愛してる

仲條杜環

第1話 キスが降る!?

 何かがいる。

 タンクトップの肘の上の辺りに何かを感じて、凛音(りおん)は腕を擦った。五秒くらいすると、また肩の辺りが同じようにくすぐったくなった。なんだか柔らかくて、温かくて、湿っていて、微妙な吸引力があって……。


――キスされてる!


 凛音は思わず叫んで、思いきり腕を振り払った。

 思い切り振りすぎて座っていたスツールから転げ落ちた。

「痛っ、なに?」 

 ひとりだけど、怖いときには声に出さずにいられない。

「冗談はやめなさいよ!」

 腕をごしごしと擦りながら、得体の知れない何かに向かって強がってみる。だけどどんなに強がっても、それは強がりでしかなく――。

 全身がセンサーになったみたいに、恐怖に怯えて動けなかった。


 やがて、何も起こらなくなった。

 少しほっとして、そりゃそうよ、普通そうよ、何かの勘違いに違いないわよ、とひとりで納得しながら、やっとスツールにつかまって身を起こそうとした。


 そうしたら、今度は腕を掴まれた。

 意識する前に、「ぎゃあ~!」と声を上げていた。


「え? え? えっ?」

 腕を何度も何度も振って、何かを必死に振り払おうとした。


 けれどそこには元から何もいないし、何も凛音の腕をつかんでなんていなかった。少なくとも、凛音には何も見えなかった。

 声を出すのも怖すぎて、心の中で、『え~~~~!』と、何度も何度も叫び、腕の掴まれた辺りを、ごしごしと擦り続けた。


 すると、擦っている凛音の手をまた何かがつかんで、キスをした。

 もう驚くこともできなくて、凛音はその感触のする辺りを、ただ見つめた。

 腕に、キスされる感覚が起こっている、そんな感じだ。蚊も留まっていないのに皮膚が痒い気がするみたいな。凛音はじっと、その何もないただの感覚を観ていた。


〈愛してるよ〉


 その声は、耳にはっきりと聞こえた。

「ええええ~~~」

 凛音は耳をふさいで、叫んだ。もう何も聞かないという意思表示のように、叫び続けた。


――聞こえた。聞こえたよね。でも、空耳だ。


 そう自分に言い聞かせながら、しばらく経ってから、そっと耳から手を放した。


〈やっと届いたな〉 


「いいいっ!」

 凛音は変な声を上げながら、再びスツールから転げ落ちた。


〈どんくさっ〉


 声を耳から声を振り払おうとして、痛いほど手で耳をはたいた。

 だけど、まだ何か言っている。


〈驚くなよ、ぼくだ〉


「ひゃあ~、ぼく? ぼくなんて知らない。知らない~!」


 凛音は耳をふさいで頭を振り続けた。

 その耳元で、〈だ・か・ら!〉と、声がボリュームをMAXに上げた。

 凛音は固まった。 


〈だ・か・ら、ぼく〉


――だから、そのぼくがわかんないんだってば――。


 凛音は堅く目を瞑ったまま、何かに向かって投げつけた。

 すると、今度は手の甲から手首にかけてキスが降って来た。ぞわぞわっと鳥肌が並び立ち、高熱が出た時のように身体が細かく震える。しばらくしてキスはくるぶしに飛んだ。


「あしっ、あしっ」

 凛音は「ひいっ」と声を上げる。

 脹脛から膝小僧へとキスは降り続く。まさに、降ってくる。

「あ……、やっ……」


〈愛してる〉


 え? と言う声が、溜息になって、自分で慌てた。

「いやいやいやいや、そうじゃなくて、なんなのぉこれ!」


〈きみを愛してる。……だから、この足、手入れしてくれる?〉


「え?……」


 凛音の身体は、思考もろとも固まった。

 展開が、読めない。

 読めないながらも、言われたことには傷ついた。キスされていた足を慌てて胸元に引き寄せて抱かかえた。

 乾燥した冬を過ごした脛(すね)は、カサカサと乾いた手触りがした。少し恥ずかしく、ちょっと情けなく、なんだか悲しかった。


「悪かったわね、手入れしてなくて」


〈だから、手入れしろって言ってんの。ずっとそう言ってきただろ〉


「ずっと? うそ」


 嘘なもんかと、声は不満を露わにした。ずっと頼み続けていたのにきみは聞かなかったのだ、と。

「そんな話、聞いたことないし、どうしてあなたがわたしの足に口出しすんのよ」


〈ぼくの愛しい身体だから〉




つづく

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