忘れられるくらいなら

九丸(ひさまる)

第1話別れ話は唐突に

 蒸し暑く、申し訳程度に吹く風が余計に不快感を増す夜。


 男と女は肩を並べて、少しでも涼を求めるように橋に向かって歩いていく。


 街を分ける大きな川に架かる橋。

男はそこから眺める夜景がことの他好きだった。


 歩きながら二人は、先程までいた店の話しに興じる。

「で、結局今日の店はどうだった?何か噂程でもなかったような」

「そう!わかる!全てにおいていまいちだったよね。こだわりは分からないでもないけど」

「そうなんだよね。押しが強すぎだし、押してる割にはどうなのと」

「あと接客もね。強気過ぎでしょ」


 二人のとりとめもない会話が途切れないうちに、橋の中程にさしかかった。


 男は足を止めて、河口に広がる夜景に目をやる。

 街の夜景が見えるわけではなく、化学工場プラントの点滅する光が、夜の川面に映り込んでいた。

「俺、ここから見る夜景好きなんだよね」

 女は何を今さらという風に、

「知ってるよ。何回も聞いたよ」

 笑いながら男の側に肩を並べる。


 暫く二人は静かに、幾分涼しげになった風を楽しむように佇んでいた。

 車の通りはあるが、人通りはまったくなく、邪魔されることもなく、二人は互いの熱を感じていた。


 男は唐突に女に目をやり、語りかける。

「確か、高校位の時だっかな?すごい好きなCMがあってさ」

「いきなり昔話?」

 女も男に顔を向けて答える。

 男と女の目が合う。男ははにかんで続ける。

「まあ、聞いてよ。本当にはまってさあ」

 女はしょうがないなあと促す。

「どこかの音楽専門学校のCMだったんだけどね、電車の中で駅員が車内アナウンス風に言うんだよ」

 男は咳払いをしてから、なるべく駅員ぽい口調で真似をしだす。

「ご乗車ありがとうございます。間も無く終点三鷹。あー、どうせ忘れられるくらいなら、いっそ憎んで欲しかった。ああ、kiss me baby kiss me baby」

 女は駅員口調からのいきなりのセリフ読みに吹き出す。

「なにそれ!そんな面白いCMあったっけ?」

「だろ!面白いでしょ!これにすごいはまってさあ。暫く頭から離れなかったんだよね」

 男は自分で披露したにもかかわらず、無邪気に笑う。まるで当時に戻ったように。


 笑うのを切り上げ、男は川面に目をやり話し出す。

「まあ、駅員口調がどうこうじゃなくて、そのあとのセリフが面白いというか、好きだったんだよね」

「どうせ忘れられるくらいなら、いっそ憎んで欲しかった」

 男は一節を呟く。

「ちょっと、やめて!笑いが止まらなくなるから!」

 女は笑いながら男の肩を叩く。

「ごめん、ごめん。そんなにうけるとは思わなかったから」

「でもさ、このセリフは名言だろ?確か、マザーテレサも言ってたような。愛の反対は無関心だっけ」

「マザーテレサは分からないけど、確かに名言かもね」

 女は優しい笑顔で答える。


 男は、ふと一息間を置いて、柔らかい顔で女に語りかける。

「という訳で、俺はあなたを忘れます。これがあなたに対する俺の復讐です」

 女は笑いながら、また男の肩を叩く。

「ちょっと、これ以上やめてよね!多分ここ半年で一番うけたよ!」


 男は変わらず柔らかい顔のまま、でも幾分悲しそうに女の顔を見る。

「ごめん、本気なんだ。冗談はもう終わりだよ」


 女は男の言葉にのまれる。決して激しくはない、静かだが、抗えない波に。

「ちょっと待って。全然わかんない。えーと、いきなり過ぎてさ、何て言うか、えーと、何で?」

 女はまったく整理のつかない頭で、それでも何とか言葉を発した。


 男はそんな女を見て、優しく諭すように話し出す。

「理由はね、気がついたから。これでわからないかな?」


 女は男の目を見ることができずに、下を向いたまま、ポツリと答える。

「いや、本当にわからないんだけど…」


 男はため息をつき、また川面に目を移す。

夜がふけてきたせいか、さっきよりも更に風が心地よく感じる。こんな気持ちいい風に吹かれながら、する話しは別れ話。でも、だから終わりにはちょうどいいのかと、ふと頭をよぎる。別段何がいいかは具体的には言えないが、そんな気がしてきた。


 男はあらためて女に語りかける。

「あなたは頭のいい人だと思う。だから本当は俺の言ったこともわかってるよね。」

「でも、理由は俺の口から言ったほうがいいかもね」


 女は何も言うことができなかった。わからないことなどなかった。それ故に、黙って男の言葉を待つほかできずにいた。


 男は意を決するということもなく、自然と確信を発する。

「いつからだい?あの男とは。二十位上かな?会社の上司じゃないかとふんでんだけどね。まあ、ありがちな話か」


 女はどうすることもできずに、ただ黙りこむ。


 男はそんな女をよそに、話を続ける。

「昔の関係が復活したのか、それともずっと二股だったのか。いや、俺の見立てではここ最近だと思うんだけど。正直今となってはどうでもいい。ただ、気づいたら終わりだよね」


 女は激しく動揺していた。

本当に好きなのはあなだけ。あの人は、ちょっと昔の関係に火がついただけ。そう、小火よ。火遊びだったの。別にあなたに不満があったわけじゃないわ。本当にあなたのことが大好きなのよ。タイミングでそうなっただけなの。というか、なんでバレたの!?

 女は口にすることのできない言い分けで、頭の中が渦巻いていた。


 男は察したように続ける。

「そりゃあ、たいして広くない街だしバレるよね。お節介にも忠告してくる人もいるし。それに肌を合わせればわかるよ。他の男に抱かれたのは。本人は気づいてないだろけど、感じるポイントがズレてる感じかな。」


 男はさらに続ける。

「あとは勘だよね。何も女性だけのものじゃないからね。男の勘も当たるんだよ。それに好きなら小さな変化にも気づくしね」


 女は今失いそうな大きなものにやっと焦りを感じ始めた。さっきまでは言い分けでいっぱいだった頭の中が、今度は不安と恐怖に埋められていく。

 それでも何とか振り払い、男に懇願する。

「ねえ、聞いて。確かに関係があったのは認めるわ。言い分けもしない。全面的にあたしが悪いわ。でも、本当にあなたのことが大好きなの。愛してるの。もうしないから、別れるなんて言わないで」


 話してるうちに女をある考えが支配していく。男はきっと私を捨てない。何故なら私は大好きだし、男も私を大好きなはずだから。

 端からみたら都合の良すぎる考えでも、今の女には突如涌き出たこの考えにすがるしかなかった。


 男は淋しそうに、そして哀れむように女を見て言う。

「多分、本当に俺のことを好きなんだとは思う。でもね、あなたはキャパの広い女なんだよ、きっと。安心と安定が保証されると、空いてる空間を埋めたくなるんだよ。」


 男は確認するように女の目を見て続ける。

「もうそれは良い悪いじゃなくて、性じゃないかな。もちろん俺も悪い。全部埋めてあげられるか、安心と安定の中に、ちょっと不安要素も入れて、あなたにほんの少しのストレスを与えてあげたほうが良かったかもね。ある意味至らなかった。ごめんね」


 女は男の揺るぎない気持ちに打ちのめされる。ああ、本当に終わっちゃうの…。


 男は更に続ける。

「気づいた時に、俺思ったんだよね。こんなに好きなのに裏切られるんだったら、女々しいと言われてもいいから復讐したいって」

「俺の復讐はあなたを忘れること。あなたが、まだ俺を好きでいるうちに。怒りもしない、憎みもしないよ。ただ無関心に忘れるだけ。これが俺の復讐です」


 男は女の裏切りに気づいた時、怒りに身を任せ相手を殴りに行こうかとも考えた。関係はうまくいっていたし、女の愛情も感じていた。なのに何故?いくら考えても答えが出ない時に、あのCMの一節が頭のをよぎった。

「どうせ忘れられるくらいなら、いっそ憎んで欲しかった。ああ、kiss me baby kiss me baby」

 それから男は冷静に女のことを考えれるようになった。きっと女には悪気がない。そういう性だと割り切るしかないし、そう理解して俺はつきあえない。じゃあ、別れるしかない。でも悔しさはあるので、せめて爪痕を残したい。どうせ直ぐに消えるにしても。裏切られた復讐。それには、女が俺を好きなうちに忘れること。怒りも憎しみもなく、ただ忘れること。もちろんそんなに簡単ではない。厳しい道程だけど。

答えはもう出ていたのだろう。だからこそ浮かんだ一節だったのか。


 女は震えていた。思考に感情が追いつかずに、茫然として震えるだけ。


 男は口ずさむ。

「どうせ忘れられるくらいなら、いっそ憎んで欲しかった。ああ、Kiss me baby kiss me baby」


 男は女に背を向けて歩き出す。最後の言葉はかけない。さようならと言ってしまうと、その言葉に男が縛られてしまいそうだから。

無関心ではいられなくなるかもしれないから。


 終わり

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