第88話 不思議な生き物

 それから十数分後。


「ええと。落ち着いた?」


 ウェパルが入れてくれたハーブティを前に、京太郎は世界チャンピオンにボコられたボクサーのように燃え尽きていた。


「……落ち着いたよ」


 深く嘆息して、京太郎はカップの中にまだなみなみとあるお茶を、なんだか珍しい昆虫でも観察しているかのようにしている。


「なんだか心配かけちゃったみたいで悪かったね。まあ京太郎も何となく察してるだろうけど、うちってナマモノ相手の仕事だからさぁ。ときどき予定外の残業になっちゃうのはしょうがないのよ」

「ああ……だよな」


 考えれば考えるほど、たかだか一時間戻りが遅かっただけであんなに不安になった理由がわからなかった。

 つくづく、――自分の第六感ほど当てにならないものはない。


「一つ、言い訳させてもらってもいいかい」

「言い訳?」

「今日は一日、いろいろと大変だったんだ」

「ああ、ひょっとして異世界人の一匹や二匹ぶっ殺した、とか?」

「……そんなところだ」

「やったじゃん。童貞、捨てられたね」


 そんな、格闘漫画の世界みたいなこと言われても。


「っつってもまあ、本当の意味で死者を出したわけじゃないけどな」

「ん?」

「私の担当している世界では、”人族”が生き返るんだ」

「その世界の人間には、死んでも蘇るルールがあるってこと?」

「そうだな」

「ふぅん」


 意外でもなさそうなその口調から察するに、それそのものは他の世界でもさほど特別なルールではない……の、だろうか? 案外、他の職員が担当している世界も、京太郎が担当している世界のようにテレビゲームのパロディめいたルールが多いのかもしれない。

 なんだか妙な感じがした。人の死というものはもっと、荘厳で不可逆のものでなければならない、ような。


「まあ、ちゃんと死んでないなら童貞捨てたとは言えないね。素人童貞ってとこ?」

「嫌な言い方するなよ」

「いひひ」


 温くなったハーブティを一気に飲み干す。少しずつだが、いつもの調子が戻りつつあった。


「でもやっぱり、人が死ぬところを目の当たりにするのはショックだよ」

「だからさっき、初めて会ったときみたいに発情したの?」

「はつじょ……発情したせいでああ言ったんじゃない。私は本気で……」

「ねえ、きょーたろーくん」


 ウェパルはそれ以上言わせない、とばかりに京太郎の両肩に手を当てる。


「オナニーは週に何回してる?」

「…………は?」

「だから、オナニーよ。何回?」


 彼女の表情は真剣だった。

 京太郎は、その質問に何か呪術的な意味合いがあるのかと思って、


「……週に……三、四回くらいかな」


 わりと正直に応える。するとこの同僚は顔色一つ変えずに、


「ぜんぜん足りない。毎日三回ずつしなさい。朝起きた後に一回、昼ごはんの後にトイレで一回。寝る前に一回。夜は誰かにシてもらってもいい」

「め、滅茶苦茶言うなよ」

「いい、きょーたろーくん。……私たちが世界のルールを変えるとき……それが本当に良い結果を生むかなんて誰にも分からないんだ。私たちの力で助けられる人もいる。一方で、何の関係もない、善い心を持った人が理不尽な不幸を被る羽目になることだってある。自分の善意で優しい人が傷ついて、……それが何度も続いて……そのことを考えて、考えて、考えて考えて……そうすっとある日、ノーミソのどっかが、溶けてドロドロになっちゃう時がくる」

「それは……まあ、わからんでもない、が」

「そういう時はオナニー。とことんオナニーなの。気持ちいいからするんじゃない。んだよ。一発キメれば、しばらくは自分と、自分がいるその世界のことを客観的に観れるようになるでしょ? 異世界の管理には、そういう精神の在り方が重要なのさ」


 今度は、京太郎が目を白黒させる番だった。

 そのまま流されてしまおうとも思ったが、


「説教の内容はなんとなく理解できないこともない。けど……今は、仕事よりもさっきの言葉の答えを……」


 我ながら、止めとけ、とは思う。

 ウェパルが話題を逸らそうとしているということはつまり、――なのだ。


「だから、言ってんじゃん。オナニーしな、って」

「??????」

「一発抜いた直後なら、私みたいに乳がデカいだけの女なんて選ばないってこと」


 京太郎の耳に、「十分じゃん」という世界中の男子の叫び声が聞こえた気がした。

 もちろん、この場はそういう冗談を言える瞬間ではない。


「それは……ちょっとひどくないか。それでは私が、君の身体だけが目的みたいじゃないか」

「”みたい”じゃなくて、そうなの。きょーたろーくんって私のこと、ほとんど何も知らないでしょ」


 ウェパルはぴしゃりという。まるで、年の離れたお姉さんに諭されたみたいだ。


――結果を求める余り、先走りすぎたか。


 苦い想いで眉間を揉む。京太郎の心はそういうのじゃないと言っているが、それを証明する手立てがない。

 “結婚”というワードを使ったのも失敗だった。結婚とは恋愛の一つの成就の形である前に、互いの財産を共有する行為である。生活の必要のためにする行為である。

 軽々しく口にして良い言葉ではない。


 総じて、京太郎は思う。

 今日は一日、気持ちばかり空回りして何一つ上手くいかなかった日であった、と。


「一つ、聞いてもいいかい」

「なによ」

「ウェパルは今、特定の誰かと付き合ってたり、誰かのことが好きだったりする?」

「……しない、けど?」

「だったら、……これだけ確認させてくれ。まだ、私にもチャンスがあるということかな」


 その瞬間だった。

 まるで、今までくすぶっていた火薬が爆発したみたいに、ウェパルの顔が耳の先まで真っ赤に染まったのは。


「だ……だから……! 真面目な顔してそーいうふうなこと言わないでくださいよろしくおねがいしますっ!」

「しかし、」

「あるっ、あるかもしれないけど……っ、知らんもん! 忘れたよそーいう気持ちなんて! こちとら百年引きこもってるんだぞ!」

「百年? いま百年と言ったのか?」

「もうこの話は終わり! これ以上その話するなら、ホントに嫌いになるぞ」

「おお……」


 そう言われてしまっては二の句が継げぬ。


「さあ、ごはんごはん! なんか予約とれなかったから並ぶかもしれんし! さっさと行くよ!」


 京太郎はしばらくぽかんとした表情を作って、


「あ、この後結局、飯には連れてってくれるのか」

「当たり前でしょ、約束じゃん!」


 言って、ウェパルは京太郎の腕を取り、ぎゅっと抱きついた。

 客観的に、どう見ても恋人同士にしか見えない格好だ。


「じゃ、今日は電車で池袋まで出るからっ! れっつごー!」


 鼻の頭を掻き掻き、京太郎は思う。


――三十年以上生きてきたが、やっぱ不思議な生き物だな。……女って。

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