ハイブリッド尖兵

北美平一

第1話

眼下で、赤茶けた大地が一斉に動きだし、微細にキラキラと輝きうねる。固く乾いた土壌が、実は雨に光る無数の蛇の寝床であったかのような。そういう夢を見ていた。

重力ではない、加速しない一定の力で引き寄せられて、私は落ちていく。堪らなく不吉な心持ちだ。手足の区別もない肉の塊になった気分だ。

しかし幸い地面にぶつかる前に目が覚めるだろう。意識の外側に現実世界の眩しさを感じる。


気付くと白い空間の片隅に転がっていた。円筒形の大きな部屋だ。悪い夢を見た気がするが、思い出せない。

そもそも自分が何者か、分からなくなっていた。

周りを見たい。力を入れると、平衡感覚を失って際限なく傾き、目の前が暗くなった。呼吸が狭まり、汗が吹き出す。ショック症状だろう。体が動かない。息を浅く小刻みにして、やり過ごそうとした。

一時的な記憶喪失かと思ったが、状況はより深刻で危機的かもしれない。

落ち着くと、口の中が粘り、無性に水を飲みたくなった。やはり体が思うように動かない。汗が蒸発して体温を奪う。

徐々に呼吸を深く整える。酸素濃度や気圧に異常は感じられない。地上と同じだ。空気は乾燥していて、風や揺れは全くない。いくつかの汗ばんだ体臭が漂う。多分、男が二、三人。

空間の内部は、半径十メートル、高さも十メートルほど。壁も床も白く、硬くて冷たい磁器のような材質でできている。どこにも継ぎ目が見当たらず、直線的な要素がない。表面が滑らかで艶やかだ。

何に似ているかと思えばトイレの便器だった。

全体的に明るい。照明はない。後で壁が発光していると分かった。物に影ができず、そのため立体感や現実味が薄い。

見えるものは、簡易なベッドが、私が載っている分も含めて四つ、九十度ごと十字方向、壁際に並んでいる。

ベッドの上には、人間と言うにはあまりにも奇妙な、ひどい有り様の者たちが載せられている。自分の体に視線を向けたくなかった。わざわざ包帯で隠した傷口を開くようなものだ。最悪の気分で死にたくなる。比べようもないが、きっと人生最悪に違いない。

ぎりぎりまで首を持ち上げると、床の中央に黒く四角いスーツケース状の物体が据えられていた。上面の一部が意味ありげに不規則に光っている。微かに、キリ、とかギリギリ、という気味悪い音が出ている。陽炎が立って周辺が歪んでいるようにも見えた。どうやら複雑な機構と、高密度のエネルギーを内包している。

頭がはっきりして、五感が働くようになってきたが、自分が何者で、なぜこの状態で、ここにいるのか分からない。逃げ場を確保していないにも関わらず、退避したい衝動が突き上げてきた。

決定的な恐怖の出処は、私自身の体の状態だ。

ひどくいびつで、四肢が欠けている。両足は付け根からない。右肩の先に何もない。

神経が通っている感覚だけが残っていて、手足が質量を失くし、透明になったようだ。痛みはなく、トゲだらけで動きの激しい幼虫が何十匹も血管の中を走り回るような忌まわしさと痒みがある。右腕があるべき空中が発生場所だ。

体のバランスが危うい。そして、信じがたく、耐え難い喪失感だった。

左手はあった。指も五本揃っていた。体から一本だけ、左腕が突き出して空を掻いている格好だ。これだけが頼りだ。骨太で、しっかり筋肉がついている。だが、利き手ではないと思う。

視界がおかしい。左手を顔にあてがって右目を探ると、眼球がなかった。だらしなく眼孔に垂れるまぶたに触れた。痛みはないが、それ以上触りたくなくなった。

左目から涙がわいて視界が揺れた。脳の中で悪態の叫びが沸いたが、口から言葉は出なかった。唸り声になった。

舌はあるのだが、言葉を思うように発音出来ない。無理に動かすと窒息しかねないという気がした。

情報を集め分析する。うまく切り抜けて、生き延びる。集中すべきはそれだけのことだ。しかし、頭の中に手がかりが一切なく、五感から得られる情報は絶望的なものばかりだ。

手足も自分の名前も、声に出して話すやり方も、本来あるべきものだ。そのように認識する理性は働いている。

何かの原因で記憶を失っている。私が人間というものであり、二本の脚で歩き二つの眼でものを見て考え、二つの手でさわる。通常はそのような存在であること、言葉が言葉であることを理解している。

自分は人間であり、理性を持っている。

観察し、推理してみるべきだ。このままでは、狂気に飲まれ人格を失うだけだ。

まず。ここは病院ではないのか?

悪くない仮説だ。

私は致命的な事故に遭い、生死の境をさ迷い、記憶と体のかなりの部分を失った。それでも上出来に生き延びた。

ここに収容されている者たちがひどい有り様で、辺りがトイレ並みに白いのも、病院という印象と大きくズレない。

希望的な見方でもある。

事故による記憶喪失は、時間をかけてある程度解消するものだ。

外界の煩わしいことを全て忘れてゆっくり休み、治療を受け、失ったものを順次、取り戻せるかもしれない。トレーニングに励んで話し方を思い出す。義手、義足も使いこなしてみせる。義眼も欲しい。

良いものさえ与えられれば。

寝床は硬く冷たく、医療機器や優しい人々の姿は見えないが、何か忙しい事情があり、やがて現れるだろう。

そうこう夢想するうちに、腹立たしくなってきた。要するに、そんな甘い現実はないと思うのだ。

私の直感は、残酷な存在を感じ取っていた。ろくでもない真相が物陰に隠れている。はっきり漂う存在感があり、そいつの嘲笑と視線すら感じた。

他の三人を少し観察してみる。万が一、ここが病院なら、同室の入院患者ということになる。

視界の左に、私が後にカオと名付けた者がいる。五体は完全、首まであるが、その上から頭部がまともに存在しない。

背骨からパイプが何本か螺旋状に延びて、大小三つの眼球と、クチバシを支えている。喉元あたりの低い位置にびっしり回線に覆われたオレンジ大の球体がくっついており、これが脳の役割だろうか。

筋肉質で均整のとれた体格だが、一つも健康には見えない。肺を病んでいるらしく、咳で呼吸はままならず、体全体が発作的に震えている。それでも両腕をぎこちなく動かしながら昆虫のごとく、飛び出した眼球で天井の中央を見つめていた。なにか意味ありげだ。

たまに全身がひきつり、背筋の緊張で寝床から跳ね上がり苦しそうだ。

眼球の支えをねじ曲げて、私に一瞥をくれた。なんとも言えない眼差しだ。シュー、シュー、と威嚇音らしきものが出た。自信はないが、多分、私に敵意を持っている。

右にいるのはニク氏。巨大なメスで真っ二つに割かれたような、胸から腹にかけて深く長い傷痕がある。

空気を抜かれたボールのように不自然につぶれた平たい体つきだ。体全体が傷口に向かって二つ折りに凹んで見える。内臓をごっそり摘出したのかもしれない。

ニク氏は元々、小柄で、無駄のない筋骨のアジア人だろう。タイなど、東南アジアの方か。強靭なキックボクサー型の体つきだったはずだ。

死を観念したのか、あるいは信じるべき復活の希望があるのか、力を抜き、黒い目で静かに中央の鞄を観察している。私の方を見なかった。

三人目。空間の反対側の一番遠くにいるのは、ノウ氏だ。突っ伏して嗚咽している。

空間の中央に向かって土下座しているので、後頭部が逆さまに露出しており、そこに空洞があった。拳が収まるほどの大きさだ。よくも生きている。

中はよく見えない。コードとチューブが十本ほど、飛び出している。頭蓋骨に溜まった血がひとすじ滴っているのも見えた。

ノウ氏が、顔をもち上げた。こちらを見る。鼻筋が高く冷たく整った顔立ちだ。少し驚いた。これもアジア人で、眼が黒い。瞳の奥に、空っぽの絶望が見える。高度な知性は感じられない。

以上の三体。カオ氏に嫌われている印象はあるが、少なくとも、今すぐに私を攻撃しようという者はいない。では協力できるのか?

記憶喪失が同じ条件なのか、初対面なのか、何らかの経験や記憶の共有があるのか、又は過去にあったのか、それが問題だ。

言葉が使えないので、関係性を探り、協力関係を構築するには手間がかかりそうだ。特に、カオ氏は警戒すべきだ。

私を含む四人の共通点は、子供でも年寄りでもない、元々は運動能力が高かったであろう男だということ。それぞれ、薄いグレーの下着を上下に着ている。

最近に生じたひどい身体的な障害があって、人工的な処置を受けている。

私の欠けた手足の付け根には、しっかり骨まで繋がった金属の球体がつき出している。切断面を保護する機能なのか、それにしては表面に複雑な切れ込みがあって、何かの機能性を感じる。

先に動いたのは視界の左にいるカオ氏だった。

ぞっとする動き方で這い出し、ベッドからドタリと落ちると、また動き出した。中央のスーツケースを目指している。時折、ひどい痙攣を発した。

そう。もう一つの仮説があった。思い付く限りで、二番目に蓋然的で希望的な仮説だ。

これは何かのゲームかもしれない。

円形のフィールドの四方に等間隔で四人のプレーヤー。中央にあるものが主宰者からのプレゼントだとしたら…。

私たちはそれを争わなければならない。

失った記憶と手足も、すべてゲームのルールで、中央の鞄の中に答えがあるのかもしれない。

今は様々な選択肢に備えるしかない。私は、ベッドの上の乏しい手掛かりを使ってうつ伏せになると、左腕一本で匍匐前進を始めた。

じっと固まって動かないことが正解というゲームは存在しない。もし主宰者や観覧者がいるなら、そいつらを退屈させるからだ。

ベッドから落ちる際に仰向けにならないよう、バランスに気を付ける。

つるつる滑る床で、亀が仰向けで暴れる姿を想像するとやりきれない。手が滑らないよう、こまめに下着に汗を擦りつけ拭った。

ニク氏は、なんと、フラフラと立ち上がろうとしている。

その時、大音量が鼓膜を襲った。反射的に片手で左耳を護った。目や耳が二つずつあるのは、五十パーセント以上の確率で機能を守るためだ。

轟音が叩きつける。曲名が分かった。「ワルキューレの騎行」。最悪だが、何かの悪趣味なイベントである可能性が高まったと判断できる。

次に、ズポ、ゾボ、と盛大な音をたてて天井が開いた。生々しい腐りかけのひどい臭いが降ってきた。

何かの仕組みで、円い穴が出来ていて、巨大なテラテラ光るものが垂れ下がってきた。放つ色彩は胸が悪くなるような暗褐色だ。

思わず毒づいたが、ウーという唸りにしかならない。釣り下げられて来たのは、巨人の排泄物。やはり、私は便器の中にいる。

これはゲームだった。病院ではないことは確かだ。

便器の底に脚をもがれた便所コウロギが四匹いて、そこに特大の糞が放り出される。そういう仕組みだ。

見るほどに醜悪な塊で、ビシビシと音をたててのたうち、要するに邪悪な意思をもって生きている。孵化しようとする巨大なゴキブリだ。

もはや馬鹿でも分かる。これはゲームであり、ペナルティーがある。負ければあの化け物の相手だ。ドロドロの繭の奥に透けて見える複雑に折れ曲がった顎。多分、あれで食われる。

巨大な排泄物は、目まぐるしく変型しながら揺れ動き、ビュンと音をたてて斜めに落ちてきた。私とカオ氏の間にだ。

しばらくのたくると、繭を脱ぎ捨て、四本の脚で立ち上がり、四本の腕を広げた。顎にはブラシ状の歯が密生して、不思議なブーンという振動音を出している。

便所コオロギを食いに来た巨大なゴキブリの化け物だ。恐ろしくでかく、強力だ。

ゴキブリは、まずカオ氏にかがみ込んでブラシ状の歯を近づけた。カオ氏が、両腕でガードすると、ブーンという音に、ガガッと引っ掛かる音が入り交じり、あっという間に肉と骨が消し飛んだ。

血煙が四方に飛び散り、化け物はそこに頭を突っ込み、血のシャワーを味わった。またブーンという音がして、空気を掻き回しながら味わい吸い込んでいるようだ。

どうにもならない。

頼みの綱は例の黒い鞄だけだ。たとえ中身が空っぽでも、可能性を追求するしかない。

私は、腕一本で前進を続けた。

ありがたいことに、ゴキブリは、カオ氏に掛かりきりだ。両腕を失って、血を吹き出しのたうち回るカオ氏に、テラテラした巨体で覆い被さると、例のブラシで頭の造形物あたりを吹き飛ばした。

顎の下から何本か管が垂れ下がってきた。

一本は肉色の空洞になったカオ氏の食道の中に潜り込んでいき、もう一本はやや遅れて肛門を探り当てた。他の肉管は、あてもなく臍やら耳やらを探っているが、サイズが合わないらしい。

巨大な音とともに吸引が始まった。上下から血肉を吸われてカオ氏は形を無くしていった。

どうすれば、あれと戦えるというのだ。

カオ氏に吸い付きながら、顎の周りのブラシは、鋭さを失って垂れ下がっているように見える。

あのブラシは骨ごと人体を削りとばす威力があった。しかし、食事に熱中している今はまるで、そう、伸びすぎた鼻毛のようだ。

私は笑いだした。声にならず静かに口が歪んだ。

黒い鞄との距離はあと三メートルほどだ。

化け物は、ぼろ切れになったカオ氏を打ち捨てると、一跳びで私の目の前に躍り出た。

その拍子にニク氏の背後にトゲだらけの脚が打ち降ろされ、ニク氏の右肩から腰にかけて削り取っていった。ニク氏は、血を吹き出して転がり死んだ。ゲームのライバルがまた一人減ったようだ。

だが、化け物は、私に向かってくる。

これがゲームなら答えは一つ。反撃の中にのみ活路はあるはずだ。

私はブーンと空気を震わせ近づく化け物のブラシが届く直前にそのあたりの穴に手を突っ込んだ。虚しい雄叫びを上げながら、何か柔らかい管を手探りで掴むと引きちぎった。

一瞬で体が浮き上がり、血や内臓の汁で汚れた床を滑った。

ブラシは無数のカミソリとなって私の腕に差し込まれたが、直ぐに大人しく柔らかくなった。振動で硬化する性質なのだろう。

私の腕は力をなくし、血まみれだった。パズルのように、どこか一押しでバラバラになりそうだ。

だが、化け物も痛かったようだ。あれは口ではなく鼻の穴だ、歯ではなく鼻毛だった。

最後の腕を犠牲にして何を得たのか。これからどうするのか。

ゴキブリは、灰色の体液を鼻の穴からダラダラ流し、からだ全体を丸めて転がって逃げていった。

私はもう動けない。

泣き虫屋のノウ氏の姿が見えない。彼の勝ちなのか。

その時、私の頭がグラリと傾いて、黒い鞄にぶち当たり、弾みで手がその表面を滑った。そしてダウンロードが始まった。

やはり、こいつがゲームの賞品だった。



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