コップの中の漣

和史

コップの中の漣

 ガムテープで口と鼻を塞いだ冴えない魔術師マジシャンは、小さなテーブルに水の入ったコップを置いた。


 目を閉じ、手をかざし、それに念を送る。手をこねる様に揺ら揺ら動かすと、次に目をカッと見開き、手からありったけの波動を送った。


 するとどうだろう、何も触れていなはずのコップの水面が一瞬だが細かに揺れ、また何もなかったかのように水平に戻った。ドヤ顔で観客席に手を広げるが、何時もの様に魔術師マジシャンが求める歓声も拍手も返ってはこなかった。


 それもそのはず、観客はただ椅子に座っている老人と、子供におやつをあげながら買い物の間に休憩している主婦、掃除のおばちゃんぐらいなもので、誰一人として魔術マジックを見ている人などいなかった。


 いつものことだとドヤ顔を愛想笑いに変え、口元をヒリヒリさせながら舞台裏へと引っ込む。


 魔術師マジシャンは定期的に各イベント会場でカップ&ボールや鳩出し、ボール浮遊など今のご時世ではありきたりな奇術マジックを披露するが、一番の見せ場がコップの中の水面をただ少し震わすことだった。ラインナップからも分かるように、人気のある魔術師マジシャンではなかった。


 手先の技が格段に素晴らしいわけでもなく、奇抜なトリックを考えつけるわけでもなく、派手で大掛かりな奇術師イリュージョニストでもない。


 男は今日の仕事を終え、薄い給料袋を受け取る度に、心折れそうになる。しかしその都度、ユニークで優しい妻がかけてくれる言葉を思い出し、道具が入っている重い鞄を持ち上げられた。





 いい? 

 あなたの唯一できる魔術マジックはコップの中に漣をおこすことだけなんだから。





 男が楽屋裏から出て行こうとすると、先ほどの親子連れが扉の前で待っていた。男の子は駆け寄ってくると、

「ねぇっ! さっきの魔法使いさんだよね? 僕にも魔法を教えて!」

 小学生の男の子は目を輝かせてそう言った。


「あぁ、ボウルが浮く奇術マジックかい?残念だがタ……」

「違うよ! ボウルが浮く奇術マジックなんかネット動画で仕組みは知ってるよっ」

「そ……そうなんだ……」


 男はハハハと苦笑いを母親に返す。母親も同じく苦笑いを男に返した。

「そうじゃなくて、最後の! 最後のコップの水を動かす魔法!」 


 男は一瞬驚いた顔になったが、優しく微笑ほほえむと、昔同じ質問をした自分を男の子に重ねた。同じ目の高さに屈むと、自分が教えてもらった答えを次は自分が男の子にそっと伝えた。


「分かった! 約束は絶対守る! 僕がんばるよ!」

 男の子は目を大きく見開き、男を見上げるとそう言って母親の元へ戻って行った。

 男は軽く手を振り、満足げに親子を見送った。






いい? 

あなたの唯一できる魔術マジックはコップの中に漣をおこすことだけなんだから。

たとえ小さなことかもしれないけど、あなた、それが本物だって見破ったんでしょ?

しかも今はそれと同じことがあなたもできちゃうんだから!

つまりそれはすごい事なんだから! 

誰が何と言おうとも、誇りを持って魔術師マジシャン








誰かの心のコップの中に小さな漣をおこせた日は、帰り道の足取りが軽い。

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