パラドクス-Project The Chaos-

ピンクは狂乱

一章 光のみちしるべ

第1話 光のみちしるべ(1)


1994年 7月28日 19時20分01秒 孤星天こせいてん 旧王朝遺跡


 暗い嵐の夜だった。ばちばちと強い音を立てて激しく降る雨の中、私はどす黒い闇の道を只管に走っていた。


 ぬかるみで足を何度も滑らせては、ゴツゴツとした地面や壁にぶつかり、体の至る所に傷をつけていた。私はまるで痛みなど感じてなかった。……いいえ、本当は痛くて仕方がなかった筈。


 けれども私はそれ以上に、何かを恐れていた。今でも何を恐れていたのか分からないけれど、背後から確かに“何か恐ろしいモノ”が迫っていた。雷が轟くたびに、私は堪らず叫び、腕を無茶苦茶に振って走った。そして背後から迫る気配が去ったと同時に、私はその場所がどこで私自身が何者なのか、自分が何一つ分からない事に気付き、戦慄した。必死にそこまでの経緯を思い出そうとしたが、まるで何も思い出せない。気がついた時には既に走っていたのだ。一体いつから、何に怯えて走っていたのか考えようにも、さっきまでの出来事がまるで一瞬の様に思えて仕方がない。体中ぶつけた結果、頭がおかしくなってしまったのだろうか。


 ふと、さっきまで全身に打ち付けていた雨風が突如として止んだ――――いや、私がいつの間にか、雨の届かない洞窟のようなところに迷い込んでいたのだ。しかも、まるで何も見えなかった外の世界と違って、その空間は“ただ薄暗い”だけであって、先が見えない訳ではなかった。むしろ、奥に進めば進むほどに明るさを増していったのだ。


 その赤とも橙色とも思える光の温かさに、私の体は無意識のうちに導かれていった。いつしか洞窟の壁を形成していた岩肌は滑らかで平坦な壁に変わり、そこに何とも形容しがたい紋様が次々と姿を現した。何かの文字なのか、それとも絵なのか。何もかも忘れてしまった私の頭では、この場所が明らかな人工物であることを理解するので精いっぱいだった。だが、それまで感じていた不安や恐怖を一瞬でぬぐい去るほどに、洞窟の奥深くで光を放っていたその『像』は、強く不思議な存在感を放っていたのだ。像は黒い石でできており、全体の形は人の胴体のようだった。もしこれを身に着けるのなら相当体格に恵まれていなければならないだろう。いつしか無心になった私は、躊躇うことなくその像に手を伸ばしていた。ザラザラの石の表面は驚くほど熱く、しかし私は苦痛を感じることも、咄嗟に手を引き離すこともしなかった。その瞬間から甲高い鐘を鳴らすような音が響き渡り、像の光が一気に強さを増しはじめた。一瞬のうちに視界は真っ白に染め上げられてしまった――――


 果てしなく続く白い光の空間で突如、存在感を放つものが視界を遮った。大男が私の前に立ち、虚ろな瞳で私の顔を覗いていたのだ。浅黒い肌に数えきれない傷跡があり、全身を包む鎧も無残に破壊され、辛うじて“鎧だった”ということが分かる程度。当時の私の背丈では、彼のヘソの位置に目線が届いているかさえ怪しかった。


「私の名はクラウザー。クラウザーの幽霊」


 男は胸に手を当て、低く、そして優しく響き渡る声で言った。その瞬間からクラウザーと名乗る彼の体は完全に実体を持ち、彼にその気は無くても、私はその姿に圧倒されてしまい、声を発するのを躊躇い視線を逸らしてしまった。


「貴女の力が封印を破壊したことで、私の力は貴女のものとなった。……ご命令を」


 クラウザーは私の前に跪き、深々と頭を垂れた。状況が理解できないままの私だったが、遅れてその姿勢の意味を察して、一気に疑問を解決しようと試みた。が、何からこの男に聞くべきか迷い、すんでの所で言葉が出てこない。


「あっ……ええと……う……ウチは……?」

「…………」


 形を成さない嗚咽のような声を聞いてもクラウザーは動じなかった。私は勢いに任せて――――


「ウチは……だれ?」


 我ながら、これ以上に無い意味不明な最初の一言だ。冷静に見えるクラウザーも、流石に驚いていたに違いない。伏せていた顔をあげ、下唇を噛んで怯えていた私の顔を見るや否や、ほんの一瞬眉を寄せていた。私はもう止まらなかった。流れに任せて疑問も、ただの文句でさえぶつけようとしていた。


「なんも分かんない! ウチの事も、ここがどこで、あんたが何者なのかも! どうしてこないとこにウチはいるの!?」

「ここは私の墓です。場所を移されていなければ、惑星『弧星天』の旧王朝です」


 淡々とクラウザーが説明するが、私はその言葉を半分も理解できていなかった。自分のいる空間の異質さ、目の前の男の存在、男の言葉にある幾つかの名詞。半狂乱状態の私では手に余ることは目に見えている。それでもクラウザーは問いに対してひとつひとつ答えていくしかない。


「私はかつてここで死んだ騎士の幽霊です。封印の魔法によって精神だけが墓の中に閉じ込められていました。そして残念ながら、私は貴女のお名前も、どこから来られたのかも存じません。しかし、今から“視る”ことならできます……失礼します」


 クラウザーは立ちあがって、そっと手を私の頭に置き、指先に力を込めた。


「なにすんの……」

「私は“光の魔法使い”です。光は暗闇に隠されたものを照らし出す力。私の力は弱いですが、貴女が忘れてしまった記憶の断片を照らしてみせましょう……ッ!!」


 ほんの一瞬、耳鳴りのような音がしたと思うと、クラウザーは反射的に手を引き、目を見開いた。まるで恐ろしいものを見たかのような表情だった。


「貴女はいったい……いえ……」


 申し訳なさそうに視線を逸らしたが、彼はすぐに姿勢を正し、今度は私と目線を合わせてから言った。


「貴女の抱えた闇は私の手に負えない。唯一見えたのはどこか見知らぬ星の、炎に包まれた街だけでした」

「なんやそれ……結局なんも分からへんやないか。そもそも魔法使いやとか幽霊やとか、ちゃんと説明せえや! お家帰してや!」


 クラウザーは困ったように口をへの字に曲げながら、今度は掌を私の前に差し出した。私がそこに目をやると同時に、彼の掌の上でキラキラと小さな光が幾つも踊りだした。


「この光が私の記憶を映し出します。見ていただいた方が、私の口で説明するよりも早いかもしれません」


 光が手から飛び出し、真っ白な空間全体に広がった。私のいた光の空間の景色は、一瞬にして晴れ渡る空の下の美しい花畑に染め上げられた。慄きながらも、私はその美しい光景のお陰で心が休まり、強張った表情が自然に緩んだ気がした。


「キレイ……」

「私の心を映し出した空間です。……得意技です」

「これも光の魔法なん?」

「ええ、これは私の記憶にある千年前の弧星天の景色です」


 確証もないのに、私は『今までこんな景色を見たことがない』と思っていた。辿る記憶が頭に無くても、体の感覚が覚えていたのかもしれない。何にせよ、その瞬間私はクラウザーの言う『魔法』という存在が確かなものだと言うことを知った。が、その景色に紛れこんでいた“あるもの”に私は気付いてしまう。花畑に一人佇む赤い鎧の男だった。甲冑で顔が覆われていても、その正体がかつてのクラウザーであることは本能的に看破できた。温かなそよ風と、美しい花畑には余りにも不釣り合いなその存在感は、私の興味を惹くのに充分に効果的だった。


「呼んではいけない」


 私が一歩踏み出す直前に、クラウザーは静かに警告した。どこか冷たく強い声色に、心臓がドキリと大げさな反応を示す。


「な、なんでや?」

「映像ですから」


 口元だけ笑ってクラウザーは答えた。私が素直に従うと、クラウザーは再び手を差し出し、同時に光の空間はパズルがバラバラになる様に崩れていき、主の元に戻っていった。そこはあの薄暗い洞窟の祭壇の前、クラウザーの墓場だった。


「これあなたの墓石やったの?」


 クラウザーに問うと、彼は鎧型の石をまじまじと見つめたまま答えた。


「はい、弧星天の騎士達は死後その剣や鎧を模した祭壇に奉られます。場所を移されていないようで、助かりました。流石に三百年も経てば、祭壇が風化して辛うじて面影を残しているといったところですが」


 口から出まかせを言っていなければ、彼は三百年前に死んで以来ずっとこの場所で『封印』とやらが破壊されるのを待っていたことになる。恐ろしいことや気色の悪いことの妄想とは何故だが嫌でも勢いよく膨らむもので、長い長い時の中、石に縛り付けられ続ける自分の姿を想像して、嫌な鳥肌が立った。遅れてまた、不安が頭上からのしかかってくる。


「…………お家、帰れるんやろか」


 ほんのり湿った岩に腰をおろし、私は大きくため息をついた。そもそも私は誰で、どこから来たのかさえ分かっていない。クラウザーについて、完全に信用できるかと言われたら、そんなことはない。警戒は薄れていたが、『魔法』なる得体の知れない能力を見せつけられた上で僅かに心を許せただけ良く進歩したものだ。ただこのときようやく私は自分が素っ裸であることと、体中傷だらけという事実に気付き、やっと目の前の男の視線を意識した。


「みーるーなーや!」


 クラウザーは「失礼」と一言だけ口にし、回れ右した。


「その……光の魔法やっけ? それで服とか出せへんの?」

「お召物の実物は用意できませんが、代わりにこういったモノなら……」


 背中を見せたままクラウザーが掌から光を放ち、私の首から下をすっぽりと包みこんだ。光はまるで粘土の様にグチャグチャと形を変えていき、最後には真っ白なワンピースの形になった。


「おお! やるやん!」


 さっき見た『景色を変える魔法』よりも規模は狭いが、正直こっちの方が驚いていたかもしれない。ただ、すぐに私は臀部に感じた冷たい感触からこの“服”の欠陥に気付いてしまう。


「って、うぎゃー! お尻冷たい冷たい!」


 腰かけていた岩が服をすり抜け、素肌に触れていたのだ。まるでそこには何も無いように布の肌触りを感じることが無い。ここでやっと、私はこの“服”がただの映像に過ぎないことに気付く。


「私の力量では質量を持たせることまでは出来ないのです。しかし、肌を隠すことと体温を保つことはできます」

「そういう問題やないでしょ! 素っ裸に変わりないやないか! うちは変質者か!」

「申し訳ありません……」


 相当この魔法に自信があったのだろう、あからさまに落ち込むクラウザーの背中を見て、私はそれ以上怒鳴れなくなってしまった。とりあえず傍から見れば裸とは分かるまいと、無理やり納得せざるを得なくなった。しかしそれでもまだ、私はこの男に聞かなければならないことがある。


「ねぇ……ウチは何も憶えとらんのやけど、ウチの抱えた闇……やったっけ? いったい何が見えたの?」

「……夜空の闇よりも深く、一歩踏み込めばそのまま引き込まれ、永遠に沈んでいくような……恐ろしい破壊の力です。憎悪から生まれ、あらゆる生命を焼きつくさんとする強い意思が、それを見た私にさえ牙を剥こうとしていたのです」

「別にウチ、あんたに噛みつこうなんて思うとらんで?」


 クラウザーは首を横に振り、言葉を続けた。


「貴女の意思とは違う何者かの力です。まるで巣食うようにして、貴女の中に潜んでいるのです。私の封印を破壊し、従属の契約を結ばせたのも、恐らくその力の影響です」


 それを聞いた途端に何だか後ろめたい気持ちになってしまい、返事の一言さえ迷ってしまった。これまでの尊大な態度も、私よりも極端に年上のクラウザーの癇に障っていたかもしれない。私は無言で頭を下げ、さり気なく謝る素振りを見せたが、肝心なクラウザーがこちらに背を向けたままなので無意味に終わった。


「契約って言うけど、あんた……あなたは嫌やないの? ウチみたいなチビ相手に」

「私は騎士です。騎士は主に仕えてこそ力を発揮出来ます。……正直な気持ちを言っても、よろしいですか?」


 間を空けてから妙に甲高くなった声色に、私は怪しむこともなく、


「最初から素直に言えばええんやで。むしろ、ウチの前で嘘や隠し事はゆるさへん!」

「美しい主と出会え、気持ちが昂ぶって仕方がありません」


 余計なことを聞いたものだ。その時の私は照れくさくて仕方がなく、それを誤魔化すために手段を選ばなかった。


「なんやそれ! あんたやっぱりウチの裸みて興奮しとんちゃうんか!」

「申し上げにくいのですが、死して尚“雑念”から逃れられない運命にあるようです。貴女の美しい白い肌に、か細い四肢、薄紅色の……」

「それ以上はアカン! 恥ずかしい!」


 適当に掴んだ小石を滅茶苦茶な方向に投げて抵抗したが、どうにもこの男は酷く面倒な性格らしい。ただ、お陰で私はようやく“自分自身の容姿”さえも分からないことに気付き、冷静さを取り戻した。


「ねぇ……えーと……クラウザー……やっけ? 光の魔法でウチの顔見せてや。ウチ自分の顔がどーなっとるかさえ忘れとるんや」

「私の稚拙な技で貴女の美しさを表現できるとは思えませんが、死力を尽くしましょう」

「そんな強張らんでえーよ」


 さて、どんな不細工がお出ましするのかと身構えた直後に、クラウザーの手から放たれた光が人の形を作っていき、少女の姿―――私自身を映し出したのだ。十歳に満たないであろう、見事なイカ腹の典型的な幼児体型だ。目を引くのは膝裏まで伸びた真っ赤な髪と、少しつり上がった赤い光彩の目だ。間抜けな話だが、そこまで悪い顔でもないと自分で思ってしまい、後でそのことを思い出して自己嫌悪に走ることが多々あった。


――――ただやはりと言うべきか、素っ裸で、一々胸元や臀部を強調させるポーズをとらせるのはどうにかならなかったのだろうか。背中を向けたままの彼に軽蔑の眼差しを向けても効果が無いのが妙に悔しい。


「……って、もうええわーい!」


 やっと遠慮せずに石をぶつけてやったのは、映像の私が恍惚とした表情を見せて、両手で平らな乳房を寄せ始めたときだった。


「私としたことが……」

「騎士とか大層なこと抜かしといて、とんだおっぱい星人やないかい!」

「勿体ないお言葉です」

「褒めとらんわどアホ!」


 二発目をお見舞いしてから、私は不貞腐れてその場を離れ、洞窟の入り口から外の様子を覗いた。相変わらず激しく雨が降りしきり、風と雷が咆哮の様な音をたてている。流石に映像の服では誤魔化し切れず、地肌に冷たい感触が打ち付けた。


「すっぽんぽんやなくても風邪ひいてまうわ……雨があがるまで待たなアカンか」


 覚悟はしていたが、見るからに寝心地の悪いこの洞窟で寝なければならず、私は肩をすくめた。隣に妙な性癖の持ち主がいるのも気がかりだ。横になった瞬間に襲われないだろうか。何せ私は文字通り一糸纏わぬ状態だ。


「ちょっと、ウチが寝とる最中にヘンなことしたらアカンで!」

「滅相もない」

「ホントやろな」

「嘘をつくなとご命令を承ったので」


 もしかすると、案外この男は律儀で馬鹿正直な性格なのかもしれない。そう自分に言い聞かせて無理やり安心させ、それでも尚半信半疑であったが、私は固い地面に仰向けになった。やはり寝心地は酷い。何より自身のこれからを思うと気が気ではなく、とても寝付けない。


「なあ、クラウザー……さん?」


 声をかけるだけで必要以上に時間がかかったのは、何だかんだクラウザーのことが怖かったのと、横柄な態度をとったことを後ろめたく感じていたからだ。彼の本心は分からなくても、こんな“ちんちくりん”の小娘に礼をもって接した男に、あろうことか投げつけたのだ。


「どうされました?」

「ゴメンな……やっぱウチ、眠れんわ。うちがこれからどうすればいいのか分からへんし、あなたに嫌な思いさせたよね……?」


 クラウザーはすぐには応えなかった。砂利の擦れる音がしてから、私のすぐ傍で静かな声で言った。


「光の魔法は閉ざされた未来さえも見通すことができます。あくまで可能性ですが、近い未来まで貴女は確実に生きている。心配は要りません。その未来では大人になった貴女の隣に、多くの仲間達がいるように視えました」

「未来……」

「そうです。貴女には明日も明後日も、その先もある。そしてその日々を共に過ごす仲間もいる。私が必ずその未来へと貴女の手をとってお連れしましょう」


 私は安堵しきっていた。彼の言葉には魔力でも秘められているのか、それとも私が単純なのかは分からない。単に彼の落ち着いた低い声が子守唄代わりになったのかもしれない。眠気が音もたてずにやってきて、私の意識は段々と、優しい夢の中に落ちていこうとしていた。


「ちなみに、石をぶつけられる程度では、わたしのマゾヒズムは満たせません」

「台無しやないかーい! 折角眠れそうやったのに!」


 勢いよく上体を起こし、喰らいつくようにクラウザーに顔を寄せて怒鳴りつけるが、クラウザーはちっとも怯まない。むしろ嬉しそうなのが腹立たしかった。


「……差し支えなければ、子守唄か膝枕でも」

「両方やってもらおうやないか! ウチが眠れるように全力を尽くさんかい!」


 クラウザーが正座をしてすぐ、その膝に頭を乗せて仰向けになり、目を閉じた。が、自分の言葉を思い返し、オペラめいた荘厳な歌を披露するクラウザーの姿を想像し、嫌な汗が湧いて出た。


「……全力言うても加減があるからね」

「それは承知しています。私の手で貴女に不快な思いをさせるなど」


 ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべているに違いない……と思いつつほんの一瞬だけ細く眼を開いたが、意外にもクラウザーはじっと目を閉じており、嫌らしいどころか寧ろ優しい微笑みを見せつけてくれた。私は何故だか敗北した気分に襲われていた。


「――――優しい炎 北の獣の謳う炎」

「それは?」

「古い童謡です。うろ覚えですが……」

「……聞かせて」


 どこか自信のなさそうなクラウザーだったが、小さく頷いてもう一度歌声を響かせた。


――――眠れ眠れ 愛しいひと 女神の光に包まれて もう一度世界が巡りだすまで  壊れた神が気付かぬように 静かに静かに眠れ――――


 そのまま眠りに落ちて以来、あの子守唄を聴かせてもらうことはなかった。唄はそこで終りだったのだろうか。それとも続きがあるのか。歳を重ねすぎるとなんだかくすぐったくて、訊くに訊けなくなってしまった。


――――夢の中で私は、見覚えのある風景を目にした。明確にどこなのかは思い出せないが、私はその静かな街に確かに来たことがある。雪と、煉瓦の建物と、石畳の道。そこには薄紅色の花が咲く木がいくつもあって、けれどほんの少し肌寒い。私の意思とは関係なく勝手に足が動きだし、夢の中の私はその道をゆっくりと進んでいった。現実ではないからか、木漏れ日に照らされても眩しさを感じない。この先に忘れてしまった記憶のヒントがあるのだろうか。まんざら期待してなどいなかったが、もし手掛りの一つも無ければ、起きた後で今のところ少しも役に立っていない私の脳みそを叱責してやろうと考えていた(具体的に何をどうするかは考えなかったが)。


 石畳の道は、小さな池のある公園のような場所に続いていた――――そこまでは覚えている。いかんせん、夢とはふとした拍子に忘れてしまいがちだ。結局この頭の中身が役立たずということだけ証明して、音も立てずに消え去ってしまったのだ。

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