本当は。

くずき

本当は。

35度以上の猛暑日が5日は続いた頃だった。

山河やまかわ さなは扇風機がたった一台だけが動く、電車の待合室で、ただ呆然と座っていた。

田舎の待合室は、駅長さんが受付のカウンターに座っているだけで、他は誰もいない。たまに、汽車から数人降りてくるだけだ。

真は静かなそこで、硬い椅子に座り続けていた。時間がどれだけ経ったかも分からない。知ろうともしない。

隣の席に置かれた大きなボストンバッグ。それと足の間に挟んだスーツケース。それをどのようにして運ぶか。家に帰るためにはこの暑さを乗り越えて、三十分間歩き続けなければならないのか。真はそんなことを考え始めたらきりがなくなった。ついには家へ帰りたくなくなり、ここで座り続けていた。


真は今年で、大学3年生になる。

大学は北海道にあり、夏は涼しく、最高でも30度ほどにしかならない。

一昨年の夏は寂しさから、家に帰ろうと気になったが、それがこの地元と来たら、名古屋の田舎町は死ぬほど暑かった。

去年はその暑さに嫌気がさし、帰らないでいたところ、母に怒られた。お盆の時期は帰って来いと。そのときは適当に返したものの、今年は夏休みに入った途端、母の電話が毎日絶えなくなり、終いには真の大好きな少女漫画を捨てるとさえ脅してきた。こうなったら、もう行くしかない。行く日付だけを告げ、今日、帰ってきのだ。


案の定、ひどく暑かった。頭はぼんやりとし、動く気にさえなれなかった。

真は毛穴から吹き出る汗をそのままに、ただ壁を眺める。壁には夏祭りの広告が貼ってあった。8月11日。河原の方で花火大会があるらしい。

高校生のときは毎年、友達と行っていたが、もはやそんな気力はない。

突然、お腹が鳴った。隣に置いた、ボストンバッグの中を探るが、何も食べ物がない。

息を吐き、ようやく重たい腰をあげる。ボストンバッグを肩にかけ、スーツケースを引きずり、歩き始めた頃、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「真!」

おもむろに顔を上げると、目が合う。その優しい目に。聞き覚えのある声に、心臓が高鳴った。

息がしづらく、暑ささえ忘れてしまう。

恰幅の良い体つきに、黒褐色の肌。少し、大きめなジャージを着て、笑うと大きく口が開くところ。何にも変わらないその人の名前を、ゆっくり呼んだ。

「原田先生」

その人は片手を上げて挨拶した。

背はかなり高く、少し猫背なところまで変わらなかった。左腕に付けている、自慢の腕時計さえも昔と同じだ。

あまりの出来事に、真は笑顔が隠せない。

原田先生はさっぱり笑いながら、真の肩を軽く2、3回叩いく。

「久しぶりだな。高校卒業して以来だから、三年ぶりか?」

「そうですね。先生はどうしてここに?」

「ここで働いてる、俺の知り合いがいるんだ。そいつに用があってきたんだが、まさか真に会えるなんて思いもしなかった」

わざとらしく、目を大きくかけて驚いた表情を作って見せた。


先生は、真の高校のときの担任であった。

英語の先生で、この人の授業はいつでも明るく、わかりやすい上に、とても楽しかった。どんなことでも真面目にこなし、誰にでも優しく接する。

真が北海道の大学に行くと言ったとき、誰もが反対する中で、彼だけが「行ってこい。いろんなもの見てこい」と、言ってくれた、唯一の人だ。

そんな先生に惹かれた。真の初恋の人となった。


大学に入れば忘れられると思っていたが、そう簡単に忘れられず、ずっと片思いを続けていたのだ。

また、会ってみたら、会ってみたで、さらに好きになってしまう。

本当は、わざわざ私に会いにきたんじゃないの? と、聞いてみようかとも考えた。しかし、それを口にする勇気もなく、代わりに笑顔を作る。

「用事は済みましたか?」

「終わったよ。これから帰るのか?」

「はい」

「なら、一緒に帰ろうか」

原田先生は「いつの間にか、大人になったな」と、それだけを言うと、真の肩にかけたボストンバッグをするりと奪い、軽々と持ち上げた。

思わぬ紳士っぷりに目を奪われるが、目があったその目尻に、黒く隈があった。

「先生、わざわざいいですよ。お疲れでしょ? 目の下の隈、酷いですよ」

「いや、真の方が酷いよ。疲れてんだろう? それぐらいすぐにわかる」

先生は、やはりニカッと笑うのだった。

真はそれに甘えていいのか、否かに迷っているうちに、先生は歩き出してしまう。その歩調は、思いのほか遅かった。

「先生は全く変わらないですね」

真は隣に並んで、そんなことを言ってみる。喜ぶかと思ったが、先生は苦笑するのみ。

「そうかぁ? 歳とったって、おかぁには言われたぞ。未だ結婚も出来ない、独身男性だって嘆かれた」

「私はあまり変わらなく感じましたよ」

「そう見えるかもしれないけど、体力は落ちたなぁ。最近はバスケ部の顧問をしているんだが、全く動けなくて、馬鹿にされる」

「それでも、一生懸命頑張ってるんでしょ? 先生はやっぱり、すごいです」

「真もよく頑張ったよ。大学受験も、人一倍頑張ったじゃんか」

「それよりも、始めてのバイトの方が大変でした。人間関係も、責任を負うことも、全部が初めてで。先生もこれぐらい頑張ってたんだなぁって」

「真は俺のことを過大評価しすぎだ」

そう言った先生は、右手で頬を撫でた。それは、先生が嬉しいときによくする癖だ。

真の方まで嬉しくなって、笑顔を抑えようにも、抑えられなかった。

黙ったまま歩くこと、約十分。いや、もしかしたら、それよりも短かったかもしれない。先生が突然、

「真は、英語が大の苦手だったよな」

と、出し抜けにそう言った。

真は思わず、「え?」と、聞き返す。

ちょうど、十字路に差し掛かったところで、先生は足を止めた。先生は、体を真の方に向けて、まっすぐ、目を見つめる。

確かに、真はひどく英語が苦手で、高校2年の時まで赤点を取り続けていた。けど、それが何の関係があるのか。

無言で、見つめ続けられ、真はじっとしてられなくなった。

「どうしたんですか?」

すると、先生が小声でつぶやく。

「You will leave here soon」

先生は流暢な英語だった。

“もうすぐ、君はここからいなくなる”

何故そう言ったのか、分からなかった。

黙ったままでいると、

「Actually I came to see you」

「え?」

“本当は、君に会いに来た”

今、大学で英語を学んでいた真は、それらの英語を理解してしまい、どう反応していいのか、わからなかった。

ただ、先生の真っ黒に焼けた肌が赤くなるのを見ていた。

先生は誤魔化すような笑顔を取り繕う。

「また今度、会ったときは飲みに行こうか」

そう言って、真のボストンバッグを持ったまま、左の道へと行こうとする。真の家とは逆方向だ。

「待って、先生!」

振り返った先生は、まだ顔が赤い。

「今日帰ってくること、お母さんから聞いたんですか?」

先生は目を丸くする。それから、頭をかいて、「あぁ……ずるいことして、ごめん」と、言った。

「一昨日、たまたま真のお母さんにあって、今日帰ってくること知ったんだ」

「そうだったんですね……もし、本当に、そういう意味なら、8月11日、一緒に花火を見に行きましょう」

このチャンスしかない。

真は先生の、ゆっくり息を吐く音に耳を傾けた。それがとても、長い時間に感じた。

「いや、かっこ悪い真似してごめん」

何が? と、わざと聞きたいくらい、焦らされる。それでも、真はなるべく平然とした。

「別にいいですよ。私だって、きっと、そうしますし」

「そうか……」

先生の顔はさらに赤くなり、真と目を合わせようとしない。

「そうだなぁ……8月11日、高校の近くの、噴水のある公園で待ち合わせしよう」

「そのときは、私からも言わせてください」

「いや、俺から言うよ。ちゃんと」

先生は肩にかけたボストンバッグをかけ直して、ようやく、真のものを持っていたことに気づいたらしく、

「あぁ、間違って持って行こうとしてた」

「そうだと思いました」

「家まで送るよ」

「でも、先生の家逆方向ですよ」

そこまで言うと、先生はまた、手で頬をなでる。

「そこまで言わないと駄目か?」

ついに、先生はうつむいた。耳まで真っ赤に染めた、そんな先生に、真は呼吸を忘れそうになる。

なんとか会話を繋ごうと、真は口を開いた。

「今度、先生が大荷物持ってたときは、私が先生の家まで運びますね」

「真が大荷物持ってなくても、次からは家まで送る」

恥ずかしそうにしているわりに、こう言うことをさらりと言う。真の顔まで熱くなるのを感じた。

「……嬉しいですけど、私も先生の手伝いをさせてください」

「今度な」

先生と真は、真の家の方向に向かって並んで歩き始める。

手は、まだ繋がない。目も合わせてくれない。それでも、真は幸せに感じていた。

この暑い田舎に帰りたくなる理由ができたことも、涼しい北海道へ戻ることが嫌になってしまったことも、絶対、無理だと思っていた先生と一緒になれたことも、全部が嬉しかった。

真は赤い顔のまま、先生に、

「今度、ピンクのコチョウランの花言葉を調べて見てください」

「どうしてだ?」

「調べればわかりますよ」

はっきり言ってくれなかった先生に、ちょっとした、仕返しをした。

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