎者なのだ、あの男は。朝出、居残りで律儀な稼ぎぶりだったのも、そのせいなのだろう。


 気の毒だとは思うが、男に同情する気は起こらない。

 人には言えないことだが、おてつは男の死んだ女房おせちが、あまり褒めた女でないことは知っている。

 それに気づかずせっせと働きづめだった男に、軽い軽蔑の気持ちを持っている。

哀れな男に違いないが、そう思う気持ちのそこに、微かに腹立たしい気持ちが沈んでいる。


 ただ、子供は可哀想だった。

 乳離れにまだまだ間のあるその女の子は、おけいと名付けられているが、日がな一日泣きわめいている。


「ちょっと。」


 おてつは呼んだ。

 伊作が慌てて振り向いた。赤ん坊の泣き声で、障子が開いたのに気づかなかったらしい。


「・・・・・・。」


 おてつは、バツの悪い顔になった。伊作の眼は真っ赤で、鼻の脇に涙の後がある。

泣いていたらしい。悪いところを見てしまった、と思ったが、すぐに腹が立ってきた。

なんて意気地のない男だろう。


「どうしたんですか。そんなに泣かせて。」


 おてつは、思わずなじるように言った。


「へい。」

「おなか空いているんじゃないですか。お増さんには行ってきたんですか」

「へい、まだですが。」

「だめでしょう」


おてつは叱りつけるように言った。ごめんなさい、とも言わずに部屋に上がり込んでしまった。

おけいを抱き上げて、指をしゃぶらせてみた。

 と、おけいは泣き止んで驚くほど強い力で指を吸った。


「ほら、お腹が空いているんだわ。」


 それが乳首ではないとわかって指を話すと、おけいは前にも増してギャアギャアと声を上げて泣き出した。


 立ち上がってきた伊作の脇をすり抜けながら、おてつはふくれっ面で言った。


「あたしがお増さんのところに連れて行ってあげますよ。」


 実際、腹が立っていた。

 やもめだかかもめだか知らないが、一人前の男が赤ん坊の世話ひとつ出来ないという話は聞いたこともない、と思った。

おまけにこの世界に、子供と一緒になって泣いている父親がいるものだろうか。


「本当に腹が立つね。おけいちゃん、あんた、あんなお父ちゃんと一緒じゃ、今に日干しになっちゃうよ。」


 おてつは強く泣き続けているおけいの、赤く膨らんだ頬を突いた。

 お増ちゃんはちゃんといた。すぐにおけいに乳を含ませながら、


「遠慮してんだよ、あの人は。」

と言った。


「乳なんか、この通りたっぷり出るんだから、遠慮などいらないって言ってたのよ。」

「そうかしら」

「そうさ。おとなしい人だから。」

「おとなしいも時によりけりだわよ、ねえ、おけいちゃん。」


おけいは夢中になって、お増の乳房を両手で掴み、乳を吸っている。

腹がいっぱいになると、現金なもので、おけいはとたんに機嫌が良くなった。


「見ちゃいられないから連れてきたんだけど、あたし出しゃばったかしら。」

「そんなことはないよ。てっちゃん、あんたからも言っておくれ。遠慮なんかこれっぽっちもしなさんなって。」

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