第146話 彼女の誇り

「ハァ……ハァ……ぜえ、ぜえ……おのれー……」


 汗が、ぽたぽたと大地にこぼれていた。

 垂れた水滴は、得体の知れない白色に呑み込まれ、消える。


「なんなの……この場所……」


 ”世界の端っこワールド・エンド”。

 迂闊だった。ウェパルは歯がみする。


【名称:ワールド・エンド

 番号:ST-40

 説明:この世界の外枠にある空間。

 この場所があるお陰で、世界は宇宙に存在していられることにする。

 あとの細かい設定は作成中。】


 冗談じゃない。

 などと。

 始末に置けないのは、それが《基礎ルール》の中に書き込まれていること。

 これはつまり、造物主クラスの連中が決めたルールであることを意味する。

 《基礎ルール》《時間・空間》《文化・思想》《生命》《技術》《管理情報》。

 このうち、ウェパルが設定を弄れるのは、《生命》《技術》《管理情報》のみ。――彼女には、この空間に関するあらゆる干渉ができずにいたのである。


「……くそぉ。……なにもかも、くそくそくそくそぉ、だっ」


 リカ・アームズマンの辞世の言葉が、百年前にある”勇者”同士の意外な恋愛事情にまで及んだあたりから、おかしいとは気づき始めていた。


 詳細はわからないが、――どうやら、あのちっぽけな、坂本京太郎とかいう、自分がどういう存在かも知らずにいる、部屋の隅っこにたまる塵みたいなやつにいっぱい食わされていたらしい。

 こんな屈辱は初めてだった。

 こんな風に、たった一人の人間に感情を動かされたのは初めてだった。


「戻ったら、……百年かけてあいつの魂を堕落させてやるっ!」


 金と情婦と酒と肉をたらふく与えてやって、あいつがなしえるはずだった色んな素晴らしいことを全て、なにもかも奪い取ってやる。

 そしてあいつは、死ぬ間際になってようやく気付くのだ。

 自分は結局、なに一つ意味のあることをなしえなかった、と。


 ……しかし、頭の中でいくらあの男の人生を弄んでも、現状に何らかの変化が起こるわけもなく。


「ちっくしょーっ!  おにょれーっ!」


 その言葉は何者にも届かず、虚無へと吸い込まれていく。

 あたりにリカ・アームズマンの姿はない。彼はもうとっくに、彼女の前から消えてしまっていた。捨て台詞すらなかった。「そろそろおしゃべりも飽きたし、そんじゃ」くらいの感じだった。


 ウェパルが状況を理解したのは、一人残されて数分後。

 この場所が、『ルールブック』を使ったあらゆる改変を受け付けないと気付いてからのことだ。

 彼女が元の場所に戻るには、少なくともこの”世界の端っこ”を抜け出す必要がある。

 とはいえ、この場所はぞっと背筋が寒くなるくらい広い。目を細めれば、遠くに”WORLD0147”の大地が見えるものの、あそこに達するまではハイペースで歩を進めても数日はかかるだろう。

 そう考えると、がむしゃらになって走るのが馬鹿らしくなってきた。

 たまらなくなって、叫ぶ。


「こんにゃろーっ!」


 胸のあたりが、ずっともやもやしていた。

 何度も何度も、彼女の頭に蘇る台詞がある。


――できれば私と結婚して欲しい。

――私と。

――結婚して。

――ほしい。


「くそっ、くそっ、くそくそくそぉ!」


 なんなんだあいつは。

 前代未聞だ。

 あんなこと言うなんて。


 だいたい、結婚ってなんなんだ。

 訳がワカラン。得体が知れない。なんで今さら、人間と新しい契約を結ばなくちゃいけないのか。


 お金のため? 愛のため? 子供のため?


 金には不足していない。そもそも使う機会がない。

 愛は感情だ。感情を持続させるのは難しい。冷めるとわかっているものに身を任せる気にはならない。

 子作りにはそもそも、興味がなかった。試したことはないが、きっとろくなことにならないとわかりきっているのだ。


 それでも、――


――それでも、なんだ?


 頭の中で、ぐるぐるぐるぐると思考が回っていた。

 なんだか自分でも、感情を持て余しつつあることには気付いている。



 結論から言うと、彼女はすでに敗北していた。

 彼女が、目的の大半を果たせずに終わることは、ほとんど確定していた。


 しかし、これで彼女は救われた、と言えるかも知れない。

 もし彼女が彼女の思うとおりに行動を起こしていた場合、――恐らくはもっと、悲惨な結末を迎えていただろうから。


 とはいえ、ウェパルに逆転の芽がまったくないわけではなかった。

 可能性は二つある。


 ひとつ。

 ウェパルに味方してくれている”勇者”の一人が、何らかの手段を用いて彼女の危機を察知し、アメリカン・コミック・ヒーローのように助けに来てくれる可能性。

 だがその確率は極めて低い。これまでも何度か彼に連絡を試みたが、何故だか一切の返答がなかったためだ。


 と、なると、もう一つの可能性に賭けることになる。


「――…………ッ」


 だがそれは、ほとんど最後の手段。

 彼女がその切り札を実行に移すかどうか。

 そこまで自分に覚悟があるのかどうか。

 すでに彼女は一つ、異界管理者として、大きなルール違反を犯している。

 坂本京太郎、――彼を裏切ったこと。裏切ってその行動を阻害したこと。

 これに加えて新たな罪を重ねるのは、――。


――さすがにまずい。


 恐らくそれは、ウェパルが今までしてきた中でも最悪の横紙破りになることは間違いなかった。

 過程はどうあれ、結果さえ出せば細かいことは言わないソロモンも、今回ばかりは罰を下すだろう。

 悪くすれば、記憶を消されて道ばたに放り出されてしまう、とか。そういう可能性もある。


 足を止め、ウェパルはその、ブヨブヨしたつかみ所のない大地に膝をついた。

 祈るような体勢だが、彼女は祈る神を持たない。


 ウェパルが決意を固めるのは、それから間もなくのこと。

 結論は、――実を言うと、すぐにでた。


 彼女は、あの、坂本京太郎がこれまでしてきた冒険を頭に思い描いている。

 あの男はこれまで、数多くの幸運に恵まれて、数多くの賭けに勝ってきていた。


 で、あれば。

 ここで引き下がっては、二重の意味で京太郎に負けたことになる。


 管理者としても。

 そして、――勝負師としても。

 

 よしんば、管理者として負けることは許そう。これは結局、第三者に強制された仕事に過ぎない。

 だが。

 ばくち打ちとして負けることは。

 それだけは、彼女の誇りが許さなかったのだ。

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